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DIVINE DELIVERANCE  作者: 藤山理想


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2/10

2#Stray Search

 朝の日差しが柔らかく降り注ぐ、ゴールデンウィークの爽やかな朝だった。学校が休みとはいえ、体が鈍ることは嫌だったので、早朝からランニングに精を出していた。


 かれこれ一時間は走り続けていただろうか。蓄積した疲労が、重たく熱を帯びた足の先から全身へとじわじわと伝わってくる。


 その時、住宅街の合間に見慣れない公園を見つけた。普段の生活圏では見かけないその場所には、どこか未知の探索のような気配があり、心春はなぜか胸がワクワクするのを感じた。

「……少し、休憩しようかな」

 心春は足を止め、公園の中へと足を踏み入れる。木陰にひっそりと佇むベンチに目を留めると、そこに深く腰を下ろした。一時間走り続けた身体が休息を求め、静かな公園の空気が荒くなった呼吸を優しく溶かしていく。


 公園の時計の針は朝の5時を指していた。街が静かに息を吹き返し、朝露を纏った景色が陽光を浴びてキラキラと輝き出している。ベンチに座る心春の火照った体には、木漏れ日が優しく降り注いでいた。適度な疲労感と静寂が重なり、走り終わった直後でなければ、そのまま眠りに落ちてしまいそうなほど心地よい時間が流れている。


 ゴールデンウィーク期間中、オカルト研究部の活動は休みだ。部長のまきまきが実家へ帰省するため、部の予定は完全に白紙となっていた。香織とは最近少しずつ言葉を交わすようになり、距離は縮まりつつあるものの、二人で連れ立って休日を過ごすほどの親密さには至っていない。

 寂しいという感情はなかった。ただ、クラスメイトである香織との適切な距離感が、心春にはどうしても掴みきれずにいた。

 香織のことは決して嫌いではない。むしろいい子だと感じているし、好感さえ抱いていた。

 しかし、自分の足元に広がるこの危険な世界が、もし香織を巻き添えにして牙を向いたなら――。そう想像するだけで、無意識のうちに一線を引こうとしてしまうのだった。


 心春はジャケットの中に手を差し入れ、腰に固定されたホルスターの銃にそっと触れた。金属の冷たい感触が、ランニングで火照った肌の熱をじわりと奪っていく。

 今や心春の生活に欠かせないものとなったグロック。それはただの兵器ではなく、常に背負うべき運命を象徴する、紛れもない愛銃そのものだった。


 公園の広場の中央、木漏れ日の下を、一匹の猫が優雅に歩いていた。それは美しい毛並みを持つアメリカンショートヘアで、首元にはしっかりと首輪が光っている。

 野良猫のような研ぎ澄まされた獣の殺気とは無縁な、どこか温和なその佇まいは、一目で飼い猫だとわかった。

 その姿を目にすると、思考はふと自分自身の立ち位置へと逸れていく。


 私は、誰かに守られ、繋ぎ止められている「飼い猫」なのか。それとも、この危険な世界をただ一人で彷徨う「野良猫」なのか。そんな、答えの出ない、どうでもいいことを考えてしまっていた。


 猫は立ち止まると、何かをじっと見つめるように公園の隅に視線を固定した。

 猫の瞳には、人間には見えない何かが映っているのだろうか。猫の視線の先を追い、神経を集中させて目を凝らしてみたが、そこには朝の澄んだ空気があるだけで、何の手がかりも掴むことはできなかった。


 ベンチから立ち上がり、猫を驚かせないよう慎重に歩み寄った。逃げられることを覚悟していたが、猫は心春を一瞥すると、意外にも人懐っこくその足元へ擦り寄ってきた。自分の方から近づいてきてくれたことに驚きつつ、ゆっくりと腰を屈める。

 指先でその顎の下を優しく撫でると、猫は満足げにゴロゴロと喉を鳴らした。その愛らしい表情に、心春の強張っていた表情も思わず綻び、自然と笑みがこぼれた。

 首輪には「ニャン」というカタカナが刻まれている。名前なのか、あるいは単にこの子の鳴き声が書いてあるだけなのかーー。心春は前者が正解だろうと小さく推理を巡らせた。


「キミもちゃんとおうちに帰るんだよ」

 心春がそう声をかけて立ち上がると、猫は別れを惜しむように心春の足元に体を擦り付けてから、再び公園の外へとゆっくりと歩き出した。

 街が本格的に騒がしくなる前に帰ろうと、心春もまた踵を返す。朝日を背に受けながら、探偵事務所『BlueMonday』への帰路につく心春の足取りは、先ほどまでのランニングの疲れを感じさせないほど軽やかだった。





 帰路の途中、喫茶店『三葉』のモーニングで空腹を満たそうと考えていた。しかし、店先に掲げられた「定休日」の看板に足を止める。基本的には毎日営業しているはずだが、時折こうして休むことがあるということを、最近知ったばかりだった。荒波さんにもプライベートはあるのだ。


 結局そのまま『BlueMonday』へと戻った心春は、タオルを水で濡らし、火照った首元を拭うことで汗を拭き取った。

 探偵事務所を名乗るこの場所には、浴槽はおろかキッチンも最低限の設備しかなく、本格的な料理を期待することもできない。

 近隣にある「丸出銭湯」には毎日お世話になっているが、さすがにこの朝の早すぎる時間帯では営業していない。シャワーの代わりとなる濡れタオルで身体を拭いながら、心春は静かな事務所の中で一息ついた。


 デスクの前の安楽椅子に深く背を預け、再度安堵の溜息をついた。早起きがたたったのか、ランニングの疲れが今更になって全身を重くし、瞼がとろりと落ちそうになる。このまま深い眠りに身を委ねるか、それとも頭を切り替えるために3階の射撃場へ向かうべきか――迷っている最中、事務所の扉がコツコツと乾いた音を立ててノックされた。


 こんな時間に訪ねてくる人間など限られている。心春はレイラだろうと当たりをつけ、緩んだ空気を瞬時に戦闘の緊張感へと引き締め直してからドアを開けた。

 しかし、そこに立っていたのは、いつもの凛とした佇まいのレイラではなかった。見ず知らずの、背の曲がった老婆が一人、不安げに立っていたのだ。一瞬、自分の脳内で描いていたレイラがこの老婆にすり替わったような錯覚に陥り、戸惑いで思考が凍りかけた。

 だが、そんな混乱を許す余裕はない。心春が呆然とする間も、老婆は躊躇なく事務所の中へと足を踏み入れてきた。

「ここが探偵さんのいるとこかい?」

 老婆は心春の反応を待つでもなく、穏やかながらも芯のある声で問いかける。その手には、ペットを運ぶためのプラスチック製のカゴがしっかりと握られていた。


 突然の来訪者に思考が追い付かないまま、老婆を招き入れる形となってしまった。老婆は事務所のソファに腰を下ろすと、周囲を静かに見回す。悪い人では無さそうな事はわかった。何の用かわからないが、とりあえず温かい飲み物でも出そうとキッチンへと足を向けた。

「あなたが探偵さんなの?」

 背後から投げかけられた声に、足が止まる。先ほど玄関で聞いた「ここが探偵さんのいるとこかい?」という言葉が、ようやく心春の意識の中で意味を持って繋がった。この人は、探偵事務所に依頼しに来た依頼人なのだ。


 喉の奥まで「私は探偵ではない」という否定の言葉がせり上がってきた。しかし、振り返った心春の目に映ったのは、純粋な期待と親愛を湛えた老婆のにこやかな笑顔だった。

 その柔らかい表情を前にして、心春は言葉を飲み込んでしまう。否定して追い返せば済む話なのに、なぜかそれができなかった。

「えーっと……私が所長代理です」

 心春はソファの端に腰を下ろしながら、努めて冷静にそう答えた。

 心の中で、かつてこの事務所の主だった男の姿を重ねる。ロキさんであれば、たとえどんな依頼であれ、まずは相手の話に耳を傾けただろう。厄介事や落神に関わらない内容であれば、最後には適当な理由をつけて断るにしても、目の前の人間を無下に追い返すようなことは、決してしなかったはずだ。


「若いのにすごいねぇ」

 おばあちゃんは心春の言葉を微塵も疑う様子なく、ただただ温かな笑顔でそう言って目を細めた。

 孫を見るようなその純粋な眼差しを向けられ、心春は胸の奥が少しだけ痛むような、申し訳ない気持ちに駆られた。自分は本物の探偵などではない。ただの女子高生です、すいませんと心の中で謝った。

 しかし、立ち止まってはいられない。心春は己の罪悪感を振り払うように、静かに尋ねた。

「それで……今日は、どのようなご依頼で?」

 その問いに、おばあちゃんは膝の上のカゴにそっと手を添え、少しだけ寂しそうな顔で口を開いた。

「うちの猫が昨日から姿が見えなくて……」

 おばあちゃんが語るその言葉に、心春は内心で小さく溜息をついた。案の定、ありふれた迷子探しの依頼だ。ロキなら鼻で笑って、「うちは人探しや浮気調査が専門だ」とでも言って断っていただろう。だが、この切実な表情を浮かべる老婆を前にして、心春にはその言葉を口にする勇気がなかった。


「その猫の写真とか、ありますか?」

 そう問いかけた瞬間、もう引き返せないという自覚が胸を過った。一度引き受けた以上、探偵としての責任が生じる。けれど、目の前のおばあちゃんを見捨てて事務所から追い出すことなど、どうしてもできなかった。


 おばあちゃんは、心春が依頼に応じる姿勢を見せたことを悟ったのか、パッと表情を明るくした。

「この子なんだけどねぇ」

 懐から取り出された一枚の写真。それを受け取り、何気なく視線を落とした。

 写真の中に収まっていたのは、つい先程公園で出会い、顎を撫でてやったあのアメリカンショートヘアそのものだった。あの時、首輪に「ニャン」と刻まれていた猫。

 心春は心臓が跳ね上がるのを必死に抑え、努めて冷静な表情で写真を見つめる。偶然にしてはあまりに出来すぎた符号に、神様は何を考えているんだろうとぼんやり思った。





 片手に持ち運べるキャリーカゴを提げ、再びあの公園へと向かっていた。早朝の澄んだ空気はどこへやら、時刻は昼前に差し掛かり、街には人通りが増え始めている。


 公園のベンチ周辺を中心に視線を巡らせるが、先ほどまでそこで優雅に歩いていたアメリカンショートヘアの姿はどこにもない。心春の思考は「もしかしたら、またこの場所に戻ってきているのではないか」という推理を立てていたが、現実はその想定を外れ、猫の気配すら感じられなかった。


 賑やかになり始めた街の喧騒の中、猫のような警戒心の強い生き物が好んで留まる場所ではないのかもしれない。早起きによる身体的な疲労と、睡眠不足からくる微かな眠気が、心春の思考をわずかに鈍らせる。心春は時折、重くなる瞼を擦りながら、周囲の木陰や植え込みに目を凝らし、根気強く「ニャン」の行方を追い続けた。


 公園の喧騒から離れ、住宅街へと足を踏み入れようとしたその時、「心春ちゃん」と背後から声をかけられた。

 振り返ると、朝のイメージの中に出てきたレイラが立っており、そのすぐ後ろにはシンヤの姿もある。


「レイラさん!」

 心春は思わず声を弾ませて駆け寄った。レイラは変わらぬ優しげな微笑みを浮かべ、「ゴールデンウィークは満喫してるの?」と問いかけてくる。いつも自分を気にかけてくれるその言葉に、心春は胸の奥がくすぐったくなるような感覚を覚えた。

「……まだまだ、これからですね」

 心春はそう答えるのが精一杯だった。そんな心春の横で、シンヤが「高校生はいいな、羨ましいわ」と、どこか疲れの滲む顔を無理に笑わせてつぶやいた。


 その時、レイラの視線が心春の持っていた空のカゴに留まる。

「そのカゴはどうしたの?」

 しまった、と心春は内心で焦燥に駆られた。もしこれが探偵としての依頼だと告げれば、心配性なレイラのことだ、また不要な不安をかけてしまうに違いない。咄嗟に頭を回転させ、口から出まかせを並べた。

「あ……これですか? 友達の香織に頼まれて……ちょっと預かってるんです」

 心春は動揺を悟られぬよう努めて平然を装ったが、その嘘をついた背徳感からか、握りしめたカゴの持ち手が少し重く感じられた。

 レイラは「ふーん……」と小さく呟き、心春の言葉を吟味するように少しだけ思索的な眼差しを向けた。その視線から逃れるように、心春は話題を転換させる。

「おふたりこそこんなところでどうしたんですか? デート?」

 心春の問いかけに、背後のシンヤが「皆には内緒な」と軽口を叩こうとしたか否か、その瞬間にレイラの鋭いツッコミがシンヤの頭部へと突き刺さった。

「仕事よ仕事!」

 レイラは心春に対してキツめにそう訂正を入れる。このエリアで二人が揃っているということは、おそらく情報収集の拠点である『gimlet』へと向かう途中なのだろう。公安という組織に身を置く彼らには、世間一般のゴールデンウィークなどという華やかな休暇は存在しないのかもしれない。そう思うと、心春の胸には僅かな寂寥感が広がった。

「あまり無理せずですよ?」

 心春が発したその言葉は、偽りのない本心からのものだった。レイラはその言葉を聞くと、先ほどまでの厳しさを拭い去り、柔らかな笑顔で応える。

「ありがとう、心春ちゃん。じゃあまた近いうちにご飯でも食べに行きましょ」

 そう言ってレイラは、心春の頭を優しくひと撫でしてから『gimlet』のある方角へと歩き出した。シンヤもこちらに手を振ってくれている。心春は小さく振り返し、二人の背中を見送った後、再び猫探しの依頼へと意識を切り替えた。






 シンヤは遠ざかる心春の背中をチラリと見ると、「お嬢ちゃんも連れていけばよかったのに……」と、つい弱音を吐露した。しかし、レイラはその言葉を耳に入れぬよう、ただ無言で前を見据えて歩き続けていた。


 ここ最近、関東地方では落神討伐の任務が続き、支部地区内を点々と移動する多忙な日々を送っている。ロキを失った空白はあまりにも大きく、その穴の深さをレイラは痛いほどに身を持って実感していた。


 今回の強制招集についても、レイラは内心で静かな苛立ちを募らせていた。多忙を極める現場の状況は、指揮を執るJINも理解しているはずだと信じていたからだ。それでも尚、休む間もなく彼らを呼びつける組織の非情さ。そんな負の感情が渦巻く中、先ほど偶然に出会った心春の無邪気な姿だけが、レイラの張り詰めた神経をわずかに和らげていた。


 レイラは歩みを止めると、重厚な『gimlet』のドアに手をかけ、押し開いた。店内に漂う冷気と、そこにあるはずの「仕事」という名の現実が、再び二人を迎え入れた。


『gimlet』の扉を閉ざすと、外の喧騒を断ち切るように静寂が店内に満ちていた。外の世界がゴールデンウィークの賑わいに包まれていようと、この場所だけは常に変わらない冷徹な空気を保ち続けている。


 カウンターの奥では、JINが黙々とグラスを磨いていた。その整然とした所作に、レイラとシンヤは慣れた足取りでいつもの席へと向かう。

 ふと、カウンターの端に目を向けると、そこには見慣れない先客の姿があった。長い茶髪を揺らし、トレンチコートを纏って座る女の子の背中からは、ただの一般人とは一線を画す、言いようのない重々しい気配が漂っている。レイラは鋭い視線をその背中に一瞬だけ投げかけ、シンヤと共に席に着いた。


「……随分と珍しい客ね」

 レイラは低く呟き、カウンター越しにJINへと視線を戻した。店内には氷がグラスに触れる微かな音だけが響き、緊張感が静かに張り詰めていく。

 JINの低く響く声が、バーの静寂を切り裂いた。

「忙しいところ呼び出して悪かったな」

 いつものレイラであれば、その労いに対して皮肉の一つも返していただろう。だが、今日の店内には、それすら許さない異様な緊張感が漂っていた。レイラは無言で、JINがカウンター越しに差し出したバーボンのグラスを受け取り、唇を湿らせるように一口だけ含んだ。シンヤの前には、冷えたビールが置かれる。


 カウンターの端に座る少女は、ただ黙々と透明な液体——おそらく水——を口に運び、こちらを一瞥することすらない。

「近畿支部からの応援がきた」

 JINのその一言で、店内の空気が一気に凍りついた。レイラの脳裏を、最悪のシナリオの一つが動き出したことを悟り、内心で深く、長くため息を吐いた。目の前の少女と相対し、これから何を共有せねばならないのか。逃げ場のない現実を悟り、レイラは再びバーボンのグラスに視線を落とした。


 少女がグラスをカウンターに置く乾いた音が、店内に響いた。レイラが視線を向けると、そこにはあどけなさを残しながらも、研ぎ澄まされた刃のような鋭さを秘めた少女が座っていた。

「朝倉冬華です」

 少女の挨拶は凛としていた。その幼い容貌とのギャップに、レイラは一瞬だけ眉を動かす。

「よろしくね。私はレイラ」

 レイラが軽く挨拶を返すと、隣に座るシンヤはビールを飲みながら「俺シンヤ。よろしく」とぶっきらぼうに呟いた。


 JINは二人を見回し、淡々と言葉を続ける。

「新宿近辺は朝倉に任せるつもりだ」

 多方予想通りだとレイラは思った。しかし、少女が続けた言葉は予想していなかった。

 レイラは自身の耳を疑い、グラスを持つ指先をわずかに止めた。店内に漂う静寂が、冬華の放った言葉によってさらに重く、冷ややかなものへと変貌する。

「監視対象はどこにいますか?」

 隠す素振りなど微塵もない、あまりに堂々としたその問いかけ。あまりの唐突さに、レイラは聞き違いかと思い一度言葉を飲み込んだ。しかし、冬華の意志は揺るがない。

「坂東心春のことです。監視しているんでしょ?」

 冬華は心春の名前を口にすると、何の感情も揺らさない平然とした表情で、レイラたちの反応を待つように真っ直ぐとこちらを見つめ返した。その言葉の響きには、組織の一員としての事務的な冷徹さが色濃く滲んでいた。

「あの子は一般人よ」

 レイラは即座にそう返した。感情を押し殺そうとはしたものの、言葉にはどうしてもトゲが混じってしまう。しかし、冬華は動じることなく、冷徹な視線をレイラに向けた。

「一般人ではないでしょう。落神を惹きつける特異点。どこが一般人なのですか」

 心春という存在を、単なる一人の少女ではなく、組織が管理すべき「現象」として断言する冬華の態度。ここまで直球でぶつけてこられるとは想定しておらず、レイラは言葉を失った。

 沈黙が支配する店内で、シンヤもまた心ここに在らずといった様子で、グラスを握ったまま遠くを見つめ、何も口を挟もうとしない。


 その時、カウンターの向こうで沈黙を守っていたJINが、静かに口を開いた。

「心春の件はレイラに一任している」

 その声は低く、議論の余地を一切許さない響きを持って店内に重く残った。

「そうですか。では、目を離さないように」

 冬華は簡潔にそう言い残すと、カウンターから滑り降りるように立ち上がり、出口へと歩き出した。その背中には、組織の命令を遂行することのみを是とする、鋼のような意志が宿っている。

「挨拶は、もう終わりかしら?」

 レイラはその背中に向かって冷ややかな問いを投げた。冬華は足を止めたものの、こちらを振り返ることすらせず、淡々と言い放つ。

「形式的な挨拶など、これ以上は必要ないでしょう」

 そう言い放つとそのまま扉を押し開け、外の喧騒の中へと消えていった。再び店内に静寂が戻る。


 残されたレイラは、大きく溜息をつくと、両手で顔を覆うようにして頭を抱えた。ロキ亡き後の関東支部を守るという重圧に加え、近畿支部からの刺客——ただでさえ逼迫している状況に、最悪の火種が加わったことをレイラは痛感していた。






 公園の木々が長い影を落とし、空の色がオレンジから深い藍色へと移ろい始める夕方の時間帯になっていた。心春はベンチに深く腰を下ろし、隣に置いたカゴを見つめる。


 結局、一日中歩き回っても猫の姿は見つからなかった。街の喧騒は少しずつ収まりを見せているが、心春の疲労感はピークに達している。棒のように硬くなった足を伸ばし、ため息を一つこぼした。

 安請け合いしてしまった自分への情けなさが胸を支配する。かつてロキが依頼を選別していた理由が、今の自分には痛いほどよく分かった。


 空腹で唸りを上げた自分のお腹の音に、心春は気恥ずかしさを感じながら肩をすくめた。朝から飲まず食わずで動き回った代償は、体力だけでなく空腹という形でしっかりと現れていた。もう今日はここが潮時かもしれないと腰を上げようとした、その時だった。


「ねえ、何をしているの?」

 ベンチのすぐ横から降ってきた声に、心春は反射的に顔を上げた。そこに立っていたのは、長く艶やかな茶髪を揺らす少女だった。年齢は心春と同じくらいに見える。見慣れない制服をトレンチコートの下に纏ったその少女は、どこか浮世離れした静かな気配を纏っていた。


 心春は困ったように眉を下げ、正直に状況を伝えた。

「猫を探しているんです。でも、どうしても見当たらなくて……」

 見知らぬ同年代の少女に向けたその言葉は、今日一日の徒労感を隠しきれない弱々しいものだった。心春は相手の表情をうかがいながら、このまま帰宅すべきか、それとももう少しだけ探すべきか、揺れ動く心を抱えたまま彼女の反応を待った。

「あなたの猫?」

 その問いかけに、心春は首を横に振った。

「いえ、私の猫じゃないんですけど……」

 おばあちゃんから頼まれた依頼だと説明しようと言葉を選んでいると、少女はあきれたような表情を浮かべた。

「人の猫を探しているのね……理解に苦しむわ」

 それだけ言い残すと、少女は振り返ることなく、夕闇の中に消えていった。心春はその不思議な去り際を呆然と目で追ったが、その言動の真意を推し量る術もなく、ただ溜息をつくしかなかった。

「……変な人」

 気を取り直して、心春は重いカゴを再び持ち上げた。帰路につこうとふと公園の広場を見渡した、その瞬間だった。

 夕暮れの公園の真ん中、先ほどまで影も形もなかったはずの場所に、一匹の猫がぼーっと座っている。

 ようやく探し求めていた姿を見つけ、心春の胸に歓喜が込み上げた。しかし、その喜びを口に出して叫ぼうとしたその瞬間、再び空腹で限界を迎えたお腹が盛大に鳴り響き、その歓声は無残にも描き消されてしまった。





 冬華はホテルへ戻ると、重苦しいトレンチコートを脱ぎ払い、壁のハンガーへと掛けた。滞在先の部屋はあまりに広く、かえって孤独と静寂を強調しているように感じられ、落ち着かない。彼女は両足のホルスターから愛銃を静かに抜き取り、テーブルへと置いた。


 窓の外に広がるのは、眠ることのない新宿の夜景だ。高層階から見下ろすネオンの明かりが、チラチラと冬華の冷めた瞳に反射している。

 彼女はテーブルの上のノートパソコンを開き、特定のアイコンをクリックして通話ボタンを押した。わずかな電子音のあと、画面には幾筋もの傷が刻まれた男の顔が映し出された。

 男は冬華の顔を凝視したまま、短く「報告」とだけ告げた。冬華は淀みなく言葉を返す。

「関東支部との顔合わせが終わり、対象と接触しました」

 男は表情を変えず、追及するように「何か変わったことはあったか」と尋ねた。冬華は少し考えを巡らせたのち、率直に告げる。

「あの人たちの言動は、理解に苦しみます」

 その言葉を聞いた男は、皮肉めいた笑みを浮かべ、手に持った葉巻に火をつけた。紫煙が画面をかすめる中、男は冷酷な宣告を下す。

「こちらのものにならなければ、殺せ」

 淡々と言い放つと同時に、男は一方的に通信を切った。冬華は静かにノートパソコンの電源を切り、暗転した画面に自分の顔が映り込むのを無視して、再び窓辺へと歩み寄った。

 新宿の夜景を眼下に収めながら、冬華は小さく一つ、ため息を吐いた。


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