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自宅ではいつもより遅い帰宅に不満げな表情を浮かべたモトが待ち構えていた。モトは主に私の面倒を見るために近所から通ってくる家政婦だった。小言を言いかけたモトの目の色が変わった。視線は私の右手を指していた。正確には手に巻かれた薄汚い布切れを見てからだ。モトは穢れた物を触るように顔を背けその布切れ恐る恐る引き剥がすとそれを指で摘み広げた。そこにはあの渦状紋紋様が藍で染められていた。モトは眉を顰めると布きれを庭の片隅の排水溝へ投げ捨てると割烹着の裾で何度も手を拭った。
モトは怒りと嫌悪を宿した眼差しで「お坊ちゃまはあの森へ行かれたのですね」その剣幕に幼い私は怯え思わず頷くしか無かった。そして二度とその森へは行ってはならないと固く約束させられた。どうやら私はこの土地の禁忌に触れてしまった事に子供ながら気付かされた。その時は異形の風貌を持つゲェチ、真史の存在がそうさせているのだと思った。だが今になってよくよく考えて見ればあの黒い森の瘴気にも似たあの空気や気配は人を遠ざけるには十分すぎた。
この話は旦那様にも奥様にも決して話してはいけませんと固く約束させられるとモトは黒い森について話し始めた。
「あの森の話は口にする事さえ憚られる事なのでございます。見たり聞いたりしてもいけません。敢えて口にしてはいけない事を話すのは二度とお坊ちゃまをあの森へ行かせない為でございます。ましてや忌み人と合うなんて。ああおぞましい」と云うと念仏を唱え始めた。
あれは子供を窘める為の方便に違いなかったが昨日今日この町に住み着いた余所者に町の禁忌など簡単に話すはずがない。それも決して口にしてはいけない事柄を。だがモトは話し始めた。生来口が軽かったのかモトも又他所からここへ住み着いた人間だったのかも知れない。あの土地の禁忌の重さを知らなかったのだ。その証拠にモトの話してくれた事は近所の噂話程度だった。その話が稚拙な内容だと言うことは子供の私でも理解できた。
モトが語った事はあの森には大昔から妙な言葉や文字を使う忌み人一族が住み着いており時折奇妙な儀式を行っていた。近づくと祟りや疫病などのあり得る限りの禍が降り掛かると云う様な内容だった。今はあの森には真史を含め三人だけが住んでいる。真史一族は代々異教の神を崇める一族で祖母は渦女尼と呼ばれ亀の甲羅を使い異教の祭事を行っている。尼とは呼ばれているが此処では蔑称の意味で使われていた。それと業病を患う生まれながらに片足の父親がいるらしいが見た人間は殆どいないらしい。母親もいたのだが四年ほど前から見掛けなくなったと云うことだった。
ここで矛盾が生じる。彼らの事は口にすることさえ禁忌なのに何故名前や家族構成など知っていたのだろう。年代が下るにつれ禁忌への重大さが変化して行ったのだろうか。それとも彼らの事を知らなければならない事態でも有ったのか。この事も知る術は無いが人の口には戸は立てられぬと云うことなのか。
真史達の事を手持ちの情報から有る程度の推測をしてみた。あの独特のイントネーションはこの辺で使われている言葉とは異なっている。異なるどころか世界中探しても似たようなイントネーションも言語も見つける事は出来なかった。真史達は太古よりこの地にそれもこの潟の周辺にだけ住み着き私達と違う文化や言葉を持った排他的な民族だと考えられる。
我々の祖先は共存もしなければ排斥もしなかった。見る事も口にする事すらせずただ無視を続けた。彼等も我々との接触を避けていた。このような民族間同士の関係をどう説明すればいいのだろうか。あの黒い森と関係があるのかも知れない。彼等が住んでいた周辺には結界の様な領域が存在しておりその影響で極めて限定的な地域でしか彼らの情報は伝達されず領域外ではその情報には何らかの力で制限が加えられていたのでは無いだろうか。
時代を下ると共に真史の民族は徐々に数を減らしていった。元々が極めて少数民族だったのだろう。数を減らしていく中で近親婚が進み真史のような遺伝的障害を持った人間が生まれてきた。真史が最後の一人だったに違いない。これらは私の推測で黒い森や彼等の痕跡が跡形もなく消えた今となっては証明する術は困難だ。
黒い森も大きな潟も水田となり何もかも無くなってしまった現在はあの森付近の潟に住んでいた人々の記録など一切残ってない。残してはいけなかったのだ。言語、文章で表現する事すら禁忌とされ、住んでいた土地の記憶すら残らなかったのだ。土地や村から跡形もなく黒い森やそこに住んでいた人々の記憶が消滅した。やがて消えて行く私の記憶と同じように。
その当時の私は黒い森へ足を踏み入れて以来、興味は黒い森と真史に向いていた。異形の恐怖や不快さより、何故あのような容姿なのか、黒い森の異質な雰囲気は何なのだろう。「怖い物見たさ」その一言に尽きた。湧き上がる好奇心を抑える事が出来なかったのだ。その私の好奇心に呼応するように異変が起こり始めた。私の周囲で始終蛙の鳴き声が聞こえ始め鳴き止む事が無く、頭の奥底まで蛙の鳴き声が響き渡り、まるで黒い森へと招く声に聞こえていた。
黒い森を訪れて以来真史とは度々顔を合わせるようになっていた。どうやら私は真史に気に入られたようだった。下校時に真史はよく私を待ち伏せしていた。黒い森の事は気になっていたが真史に会いとは思っていなかった。会っても会話らしい会話はしたことが無かったが幾度か顔を合わせるうちに真史の言葉も多少は理解出来るようになっていた。会っても真史は不快な匂いをさせゲヘ、ゲヘと嫌悪を感じさせる笑いを浮かべ、帰るだぁか?とか今日は沢山捕れたと不気味に動く麻袋を見せる位だった。
あれは半夏生の日だったと思う。いつもは数分で葦原へ消えて行くのに今日限って私を長い時間足止めした。様子も何時もと違って感じられた。
「直にバサが甕に帰る」と呟くと真史は私に例の首飾りを見せ「コレはオラァの家に伝わる秘密の文字だぁが。オメィ様はいいヒドだがぁら教えるがぁ。渦の秘密だぁが」と真史の黒目がちの瞳孔がきゅっと萎むといきなり話を始めた。いい人だから教えると言われても別に聞きたいとは思っていなかった。だが真史は一方的に手振り身振りを交え語り出した。ところが話の内容は蛙や狸の出てくる昔話だった。酷いなまりと独特のイントネーションでの語りは内容の半分も理解出来なかった。真史が熱を込め、物語っている最中に突然言葉を切り顔色を変えると「呼ばれたがぁ」と言うが早いか葦原に消えていった。私には何も聞こえなかった。辺りには野鳥と蛙の鳴き声位しか聞こえていなかった。
渦の秘密と言うのは秘密だけあって真史一族の秘伝なのだろう。真史にすれば私は大事な秘密を打ち明けるに値する人間だったと云うことなのだろうが正直なところありがた迷惑以外のなにものでも無かったと当時は感じていた。その頃の私には知る術の無い大いなる秘密を真史は語っていたのだ。




