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DIVINE DELIVERANCE  作者: 藤山理想


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3/10

3#Rainy Resolve

 窓の外では、朝から降り止まない雨が絶え間なく街を濡らしていた。部室の窓から外を眺めると、いつもより湿気がこもり、じっとりと蒸し蒸しとした空気が肌に纏わりつく。


 窓辺で頬杖をつき、鉛色の空から落ち続ける雨粒をぼんやりと見つめていた。季節が夏へと移り変わる直前の、この梅雨の時期。周囲は憂鬱がることも多いが、私にとっては意外にも嫌いではなかった。すべてを洗い流してくれるかのような、どこか静かで不思議な感覚。普段は騒がしい通りも、雨の日は人通りが少なく、傘をさして歩く自分だけの不思議な解放感がある。

「雨も、悪いものではないよね」

 誰に聞かせるでもなくそう呟き、心春は窓越しに見える雨の校舎裏を、のんびりと眺め続けていた。


「どうしたの? そんなに雨が珍しい?」

 部室の扉を開けて入ってきた部長の牧田真希――まきまきは、いつものように穏やかな笑みを浮かべてそう尋ねた。心春にとって一つ年上の彼女は、後輩である自分に対しても誰に対しても、一切の垣根を作らない。その優しさに、心春は自然と口元を緩める。

「いえ、ここから見る雨もいいなーって眺めていたんです」

 心春が素直に笑って返すと、まきまきは「変な心春ちゃん」と楽しげに笑いながら、自身の椅子へと腰を下ろした。

 その直後、今度は香織が部室へと入ってくる。二人が揃ったことで、部室内の空気が少しだけ賑やかになった。これから二人はどんな他愛のない話をするのだろうか。窓辺に身を置いたまま、窓の外で降り続く雨音をBGMにして、静かに二人の会話に耳を澄ませる準備をしていた。


 ふと携帯を手に取ると、画面には登録のない番号が表示されていた。短い通知音ではなく、持続するバイブレーションの感触が、それがただのメールやLINEではないことを直感させる。

「ごめんなさい、少し電話出ますね」

 そう言って立ち上がると、まきまきは何も聞かずににっこりと親指を立ててみせた。

 部室の隅、窓際の雨が打ち付ける方へと体を向け、そっと通話ボタンを押した。

「……はい、坂東です」

 耳に当てたスピーカーから聞こえてきたのは、微かな雑音混じりの、しかし聞き覚えのある声だった。

「JINだ」

 ただ一言、用件を告げる前の名乗り。なぜ彼が自分の番号を知っているのか、そしてなぜ今電話をかけてきたのか。心春の心臓が少しだけ早鐘を打ち、雨の音が遠ざかっていくような緊張が背筋を駆け抜けた。心春は身を硬くし、次の言葉を待った。


「申し訳ないが、少し『gimlet』まで来てくれないか?」

 JINの声は、冷徹なまでの冷静さを保っていた。その要求を聞いた瞬間、心春の脳裏には一年前、ロキと共に訪れた『gimlet』の情景が鮮やかに蘇る。しかし、それと同時に冷や汗が背筋を伝った。

 これまで、JINから直接呼び出しを受けたことなど一度たりともない。心春にとって公安との窓口は常にレイラであり、彼女は心春を組織のドロドロとした内情や危険から遠ざけようと腐心していた。

 そのレイラを通さず、JIN本人が直接連絡を取ってくるという事態。それが何を意味するのか、心春の胸中で警鐘が鳴り響く。


「……今から、ですか?」

 混乱を隠しきれない声で問い返すと、JINは短く、有無を言わせぬ調子で返した。

「出来れば早めに頼む」

「分かりました」

 それだけ答えて電話を切った。部室の静けさが、先ほどまでとは別物のように感じられる。雨音は変わらず降り続いているが、心春を包む空気は急速に冷え込み始めていた。彼女はスマートフォンを握りしめたまま、部室のドアを見つめた。

「ごめんなさい、ちょっと急な用事ができちゃって……」

 心春は申し訳なさそうに二人へ声をかけた。部室の空気がわずかに緊張を帯びたことに気づいているのかいないのか、まきまきと香織は顔を見合わせ、「気にしないで」「大丈夫だよ」といつもの明るい笑顔で背中を押してくれる。

「ありがとうございます」

 カバンを肩にかけ、もう一度だけ二人の方を向いて深々と一礼した。部室の扉を閉めると、校舎の廊下には静かな雨の音が響いている。

 JINからの唐突な呼び出し。それが何を意味するのか、心春にはまだ理解できなかった。


 私は傘を差し、雨に煙る灰色の街路へと一歩踏み出す。目指す先は、記憶の片隅に刻まれたBAR『gimlet』。その扉の向こうに待ち受ける「異常事態」の正体を知るために、彼女は雨音の中を歩き出した。





 BAR『gimlet』の扉は、雨音を遮断するように重く、近寄りがたい空気を湛えていた。その扉を押し開け、傘を閉じて雫を払う。一年前、ロキと共にこの場所を訪れたときの記憶が呼び覚まされ、胸の奥がキュッと締め付けられるような緊張感が走った。


 店内の光景は、一年前とほとんど変わっていなかった。静まり返った店内に並ぶ酒の瓶、そしてカウンターの奥で無表情に佇むJIN。

 しかし、そこにいる人物だけが決定的に異なっていた。

 カウンターには、レイラさんやシンヤさんの姿はない。代わりに、短く切り揃えられた赤髪のスーツ姿の男と、ワンピースに身を包んだ、小学生ほどの年齢に見える金髪の少女が座っていた。


「急に呼び出して悪かった。座ってくれ」

 JINに淡々と促され、心春は傘を丁寧にまとめると、緊張に強張る体をゆっくりと動かした。男と少女のちょうど真ん中、空いていた席に腰を下ろす。周囲を包む異質な空気に、喉の奥を鳴らして唾を飲み込んだ。


「あんたが心春ちゃんだね」

 少女の声は子供特有の鈴を転がすような響きを持っていたが、そこに宿る落ち着きは実年齢を疑わせるほどに大人びていた。心春は直感的な違和感を覚えつつも、相手を尊重して丁寧に頭を下げた。

「はい、そうです。坂東心春です。よろしくお願いします」

 心春が真っ直ぐに視線を戻すと、JINが短く彼女たちを紹介した。

「この子は公安ZERO課のアストの所長だ」

 JINの言葉を受けて、金髪の少女はふわりと笑みを浮かべる。彼女の表情には、子供らしい純粋さと、どこか研究者然とした鋭さが同居していた。

「Anomalous Science Taskforce、通称アスト。超常科学を研究してるのさ」

 心春が再び丁寧な礼を返すと、金髪の少女は心春を品定めするように眺め、「礼儀正しいいい子じゃないか」と満足げに笑った。

「あたしはキャサリン。キャシーって呼んでくれて構わないよ」

 少女はそう自己紹介し、楽しげに肩をすくめた。心春は目の前の少女が所長という重責を担っていることに驚き、「お若いのに所長なんて、凄いです……」と純粋な感嘆の声を漏らした。

 するとキャサリンは、子供らしいあどけない表情を崩し、からからと笑い声を上げた。

「もう50過ぎてるよ」

 どこからどう見ても、十歳そこそこにしか見えない可憐な少女の口から語られた事実に、心春は絶句した。驚きを隠せない様子の心春に、キャサリンはさらに言葉を重ねる。

「落神の呪いか、寵愛か。アタシは歳を取らないんだ」

 ロキという、同じく時を止めた存在を知っている心春だったが、彼以外にも不老のまま生き続ける者がいたことに、深い衝撃を受けた。


 心春の動揺を見透かすように、キャサリンは彼女の目を真っ直ぐにジッと見つめた。

「現象は違っても、あんたと同じさね」

 その言葉には、ただの不老という共通点以上の、何か重たい運命を共有しているかのような響きが混じっていた。心春は自分が何者かと比較されているのか、あるいは同類としてカテゴライズされているのかという不安に駆られながら、キャサリンから視線を逸らすことができなかった。

 その目を見つめ返すようにキャサリンは値踏みするように心春を見つめた。

 その視線はまるで、人間を見るというより、何かを確認しているようにも思えた。

「……なるほどね」

 小さく呟いたその声の意味を、心春は理解できなかった。


 その時、隣に座っていた赤髪の男が静かに身体を向け、「この度はご愁傷さまでした」と、心春に対して深く礼をした。唐突な言葉と厳粛な態度に、心春は訳も分からぬまま釣られるように、反射的に礼を返してしまった。

 男は顔を上げると、心春に向けて悲しげな眼差しを向けた。

「俺、ロキさんに命を助けられてから、ほんとに大ファンで……まさかあの人が死ぬなんて想像してなくて……」

 男の目には、隠しきれない涙が浮かんでいた。

 先ほどの言葉がロキに対する弔意だったのだと気づいた瞬間、心春の胸の奥が熱くなる。ロキという人物に対して、これほど純粋に、感情を露わにして想いを伝えてもらえたのは、心春にとって初めての経験だった。


 男は涙を拭うと、気を取り直したように一度深呼吸をした。

「あ、すいません。自己紹介まだでしたね。俺は闘志と申します」

 そう言って闘志は再び礼をする。心春もまた、背筋を伸ばして丁寧に頭を下げた。

「坂東心春です」

 名乗り合う言葉とともに、店内に流れる重苦しい空気が少しだけ変化した。

「公安ZERO課、中部支部支部長だ」

 JINが淡々とした口調で、隣の男――闘志の肩書きを補足した。この場に支部長クラスの人間が揃っているという事実に、心春は内心で驚きを隠せない。一体、自分のような者がなぜこのような重鎮たちに呼び出されたのか。その疑念が深まる中、闘志が居住まいを正して口を開いた。

「申し訳ない、今日お呼び出ししたのは……自分がお願いしたからです」

 闘志の言葉に、心春は身構えた。組織からの尋問か、あるいは何らかの任務への強制招集か。覚悟を決めてその続きを待つと、闘志は申し訳なさそうな表情で呟いた。

「ロキさんが使っていた銃。……あれを一目見たくて」

 予想もしなかった言葉に、心春は瞬時に反応できず、戸惑いで思考が停止する。「……全然いいですけど」と困惑混じりに答えると、闘志の表情は一転してパッと明るく輝いた。

「ありがとうございます! すぐいきましょう!」

 少年のような勢いで席を立ち、スーツの皺を整える闘志を、心春はただ唖然と見上げていた。そんな心春の様子を察したのか、JINが短く告げる。

「すまんな。ロキの遺品を見せてやってくれ」

「……分かりました」

 心春は静かに席を立つと、案内役を買って出るように出口へと向かった。JINとキャサリンに一礼をし、湿った空気の漂うバーの外へと出る。雨は依然として降り続いていた。


 雨の中、二人は並んで歩き出した。闘志は傘を差しながら、かつてロキに命を救われた時のことを、当時の興奮がそのまま蘇ったかのように熱っぽく語り続けた。

「あの時から、ずっと俺の憧れなんですよ」

 そう語る闘志の瞳は、まるで少年のように純粋な輝きを宿している。その様子に、心春は思わずふっと笑みをこぼした。この人は本当に、心からロキのことを敬愛していたのだ。そう実感すると、胸の奥には冷たい雨の寒さを忘れさせるような、暖かな感情がゆっくりと広がっていった。


 やがて『BlueMonday』の前に到着し、心春が重いドアを開けて闘志を招き入れた。

「うわあ……」

 部屋に足を踏み入れるなり、闘志は感嘆の声を漏らし、子供のように辺りをきょろきょろと見回している。心春が「この部屋、来たことありますか?」と尋ねると、彼は懐かしむような手つきでロキのデスクに触れながら、静かに答えた。

「昔、一度だけね」

 闘志の手の動きには、彼が大切に抱いてきた思い出の重みが滲んでいた。心春はその背中を見つめながら、静かな探偵事務所の中で、今は亡きロキの気配を感じ取ろうとしていた。


 心春はロキのデスクの一番上の引き出しを静かに引き、その奥に眠っていた二丁の銃――デザートイーグルとレッドホークを取り出した。

 銃を差し出すと、闘志の瞳は先ほどにも増して強く輝き、彼はまるで壊れやすい宝物を扱うかのように、おそるおそるデザートイーグルを両手に持ち上げた。その重みを確かめるようにゆっくりと感触を味わう闘志の姿を、心春は静かに見守る。

「……今でも、しっかり手入れをしているんですね」

 闘志が小さく呟いた。心春には、これほどの火力を持つ銃を完全に使いこなすことはできない。それでも、メンテナンスだけは欠かさず続けていた。ロキがもう二度と帰ってこないことは分かっている。それなのに、いつ戻ってきてもいいように――そう願わずにはいられない、祈りに似た不思議な感覚を心春はずっと抱え続けていた。

 しかし、その胸の内にある想いを言葉にして伝えることはできなかった。


 やがて、闘志はデザートイーグルを丁寧にデスクへと戻すと、意を決したように問いかけた。

「……ロキさんは、どうやって死んだんですか」

 その言葉は、静まり返った探偵事務所の空気を一変させた。心春にとって思い出したくもない、しかし決して忘れることのできない神戸岩での惨劇がフラッシュバックする。

「私を守って……殺されました」

 心春は絞り出すようにそう答えた。それは誰かに事実を伝えると同時に、自分自身の中で決して消えない喪失の事実を改めて確かめ、言い聞かせているような感覚だった。


 闘志は胸に手を当て、深く静かに目を閉じた。彼からは何も言葉が発せられなかったが、その横顔からはロキを失ったことへの深い悲しみと、静かな痛みが伝わってくる。しばらくの沈黙の後、闘志は噛みしめるように言葉を吐き出した。

「僕の知っているロキさんは……誰かを庇うような人ではなかった」

 そう言って一度言葉を切ると、闘志は悲しみに満ちた、それでもどこか温かな笑顔を心春に向けた。

「きっと、本当にあなたが大切だったんでしょうね」

 その言葉を耳にした瞬間、心春の目からは涙が溢れ出た。止めようとしても、温かい雫は次から次へと頬を伝って落ちていく。

「ごめんなさい、余計なことを言いました」

 闘志は慌てたようにそう言って心春を気遣った。心春は震える手で目元を拭い、鼻をすすりながら小さく首を横に振った。

「いえ……少し、思い出してしまって」

 探偵事務所の静寂の中に、外の雨音がいつもよりずっと冷たく、そしてどこか優しく響いていた。ロキの死は決して整理のつくものではない。けれど、彼が心春を想って散ったのだという事実が、誰かの言葉として承認されたことで、心春の心は少しだけ救われたような、あるいはより深く傷ついたような、複雑な感情に揺れていた。


「今日は、本当にありがとうございました」

 闘志はそう言って、玄関先で深々と礼をした。心春もまた、彼に対して心からの感謝を込めて頭を下げる。去り際に闘志は一度だけ振り返り、穏やかな眼差しで心春にこう告げた。

「ロキさんが命を賭して救ったあなたなら、きっと大丈夫」

「……はい」

 心春は、涙の痕が残る顔で、しかしこれまでよりもずっと力強い笑顔を彼に向けて返した。闘志の背中が雨の向こうへと消えていくのを見送り、心春は静かにドアを閉める。


 安楽椅子に深く腰を下ろすと、視線の先にはデスクの上に置かれたままの二丁の銃があった。

 闘志との対話を通じ、心春は自分自身を覆っていた厚い鎧が剥がれ落ちていくのを感じていた。これまでずっと強がっていたこと。平気なふりをして無理を重ねていたこと。そして、心の奥底で癒えることなく繰り返されていた喪失の傷跡。そのすべてを、今の心春はまっすぐに見つめることができた。


 もう、逃げたりはしない。


 すべてを飲み込んで、その痛みさえも強さに変えていく。ロキが命を懸けて守り、大切にしてくれた私であるならば、きっといつか彼の背中を超えて強くなれるはずだ。


 心春はレッドホークをそっと手に取り、掌に馴染むグリップの冷たい感触を確かめた。それはロキが生きた証であり、同時にこれからの自分を支える意志の象徴でもあった。

 心春は銃を丁寧に引き出しの中へと戻し、その隣にデザートイーグルを並べて置いた。閉ざされた引き出しの中で、二丁の銃は静かな眠りにつく。

 心春は決意を胸に、暗闇の残る事務所で小さく息を吐いた。雨音は先ほどよりも遠く、どこか心地よいリズムに変わっていた。


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