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ゲェチとの出会いから数日後、私は何時ものように一人、栗ノ木川沿いを重い足取りで下校していた。栗ノ木川は波一つ立たず静かに流れ、重苦しい湿気を含んだ蒸し暑い空気が辺りを満たしていた。何処を見ても水田か葦原が見えているだけの侘びしい景色を背景に泥まみれの農夫が農具を担ぎ畦道を歩いている姿が見受けられるだけだった。右手奥の潟の畔にぽつんと小さな森が見える。それは田園地帯ではよく見受けられる鎮守の森のらしかった。
特に思うところは無く何気なくその森へ足を向けた。今思えば気を惹かれる何かを感じ取っていたのかも知れない。森を目指し細い畦道を進んだ。森に近づくにつれ異様な気配が周りに漂い始めた。畦道から時折聞こえる蛙の鳴き声があたかも警告を喚起しているようでさらに不安を募らせた。私は周囲を警戒しながら足を進めた。
森の入口に立つと木々は黒々と太く巨大だった。森の奥へと続く細い道は仄暗い闇に溶け先が見えない。見慣れた楢や橅などの広葉樹が妙に黒く別の樹木に感じられる。入口の両脇に一メートルほどの長細い自然石を使った石柱が雑草の中から傾き頭を覗かせていた。二つの石柱には茶色く変色したボロボロの布が力ない風に揺れていた。本来の色が朱色だった事が結び目に残った僅かな色で見て取れる。石柱の表面はかなり風化しており碑文なのか紋様なのか区別が付かないが何かが彫られていることが辛うじて認められた。
異様な雰囲気を放つ森に躊躇するが湧き上がる好奇心には勝つ事が出来ず意を決して足を踏み入れると空気が一変した。異質なのだ。何がどう異質なかと問われれば私にはそれを表現できる術を持たない。『異界へ踏み入れた』この表現が一番近いように思われる。森へ入ってみて解ったことだがこの黒い森は小さな丘を取り囲むように出来ており丘の高さは十メートル、直径は千メートル以上はあったかと思う。
この辺りで見られるごく普通の木々や植物の植生なのだがまるで違って感じられた。葉に覆われた高い木々から僅かに差す木漏れ日も空気も風も匂いも初めて感じるような気にさせ、更に不安と僅かな恐怖が湧き上がって来た。だが足を止める事が出来ない。それは未知の世界を探検する好奇心に動かされていた。
私は前人未到の森を未知の恐怖に打ち勝つ探検隊の隊長を演じていた。男の子達には良く見られる探検隊ごっこだ。私の場合は一人探険隊ごっこだが。
なだらかな坂道を登って行くと六つの石塔が円を描くように土や雑草に埋もれ頭を覗かせていた。どうやらここが丘の頂きらしかった。私が壮年期に達していたならもっと事細かに調査しただろう。当時の幼い私には森の異質な環境に慣れるだけで精一杯だった。道の先は潟へ向かい緩やかな坂を作っていた。暗い森の中でも羊歯類の中から苔生した石柱が幾つも生え、潟からやって来るじめついた風が梢を揺らす葉擦れの音と耳障りな蛙の鳴き声が私の回りを取り巻いていた。
坂を下りながらここが黄泉比良坂だなどと訳もなく思った記憶が想起される。実際にそうだったのだと今も後悔している。あの時この坂さえ下らなければ、この森へ足を踏み入れなければと。
十分も歩くと前方にぼんやりと滲んだ光りが見え始め、呆気なく森は終わり潟へ突き当たった。そこは葦が刈り取られ水辺に向かい開けている。崩れ打ち棄てられた葦船が二艘ほど岸辺に残骸を散らしていた。
水辺には葦や真菰が生い茂り、凪いだ水面には群生した菱が広がっている。そこから潟の畔に沿って西の方への葦も綺麗に刈り取られた道筋らしき物が続いていた。踏み出すと足の下で湿った足音がする。道の先には葦原を通して黒く煤けた建物らしき物が霞みぼんやりと浮かび上がっていた。
不意に刺すような生臭い臭気が鼻を突いたかと思うと葦原を掻き分け人が飛び出してきた。生臭さを感じた時に予感はしていた。
ゲェチだ。ゲェチは私を見ると例の気味悪くも人懐っこい笑顔で手招きし、大きく膨らんだ頭陀袋を目の前に差し出した。
「エヘ、エヘッ」と嬉しそうに思える声を発した。吐く息の名状しがたい臭気に吐き気を堪え思わず顔を背けた。私はこんな気味の悪い人間とは係わりたくは無かったが好奇心に負けてしまった。ゲェチが嬉しそうに口を開いた頭陀袋を覗き込むと何かが飛び出し顔に当たり、私は驚き体を仰け反らせ尻餅をついてしまった。 飛び出して行ったものは生臭い粘液を顔になすりつけゲコッと一鳴きすると葦原へと消えていった。
掌に鋭い痛みを覚え悲鳴を上げた。尻餅をついた拍子に刈り取られた葦の鋭い切り口が掌を突き刺していた。
ゲェチは私の血の滲んだ掌を見ると目を見開き怯え、ゴォメン、ゴォメンと聞いたことの無いようなイントネーションと酷い訛が交じり金属音を思わせる語尾の発音で何回も謝り、腕を掴み建物の方へと私を引き摺るように向かった。ぬるぬるべとべとする手に不快感を憶えたが私はゲェチのなすがままに腕を引かれていた。大きく黒々とした建物にとても興味を感じたのだ。腕の不快感より好奇心を押さえきれなかった。
朽ち果てた柵と葦に囲まれた建物は近づくにつれ遠目で感じた大きさより遥かに巨大だった。建物は黒く、そして傾き腐り朽ちかけていた。巨大な茅葺きで出来た屋根は所々の茅が腐りかけ窪みを作っていた。私が目にした事のない形状の屋根だった。子供の頃の記憶なので細かな所は曖昧だがあえて似ている物と言えばピラミッドのような形状に近いだろうか。
正面は茅葺きの茅が所々抜け落ち、垂れ下がり太い柱を覆い低く見えているが茅葺き屋根までは十メートル以上はありそうで、屋根の天辺では十数メートに達すると思われた。子供の頃の記憶とはいえその黒い建物は山のように見えた。ピラミッドに似た建造物の背後には疎らに生えた僅かな葦と岸辺が広がっていた。岸辺には夥しい素焼きの破片に混じり幾つもの壊れた甕が転がっていた。中には原形を留めている甕も幾つか見受けられた。
風化し鉛色に変色した柱に施された彫刻には渦巻きに似た紋様の装飾跡が見え、至る所に赤や紺、金などの顔料が残っている。その精緻な紋様を見ていると肌に絡み付くような異様な感触の波動が放たれているように感じられた。決して快い感触では無かった。
荘厳な佇まいから神殿か祭祀を行う建造物であることは疑いようがなかった。扉が朽壊した大きな戸口には扉代わりにボロボロの簾が何枚も垂れ下がり、破れた隙間からは薄暗い室内が覗いていた。目を凝らすと奥の方には薄闇を通し階段状の大きな台が見え、階段に沿って人一人が入れそうな甕が並べられている。最上段に何も置かれていなかった。後にその記憶を掘り起こしているとどうも甕は祭祀に関係した物だと思われた。そう、あれは祭壇に違い無い。
祭壇が有る事から此処が本殿になるのだろう。本殿を横切りかけた時、視界の片隅で動く影に気付き振り向くと柱の影の暗がりに朽ちた案山子らしき物が立っていた。今、動いて見えた物はあれなのかと暗がりに目を凝らした。ゆらりと案山子が動いたような気がした。案山子に気を取られている私の腕を強引に引き本殿に寄り掛かるように増築された檜皮葺の掘っ立て小屋の前に連れて行かれた。本殿と比べ今にも倒壊しそうな見窄らしい小屋がゲェチの住居らしかった。
雑草に覆われた陰鬱で荒れ放題の庭に所々に一メートル程の石柱が建ち並び、基部には直立している石柱を中心に放射状に石柱が並べられ丸い石で円環状に縁取られていた。日時計を思わせるそれは環状列石と呼ばれている物だ。
ゲェチは此処に居ろと私を潟が見渡せる大きな庭石の側に座らせると母屋の方へ駆けていった。私が腰を降ろした石にも経年で彫りがかなり浅くなっているが渦巻文様が沢山刻まれていた。見る角度を変えると見方によっては火にも水にも風にも見える。沢山の渦状紋紋様の中心に三十センチ程の変わった蛙の絵が彫られている。変わっているというのはその蛙には後ろ足が一本しか彫られていなかった。
石に彫られた文様を指でなぞっているとゲェチが蒲の穂を一本持ってきた。手際よく蒲の穂を傷口へ擦り付けると薄汚い手拭いを巻き付け照れたような笑いを浮かべるとこれで大丈夫だと話し掛けて来た。
彼はヘラヘラと笑いながら自分は真史だと名乗った。片言で話す彼の正体が今なら有る程度は推し量る事が出来る。顔に比べて大きな目。頭部には殆ど髪が無く僅かに生えている髪は縮毛と云う異様な容姿を持つ彼は遺伝子疾患、先天性乏毛症も患っていた。おそらく知的障害も持っていたのではないかと思われる。歳の頃は十七、八歳位だと思われた。
その時は殆ど会話が無かったような気がする。私は彼を直視出来ず薄汚い手拭いを見ながら源一郎だと名乗り返した。ゲェヘ、ゲェヘと不快な声を上げながら手は痛くないかと心配そうに聞いていた事を朧げに憶えている。気が付くと体から伸びる影が長くなって来ていた。
行き成り真史が潟の沖を気にし「バサが戻る」と慌て出した。バサが戻るから早く帰れと焦り始めた。
だが既に遅かった。くぐもった鶏の鳴き声のような音に驚き振り向くといつの間にか老婆が立っていた。縮れ、量の少ない白髪をひっつめに結い泥が飛び散った額や頬に渦状紋紋様の入れ墨が入っていた。真史と同様に貫頭衣に似た服を纏い何時から着ているのか解らないほどボロボロの服には経年の汚れの中から藍に染められた渦状紋紋様が見えている。手には亀が数匹入った網を持っていた。
老婆は穏やかな眼差しを私に向け「こごわぁおめぇ様方がぁ言う忌み人の地。おめぇ様のぉ来るとぉころではねぇです。たぁまぁにぃおめぇ様のようなぁ聖域を通り抜げられるワァラシが入り込んでぇ来られる」と耳障りなしゃがれ声だったが穏和に話し掛けてきた。
「早ょ帰れぇなさい。このぉ地へはぁ二度とぉ足を踏み入れてはなんねぇです」と独特のイントネーションで穏やかな口調の中に有無を言わさない厳しさを秘めた言葉の力と態度に私は為す術もなく従いその場を後にした。去り際に手当の礼を告げようと振り向くと老女は真史に視線を移し一転して厳しい目になると声を荒げ何か言い始めた。それはギウギウと聞こえて来る聞いたこと無い言葉だった。真史は頭を抱え丸い背を更に丸め必死で謝っている様だった。




