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眩しい。灰色がかった青空が目に痛い。周囲を見渡すと古林もミズホも座り込み空を見上げていた。目の前には蔦に埋もれかけた大きなラウンドトップのフランス窓が見えている。ここは垂井邸の中庭らしい。
「二人とも無事みたいだな」と古林に声を掛ける。
「垂井さんや紀田村さんは・・・」
古林の問いに首を振り「間に合わなかった・・・」と飛び出した窓の方を見る。窓は壊れていないし穴も空いていない。屋敷も初めて見た時とは少し印象が違って見えるが、覆い被さるような庭木を従えノスタルジックな佇まいで弱々しい陽光を浴びていた。
初めて訪ねたときの寂れた不気味な雰囲気も幾分か和らいでいるような気がする。
「垂井さん達はまだ屋敷の中なのか。まさか消滅してしまったのか・・・」
「消滅はしてないと思う。まだ垂井さんの現実の影響下だ。身体や左脚が自由に動かない」
古林の言う通り左半身が自由に動かせない。視界も白く濁っている。
「他人の心配をしている暇はなさそうだ。此処から離れたほうが良さそうだ」と古林が垂井の屋敷を指差す。
「薄情な奴だな。助けに行かなきゃ」
「屋敷を見ろよ。俺たちに出来ることは何もない」
垂井邸が揺らめき始め、あのフランス窓から幾つもの渦が湧き上がり浮かんでいた。
「あれを見て仲村にはどうにか出来るのか。助け出せるのか」
返す言葉がない。あの渦は危険だ。再びあの屋敷に立ち入ることは無理だと本能的な恐怖が止めどなく胸の底から湧きあがってくる。だが二人を見捨てる事は重く、胸が痛んだ。それを古林はバッサリと切り捨てた。屋敷の状態を冷静に観察し出来ない事は出来ないのだと。古林は正しい。
だが・・・それでも何か言わずに、何か行動をせずにはいられなかった。古林は慌てた様子も無く口を開く。
「良い予感がしない。とにかく此処から離れよう」
「ああ・・・。同感だ」
屋敷内で起きた異変は終わっていなかった。状況から見て古林の意見に従うしか無いようだ。
屋敷の窓から渦がぽこぽこと泡立つように浮かび上がってくる。ミズホが足を引き摺り歩き出した。古林と目を合わせお互いに頷く。行き先は判っていた。この異変の始まりの場所。三本足のカエルが刻まれた石だ。
垂井邸の上空には幾つかの渦が昇り始めていた。屋敷から湧き出す渦に飲み込まれるような緊急の危険性は感じられない。あの二人はどうなったのだろう。早く来いと古林の呼ぶ声で我に返る。左脚を引き摺り二人に続いた。
「屋敷から抜け出す時に垂井さんが叫んでいたうずを見つけろとは何の事だろうな」
「例の民話の中に出ていなかったかな」と古林は眉間に深い二本先を刻む。古林が考え込んでいる時の仕草だ。おまけに眉毛も繋がって見えている。
ミズホは淡々と脇目も振らず進んでいた。人や物と関わり合いが出来たときに本人の意思とは無関係にリンクが出来ると古林は説明していた。たぶんミズホはリンクを辿っているのだろう。周りの様子はここへ来た時に比べ民家が少なくなっているように思え、行く手も来た道も空や景色に渦が二重写しに見えている。垂井邸から湧き出した渦は数を増し広がり続けていた。この様子ではやがて湧き出し続ける渦の群れにこの町、いいやこの現実が全て渦に覆い尽くされることになるだろう。
胸の中にはこの未知の現象への怯えや不安しかない。自分自身は霊とかUMAとかの話の成り立ちや構造には興味があるが信じているのかと問われれば真剣に考えた事はなかった。霊やUMAの存在など正直どうでもよかった。そこに怖い話や奇談がある。それだけで十分だった。番組のネタとして面白ければいい。視聴者の興味が惹ければそれで良しとしか考えていなかった。
恐怖と言う感情についても深く考えた事もない。この事態に遭遇し初めて深く思い巡らせずにはいられなかった。自分にとっての恐怖とは何なんなんだろう。改めて考えてみる。
理解できない事が恐怖なのだ。理不尽な事が恐怖なのだ。事象、現象など理解出来れば何だ、そんなものかと手品のタネみたいな感想を持つだろう。もっとも恐怖とは突き詰めていけば生命の危機によって引き起こされる情動の発露なのだが。
「何を難しい顔をしている」と古林が話し掛けてきた。それも楽しそうに。
此奴の表情はまるで遠足気分じゃないか。この状況を楽しんでいるのか。この余裕は何なのだ。狼狽えることしか出来ない自分の不甲斐なさに溜息が出る。こいつには恐怖とか不安とかいった感情を持ち合わせていないのか。
「どんな事でも受け入れるしかないだろう。此処で泣こうが喚こうが現状は何も変わらん」
それはそうだが、そうなのだが頭で理解できても心情的に納得できない。それにこの異常な状況にあって涼しげな表情の古林が苛立たしい。思わず頬っぺたを抓るか、尻を蹴飛ばしたくなった。
そうだなと渋々同意する。が腹の虫はまだ騒ぎ足りないようだった。此方の心情を見透かしたように古林は言う。
「落ち着けよ。俺達は何処かで垂井さんに認識されていた。そこで認識情報が生まれ、この現実に情報として展開し存在している状態だと思うんだ」
「情報だけの存在?本体は我々のいた現実にある。と言うことか?」
「この現実の俺たちだって本物だよ。偽物も本物も無いんだ。認識された現実の数だけ同時に存在している」
そうなのかと取り敢えず頷くがやはり理解できない。情報だけの存在とはいったい何だ。イメージが出来ない。意識も体も実在している。そもそも古林が言う情報への定義や認識が一般的なものとは違うのか。だが古林には説明を求めたくない。聞いたところでいつ果てることのない屁理屈で理解出来ないだろう。考え込んだところでこの状況が動くことが無いことは確かだ。
前を見れば足を引き摺りながらも相変わらず迷い無く歩くミズホは頼もしく思えた。と思った事もつかの間。
「こんな道は通った事ないぞ。前に来た道と違う」
古林との話しに気を取られいつの間にか畦道を歩いていた。前方には高さ十メートル程の小山が見えていた。ミズホはそこへ向かっていた。小山を昇り始めるとほどなく見覚えのある薄墨色の石が徐々に姿をに見せ始める。
何時の時代の頃かは知らないがここがカエル石のあった本来の場所なのだろうか。カエル石の周辺には倒れた石柱がぽつりぽつりと雑草の中から見受けられる。最近まで森だったらしく石柱に交じり伐採された木の切り株がそこら中に残っている。
小山を登り切ると大きな湖が広がり目に飛び込んできた。この辺では潟と呼ばれている。湖に比べ水深が浅いらしい。この町の郷土資料館から得た知識だ。麓の方では干拓工事中だろうか資材や丸太などが葦原を切り開いた畔に積み上げられている。人影は見えず刈り残された疎らな葦が風にそよいでいるだけだった。
「ここは鎮守の森だったようだ。それもかなり旧い森だ」
古林の言葉を裏付けるよう切り株はどれも巨大だった。
「随分と立派な大木が沢山あった古い森だったんだろうな」と一際大きな切り株をつま先で小突いてみる。木を刈られ禿げ山になった山頂付近の無数の切り株を眺めているとまるで垂井邸から湧き出している渦のように見える。
「まるで渦だな」
古林はそう言うと切り株の間に横たわる石柱を観察し始めた。
「これからどうする。カエル石には着いたが・・・」
「渦を探すのさ。垂井さんも叫んでいただろう。それでこの状況から脱出出来るはずだ・・・と思う」
「それにしても随分心細い言いぐさじゃないか。この垂井さんの現実とやらから抜け出さない限り俺達は消滅するかも知れないんだぞ。あの無数の渦の中からどんな渦を探せばいいんだ」
「垂井さんの言った渦は多分この場で発生する渦だと思う。あれと違う渦を探せばイイ」
「違う渦って、どんな渦なんだ。違う渦を見分ける事が出来るのか?」
古林がニヤリと小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。あの表情は知っている。聞いて欲しい表情だ。ああ面倒臭いと思いつつ聞いてしまう自分が残念だ。
「馬鹿にしてるだろう。どうして何時もお前は勿体振った言い方しかできないんだよ」と声を尖らせる。
古林は思ったよりあっさりと簡潔に答えた。
「渦には右回りか左回りの二種類しかないだろう。垂井さんちで見た渦は全て左回りだった。右回りの渦を見つければいいんだ。多分な」と言うと二本目の石柱を調べ始めた。長い説明を覚悟していたが一言で済む説明だった。それ位単純な事だったのか。謎でも何でもないと言うことか。思い返せば目の前に浮かんでいた渦は全て同じ方向、左回りだった。腹の底から我知らず唸り声が漏れる。にしても根拠はあるのか。何時もの古林の思い付きなんだろうが今は右回り渦を探すしか無いらしい。
ミズホはカエル石から離れた切り株に具合悪そうに腰を掛け、ラムネ菓子の入った瓶を覗いていた。瓶から三錠のラムネが掌にこぼれ落ちる。さらに瓶を振るが出てこない。思い切り悲しそうな表情を浮かべるとラムネを頬張りいつもより五割り増しの不機嫌な表情を浮かべた。
「で、右の渦を探しているのか?俺も手伝うよ」
「いいや、辺りを観察しているだけだ。それに右の渦がどのように発生するのか判らん。何処からか湧いて出る物なのかカエル石や付近の遺物に刻まれているものなのか」
「どうするんだ・・・」と言いかけ言葉を飲み込む。これでは古林にばかり頼り過ぎている。他人に愚痴を言ったり非難したりすることはいい大人がすることではない。それは自分のプライドが許さなかった。カエル石へ近づき表面を観察する。
「まだ時間はあるよ。焦るな、仲村。ミズホも穏やかな表情だ。その時が来れば何かしら変化があるよ」と古林は安心させるように言い聞かせる様に言ってきた。
情けない思いが胸に広がる。古林に慰められるとは。それにしてもあれでミズホは穏やかなのか。いつもより険しい表情に見えるが。
「それより仲村これを見ろよ」と古林が嬉しそうに言い手招きしここへ座れと自分が座っている切株の隣を叩いた。隣に座ると古林はニコリと笑みを浮かべバッグからB5判位の古臭い小冊子を取り出した。
「秘記祝詞集の写本だぜ。大発見だよ」
「お前、垂井さんの所から持ってきたのか。窃盗だぞ」
道理であの時書架にしがみついていた訳だ。
「そんなこと言われてもなぁ、あの時は必死だった。偶然手に・・・」と決まりが悪そうに言い訳した。古林の手にある秘記祝詞集を見ながらそんな事あるか奴は何時だって冷静に状況を観察していた。確信犯だ。大方書斎辺りが消え始めたんで慌てて秘記祝詞集を救い出したと言うことだろう。
古林から呻き声が漏れる。
「何だよ。気持ち悪い声を上げるなよ」
「秘記祝詞集・・・・」
古林の手の中で秘記祝詞集がぼんやりと揺らめきながら消えかけていた。
「やっぱりかぁ・・・」と古林は残念そうな声を上げた。
悪銭身につかずだ。いい気味だと意地悪な気持ちが湧いてくる反面少しかわいそうな気もする。古林は本が消え去った手の中を未練たらしく暫くの間悲しそうに見つめていた。失望をばかでかい体全体で表していたかと思うと次の瞬間思い立ったようにバッグの中を漁り始めた。まだ何か持ち出していたのかとあきれる。
刺激的な臭気が立ち込め、突然の異臭に思わず鼻を押さえた。いつのまにか渦が空の大部分を埋め尽くし始めていた。
「古林、探し物のなんかしている場合じゃないぞ」
「渦の広がりが思ったより早いな・・・」
バッグから顔を上げた古林は相変わらずのんびりとした様子で答える。
尻の下で異常な気配を感じ慌てて飛び上がる。見ると腰を降ろしていた切株の年輪の中心が深緑色に変色していた。またかと古林と顔を合わせた。予想通り年輪からカエルが湧き出てきた。小山の彼方此方の切株でもカエルが湧き出していた。湧き出したカエル達は半透明の瞬膜をしきりにパチクリと瞬きしている。やがてカエル達の視線は此方の一点に集まった。
「奴らに囲まれたぞ」
「ああ、色んな種類のカエルがいる。まるでカエル専門の水族館だな」
「なぁ古林、これから何が始まると思う。奴らが俺たちの方を見ているぞ」と声が上擦る。
グェ、ゲコ、ゲコと彼方此方で鳴き声が上がった。のそりとカエル達が一歩動いた。ビクリと反射的に危機感が胸で破裂する。たかが手の平程のカエルに異常なまでの恐怖を感じ体が勝手に後退りを始めた。グワッ、グワッと鳴きながらまたのたりと動いた。
飛び掛かられ捕食されるかもしれない。などと馬鹿らしい考えが頭から離れない。大きなカエルでも十五センチ位だしピラニアみたいな鋭い歯が有るわけでもない。だが恐怖と嫌悪感は留まること知らず膨れ上がって行った。
「古林、ヤバイ。とてもヤバイ、マズイぞ・・」と隣を見ると古林やミズホが見えない。
まさか消滅したのか、それとも喰われたのか。逃げ場を探し後退りしているうちに背中に固い感触を憶えた。カエル石まで追い詰められていた。古林達はどうなった。絶望感に囚われ必死で古林達を探し辺りを見渡した。カエル共の視線が痛い。数はいるがちっぽけなカエルだ。襲って来たら踏み潰せばいいだけだと思いながらもそれを出来る自信がまるでないし、足も竦んでる。カエルの群れが騒ぎ出した。そこら中で疎らに聞こえていた鳴き声も密度を増している。
いきなり首を絞められ、足が宙に浮く。驚きもがくが上へ上へと体は持ち上げられて行く。自分が襟首を掴まれ引き上げられていることに気付く。石の上にもカエルがいたのかと頭の中が真っ白になる。
「暴れるな」と頭の上で声がする。石の上に引き上げられると疾っくに古林とミズホが待避していた。
「危なかったな・・・無事で良かった」
「無事なものか息が詰まって死ぬ。黙って逃げるなんて非道い。なんて奴らだ」
首を押さえ咳き込みながら古林を罵った。
「喰われる所だった・・・かも知れなかった」
「やっぱり奴らはピラニアみたいに寄って集って人を喰らうのか。まだ首が痛い」
「捕食って意味じゃあ無い。奴らは仲村を喰らって存在情報をこの現実に最適化するコンバーターの象徴だと思われる」
「存在情報・・・、最適化・・・」
古林の言葉に二の句が継げなかった。奴は何を言っている。また訳の解らない事を言い始めている。もう理解できない解説は聞きたくないが古林はカエル達を眺め薄ら笑いを浮かべ、この異常な状況を冷静に観察し独自の仮説で状況判断している。認知症を患い消滅するかも知れない切羽詰まった状況なのに相変わらず嬉しそうに話し、どんな時でも余裕を持って対処している。それが出来ない自分にも癪に障る。痛む首を撫で回しながら言葉を絞り出す。
「情報を喰うだと・・・」と古林の意味不明な説明に不信を込め睨み付けた。
「悪い。喩えが悪かった。腹が減っていたせいだ。『あのカエル達によってこの垂井さんの現実に最適化され垂井さんの現実の一部になる』が正しい表現だ。仲村と言う人間がこの現実にとってネイティブな存在に変換されるんだ」
「お前は何でもかんでもコンピューター用語に置き換え説明する。もっと俺にも理解できるように説明は出来ないのかよ」
古林は溜息を一つ漏らすと話し始めた。「それは俺の信条だし他に例える言葉が見付けられない。今の俺達はこの現実ではアクセス出来ないデータ、異物みたいな物だ。あのカエル達はたぶんコンバーター、変換機に違いない」
「それで変換されるとはどんな状態なのだ」
「属性が変わる。この現実に則した属性になり、おそらく仲村ガエルになると思う」
「何故カエルがそんなことを」
「カエルが変換する訳じゃない。カエルの姿をしているだけだ。この現実の規格が適応されると思われる。垂井さんにとってカエルは何かの象徴かも知れないな」
「結局解らないんだな。それに、かもとか、思われるとかそればっかりだな」
思いっきり冷たい視線と共に皮肉を込めて言ってやる。
「当たり前だ。あの民話を現状と併せ俺なり解釈した。この場が自分の尺度や常識なんぞ全く役に立たない事は仲村も嫌と言うほど体験しているだろう。取り敢えず自分の考えを発表したまでだ。言った者勝ちだ。解らない事を理解するために想像を巡らす事が楽しいんじゃないか。じゃあ続きを始めるぞ」と開き直り古林は楽しそう言った。まだまだ続きがあるらしい。自分の尺度外の話が始まった。
「人は言葉を創り文字を創ってきた。それは情報を資源化する為の物だとは思わないか」
「思わないかと言われたって・・・俺に同意を求めるな。この状況を理解出来ていないんだ。いいから好きに話せ」と古林に話の続きを促す。古林は何か感づいている。好きに話させればそのうちこの状況からの脱出の手掛かりが見えて来るかもと淡い期待を感じた。
「何故、人は言葉や文字を発達させて来たと思う」と古林は問い掛けてくるが此方の答を待たずに話し始める。
「意志や情報を伝達する為だったらテレパシーによる思念伝達の方が効率的で間違いのない正確な情報が伝わるはずだ。テレパシーが発達しなかったのは言語や文字による伝達が強い力を持ちクリエイティブだったからだ。ネットはテキストデータの塊だ文字情報を資源としたネット環境は新たな視点を生むための卵みたいなものだ。文章や文字は新たな視点を作り、新たな視点は新たな現実を生む。多様な現実が認識しやすい環境といえる。我々がこの現実に取り込まれた原因の一つはネットでこの現実を認識したことでこの現実へ繋がるフィールドがこの土地の特異性の為発生したと考えられる」
「そうかネットに接続できればこの現実から脱出出来る手だて見つかる。俺たちの現実にアクセスできれば・・・」
相変わらず回りくどい解説だが用はネットに接続すれば道が開けるかも知れないと言う事か。希望が出てきたことに声を弾ませ言いかけるが次の言葉の前に古林が首を振る。
「それは無理だ。この現実の今現在ではモバイルによるネット環境は生まれていないし、もちろんスマホ使えるような通信環境も構築されていない。俺や仲村の通信端末は役立たずだ」
「じゃあどうする。このままではカエルモドキに喰い殺されるか消滅するかのどちらかだぞ」
カエルの鳴き声が変化した。何かの加持祈祷にも聞こえてくる。カエル達からはただならぬ気配が痛いほど発散させられていた。
「状況が動き始めている」
「何をしたり顔で言っているんだよ。そんな事俺でも分かる」
古林はミズホに目配せする。ミズホは険しい表情を浮かべ頷いた。カエルの鳴き声が少しずつ大きくなって来ている。カエル達はのそのそとカエル石へ近づいてくる。それに合わせるかのように湧き出てきた渦も空を埋め尽くさんばかりに広がりつつあった。
「オイ!見ろよ。立ち上がった。奴らが二本足で立っている。それに二回りもでかくなってる!」
忌々しい変化に叫び声上げてしまう。
「今更なんだよ。何が起きたってどうって事ないだろう。事態の推移を観察しよう」
ミズホが舞いを始めた。凛とした空気を纏う美しい所作に思わず見とれてしまう。
「なぁ古林、ミズホが踊り始めたんだが。何が始まる?」
「お前に分かり易く説明するとだな、あれはミズホの仕事前のルーチンだ。今は周辺の空間情報の変化を観測しようとしている」
「そうなのか・・・」と返事をするが古林の説明はやはり理解できない。
ミズホの舞で何か変化が起こるのかとカエル達を観察するが何も変化しない。それどころかゆっくりとカエル石までの距離をジリジリと詰めてきていた。それも二足歩行で。
カエルの群れに混じり異様な姿のカエルを見つける。一際大きく腹がはち切れそうな位膨らみ体は風船のようだった。そのカエルは前足二本、後ろ足一本の三本足だった。一本しかない後ろ足で器用にピョン、ピョンとこちらへ向かい近づいてきた。目は瞬膜が半分覆い眠そうに見えていた。カエルに表情があればの話だが。
風船のようなカエルはミズホの舞の所作に合わせ前後左右にふらふら揺れ始めた。見ている間にまた一回り大きくなった。頭に角も生え風船のような下腹が赤く染まり始めた。
「仲村、頼みがある」と古林は真剣な表情を浮かべ言いにくそうに話し掛けてきた。
「何だ」
「あの三本足のカエルの腹を蹴飛ばしてみてくれ」
「ああっ、あんな気色の悪い物は触るのも嫌だ。お前がやれよ」
「あれはお金の神様だ。蹴飛ばせば金貨を吐き出すかも知れん」
「こんな時に冗談言っている場合か」
「ミズホがこの現実に対して一時的なコンフリクト、我々の現実を衝突させ状況の進行を制限している。今がチャンスだ。早く蹴飛ばせ」
「だからなんで俺なんだよ。お前がやればいいじゃないか」
古林と遣り合っているうちに風船ガエルはまた一回り膨れる。
「早くしないと今度こそ大変な事になるぞ」と古林がせっつく。
古林が初めてみせる切羽詰まった表情は事態の深刻さを表していた。何故俺は何時も損な役回りばかりなのだと思いつつ怖々とカエル石の際に近づく。何故か何時も古林の言うことを聞いてしまう。恨みを込めた視線で振り返ると古林は早くしろと顎をしゃくる。
覚悟決めカエル石から風船ガエル目掛け跳び蹴りを咬ました。ヌルグニャと嫌な感触が足に伝わる。これは確実にヒットした。だが風船ガエルはビクともせずその場に立ち腰を振るように律動していた。
反射的に古林の方を振り向き蹴飛ばしたがビクともしないと次の指示を求めた。古林は慌てた表情を浮かべ戻れと急いで戻れと手招きしている。
風船ガエルはいきなりグェェェェェーと一鳴きすると体の半分を占めそうな口を大きく開くと渦を吐き出した。驚きその場に尻餅を付いてしまう。
口から吐き出された渦はふわふわと空に舞昇り広がり今まで広がっていた別の渦を飲み込み始めた。古林もミズホも空を見上げている。
「右回りの渦だ」と古林が呟く。
右回りの渦は空を覆い尽くすほど大きくなっていた。カエル達が抗議でもするかのように一斉に鳴き声を上げ始める。あの頭の中を刺すような鳴き声だ。鳴き声が頭の中で暴れ回っている。辺りは鳴き声で埋め尽くされ三人とも鳴き声の音圧に耐えきれず頭を抱え倒れ込んでしまった。意識が保てず気が遠くなる。闇が降りてきた。




