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古林やミズホの後ろ姿を追いながら彼女の力に思いを巡らせた。彼女の力は縁の力だと古林は言った。超能力か霊力か・・・。どっちでも良いが何にせよ異能の力には違いない。古林の言う縁とは結びつきや繋がりの事を指しているのか。だとすればネットで垂井なる教師と繋がったのも縁。その縁の力ならダイレクトに垂井の所へ行けるはずでは無いのか。回りくどい。何故、道草ばかりするのだろう。古林が先ほど此処でのミッションは終了だと言っていたが何か手順みたいなものがあるのだろうか。まともな説明を出来ない古林の為想像を巡らす事しか出来なかった。
先ほどのあのカエルの大合唱から景色が違って見えている。何処が違うかと問われれば指摘することが出来ないが何か違って見える。違和感が頭の中から離れない。どう表現すれば良いのか。居心地が悪いと言うか。収まりが悪いのだ。此処は自分の居場所では無いとの思いが胸の奥底で響いていた。
古林達は再び昭和の面影を色濃く残す商店街へと向かっていた。町並みを見ながら頭から離れない違和感の正体を探す。前を歩く古林達の後ろ姿を見た瞬間、違和感の正体らしきものに気が付いた。色褪せぼんやりと見える風景の中で自分達だけが像を結び実在しているかのように感じられる。
「古林、俺達、浮いていないか?」
古林に追い着き声を掛けるが返事は戻ってこない。前を歩く古林は振り向きもせず空を見上げた。彼等が見上げていた物は空ではなく駅の表示板だった。
そこには甕潟と表示されていた。
亀田からいつの間にか甕潟と言う土地に迷い込んでいた。
何がどうなっているのか、何が起きているのか。混乱の極みの中で駅前交差点から呆然と甕潟駅を見ていた。
「仲村、行くぞ」
古林の声で現実とも夢とも着かない今に呼び戻された。
頭の奥底ではいまだにワイヤーが唸るような奇妙な音が鳴り響いている。それだけでは無い目の調子もおかしい。風景がぼやけ、色褪せて見えている。原因は分かっていた。あのカエル石での出来事が後遺症の原因に違いない。続け様に起きる理解出来ない出来事に苛立ちが募り声を荒げた。
「ここは何処だ。何が起きたんだ・・・」
「落ち着けよ。ここが垂井先生のいる所なんだろう」
古林は当たり前だと言うみたいに平然と答えた。
「落ち着けだと。いや、変だろう。こんな事って」
辺りを見渡す。雰囲気は随分変わったように感じられるが駅名と駅舎、駅前以外目立った変化は少ないようだ。
「おかしくはない。ミズホが導いてくれたんだ。行こう」
古林が声を上げる。ミズホは既に歩き始めていた。
「ミズホは何処へ向かっているんだ」
「先生の所だろう。もう手順は踏んだはずだ」
「手順?」
「どうもダイレクトには先生の所へは行けないらしい」
古林は鼻息荒く答える。ミズホの足は速く四十も半ばの二人にはこの速度は堪えた。速度を緩めろと古林はミズホに声を掛けていた。
バタバタと懐かしい音を立て車が通り過ぎていった。思わず目で追ってしまう。
「古林、見たか。まだオート三輪が走っている。子供の頃、近所のじいさんが乗り回していた。懐かしいなぁ」
古林はiPadを睨み、何かをしていたらしくそうかと上の空で答える。行き交う車を見ては感嘆の声が漏れ出た。
「古林、見ろよ。凄いぞ。今日は旧車のイベントでもあるのかな」
目の前を通り過ぎる車は全て昭和二十年代から三十年代末までの車が主だった。車好きには興味をそそられる光景だ。
「古林、凄い。バイクまで旧車だ。どこでイベントをやっているのかな」
コンテッサのクーペが砂利道を砂埃を巻き上げが通り過ぎていった。シルバーピジョンとラビットが並んで走っている。何て光景だ。つい先程まで狼狽えていたのに大好きな車をそれも珍しい車やバイクを見掛け、現状の異常事態を忘れている。興味を惹かれる物を見て気が紛れたのか周りを観察できる余裕が出てきていた。
先頭を歩くミズホはポケットから茶色の小瓶を出すと左手に山盛りの錠剤を乗せ、口へ放り込みとバリバリとかみ砕いた。
「おい、古林。ミズホの奴、ヤバイぞ。何の薬か知らんが飲み過ぎだよ。あれじゃ過剰摂取だ」
「心配するな。あれはただのラムネ菓子だよ。彼女は大好きなんだ。そんなことより何処か町の様子が変わったように感じないか」
古林はiPadに目を落としながら話し掛けてきた。
「人が増え賑やかな感じになった。買い物客で賑わう時間帯かな」
人は増えているのだが活気を感じられない。それに依然として目や耳の調子が悪い。それに加えて妙に左脚や左手が動きづらく感じる。日の光りは濁って見えるし、それでいて眩しく感じる。町の風景は退色したカラー写真みたいに見え、澱み重い風は体にのし掛かり水の中を歩いているように重かった。行き交う大勢の人々も幻のように実体を感じられない。
「やはり変化しているよ。見ろよ」
古林は目の前にiPadを突き付けた。そこには今朝方古林が撮影した商店街の画像が表示されていた。商店街と画像を見比べるが特に変わった所は見受けられない。
「良く見比べろよ」
僅かに苛立ちが僅かに交じる古林の声に無理矢理こじつけるように思いついたことを話す。
「町並みが変わって見える・・・かなぁ」と適当に言葉を濁した。
「そう思うか」
適当に言った事が当たったようだ。
「看板や店が新しい。あそこなんか分かり易い」
古林は立川屋の看板を下げたお茶屋を指差す。建物が変わっている。古めかしい造りの店舗だが経年を感じさせない。築二、三年位の感じだ。よくよく見れば彼方此方がかなり変わっていたと言うよりは過去の商店街を見ているようだ。
やはりタイムスリップして甕潟へ迷い込んだのか。しかし古林の見せた写真は亀田の商店街の写真だ。
何故ここ、甕潟とそっくりなのだ。主立った店の名前だって同じだ。我々は元々甕潟に来たのか。それとも亀田に来たと思い違いをしていたのだろうか。記憶の何もかもが曖昧に感じられる。
不意に古林が叫ぶ「仲村、ミズホに置いて行かれる」
古林はミズホの後ろ姿を追い歩き出していた。
「おい、待てよ・・・」
置き去りにされ大慌てで後を追った。振り向きざまにお茶屋の看板を見つめ首を傾げた。
何処からともなくチンドン太鼓の音色が聞こえ、何時の間にか喧噪に包まれ雑踏の中にいた。町は活気付いているように見えている。なのに、町並みも町行く人々も実在感を感じられない。薄っぺらな映像を見ているようだ。
ほんの僅か視線を逸らした瞬間に何処か何かが変化しているような気がする。そんな気がしているだけなのだろうか。真新しい店が在るなと思ったら瞬きする間に空き地になっている。確証は持てなかった。兎に角、記憶が曖昧なのだ。
あったような気がするし、無かったような気もしてくる。記憶を順序だって遡れない。それだけではない町の人々の服装や持ち物も変化しているようだ。気が付けば昭和中期をモチーフとしたテーマパークに迷い込んでいる気分だ。この情景も最初からこんな風景だったようにも思える。商店街も活気があるように見えるがカエル石での後遺症なのか古いニュース映像にしか感じられない。体も足取りも重く歩く事が億劫に感じられている。特に左脚の感覚が薄れ来ているようだ。
「町が変化している。まるで町が若返っているようだ」
古林もこの異状に珍しく驚きを感じているらしく上擦った声で話し掛けてきた。
三人とも目に見えて歩く速度が落ちてきている。ミズホも古林も左脚を引き摺り始めていた。自分と同じ症状らしい。
総天然色映画の文字が目に入る。古い映画のポスターが貼り出されている。頭上にはテアトル月映のネオンに装飾された大看板が掛かっている。かなり立派な造りの映画館だ。こんな所に映画館なんてあったかな。午前中に歩いたときは無かった。見つけられなかっただけか。いや、ずっと在ったような気もしてくる。それどころかこの映画館に通い詰めた記憶すら浮かんできた。何故、初めての町で初めて見たはずの映画館の記憶があるのだ。ロビーの風景やなだらかなスロープのついた床、臙脂色の客席、Fの12番シートの座面には親指位の穴が空いていることが頭に浮かんでくる。
何故初めて来た土地の映画館の記憶が有る。まったく身に覚えのない記憶が何故浮かんでくるのか。
何処からともなくお囃子が聞こえてきた。
チンドン、ドン、ドン。チン、ドン、ドン、ドン、ドン・・・。鉦と締太鼓の音がする。
「おい、仲村・・・アレは」と古林が呼びかけてきた。目を凝らすと道の向こうにチンドン屋の姿が見えている。
「あれはチンドン屋だ。それがどうした・・・」と言い掛け、突然に何処からか胸に飛び込んで来た恐怖の悪寒に声が震える。
チンドン屋がじわじわ近づいて来るにつれ嫌な胸騒ぎで破裂しそうな程に鼓動が速度を上げた。楽曲の音量も次第に大きく響き渡り周辺を飲み込んだ。その音色は自分でも理解出来ない程に不快感が沸き上がり、やがて嫌悪感へと変化していった。鉦の音が、太鼓の音が、クラリネットの音が体に突き刺さり胸の奥底から沸き上がる理解不能の恐怖で思考を停止させようとしていた。
辺りには瘴気を思わせる程の強烈な生臭さが漂ってきた。視線を移すと古林もミズホ目を見開き此方を凝視していた。
「どうした。この臭いたまらないな・・・」と言い掛けると同時に古林もミズホも後退りを始める。
「俺?俺じゃないぞ。俺はこんな臭いは出さんぞ」と右腕を鼻に近づけ臭いを確認する。
古林もミズホも自分を見ていなかった。視線の先は自分を通り越していた。背後で異様な気配を感じたが振り向く間もなく何かが覆い被さってきた。息が詰まるほど粘り気のあるおぞましい生臭さに包まれた。のし掛かってきた物はぬるりとした湿り気を帯び重く払いのけることも出来ずそのまま前へ突っ伏してしまった。濡れ雑巾を背中で感じ、項には冷たく粘液にまみれた大きな氷嚢みたいな物が張り付いていた。
のし掛かって来た物に脇腹をぐいぐいと凄い力で締め上げられ息が詰まる。項や背中で氷嚢みたいな感触の物が律動していた。体を締め付けられ、まともに息も出来ず、吐き気を引き起こす生臭さは更に呼吸困難を強いた。
頭の上でグェ、ゲコと鳴き声が聞こえる。まさか・・・俺に乗っかっている奴は。たまらなく不愉快な思いで頭が沸き立つ。脇腹を締め付けている物を剥がそうと掴むが、手がぬるりと滑った。手にはぬるぬるべたべたとした粘液がたっぷりとへばり付いていた。嘘だろうと頭の中で叫び声が上がる。死に物狂いで奴の下から逃げだそうと手足をめちゃくちゃに振り回すがビクともせず指は路面を掻きむしるだけだった。見上げると古林とミズホが青ざめた顔で此方を見ていた。
「見てないで早く助けろ・・・」
声を振り絞り助けを求める。絞り出す悲鳴にも近い声にミズホが真っ先に反応し、奴の鼻先を蹴り飛ばした。呆気なく奴は離れ後に転がった。体が軽くなったと同時にその場からゴキブリの如く這いずり逃げ出す。起き上がりざまに振り向くと人間ほどもあるトノサマガエルが金冠に縁取られた真っ黒な目で名残惜しそうにこちらをじっと見つめていた。トノサマガエルはのそりと左前足を一歩踏み出した。三人は反射的に後ずさりすると踵を返し十分な距離を取った。トノサマガエルが追ってくる気配は感じられない。突如、理解を超えた物に出くわし、襲われしばし呆然としていたが刺激的な生臭さで我に帰った。
「アレはなんだ。カエル男か・・・。と言うよりカエルそのものじゃないか。それもとびきりでかい」
呻くように声を押し出した。
カエルの異常なまでの大きさなど気にならなかったし、その存在に疑問すらも感じなかった。ただ嫌悪感だけが胸の中を猛烈に渦巻いていた。
古林は何故か薄ら笑いを浮かべていた。と言うより笑いを堪えているようにも感じ取れた。
「何が可笑しい。何か可笑しい事でもあったのか」
古林の薄情で理不尽な態度に怒り声を震わせ睨み付けた。
「すまん、すまん。あれは・・・」
古林は話しながら吹き出しそうになることを必死で堪えている。
「なんだよ!絞め殺され、喰われるところだったんだぞ」
怒りに任せ古林の胸座を掴みにかかった。が、長身の古林に掴みかかってもぶら下がっているようにしか見えなかった。
「落ち着けよ。あれは絞め殺そうとしていたんじゃない。ぷっ・・・」また古林が吹き出しそうになる。胸の中の怒りにどんどん油が注がれる。
「仲村、あれはカエルの交尾行動だ。お前は求愛されたんだよ。ぐふっ、ぷっ、くっ」
古林に言葉にあっけにとられ、開いた口がふさがらなかった。ミズホの表情も心なしか薄ら笑いを浮かべていように見える。
「笑い事かよ。カエルにレイプされそうに・・・」と自分で言い掛け馬鹿らしく思え言葉を切った。さっきまでの怒りも立ち消えてしまった。質の悪い悪戯をされた気分だ。
「お前、カエルにはモテるんだなぁ」と古林は真面目顔でしみじみと言った。
「何だと。カエルにはとは何だ。こぉの・・・助けもしないでどの口が言う!」
古林の頬っぺた思いっきり引っ張った。気持ちの悪い程頬っぺたが伸びる。痛てて・・・と古林は腕をふりほどく。
巨大トノサマガエルは物欲しそうに此方を見つめグェコッと一声鳴いた。恋しいのだろうか。側で聞いていたミズホの肩も震えていた。顔を背けていたので表情は見えなかったが笑いを堪えているのは確かだった。
「非道いな」と古林が頬っぺたを撫で回していると不快な調べを奏でるチンドンの音色が迫ってきた。
戯けた動作でチンドン屋の一団は近づいて来る。辺りのおぞましくも生臭い臭気が濃度を上げていった。
「古林、見ろよ。アレは・・・何に見える」
「アレはカエルだな。アマガエルだ。それもかなり生臭い。ヒキガエルもいる」
「信じられん」
呆然とカエルのチンドンを眺めていた。これは悪夢か幻か。突然、右頬に痛みが走る。
「しっかりしろよ、何だか危ない雰囲気だぞ」
今度は古林が頬っぺたを抓り返していた。
「本気で抓るんじゃない」
ほっぺたがじんじん痛む。アレは夢でも幻でも無い。
こうさいむしりの鬘を器用にかぶった股旅姿のカエルはチンドン太鼓。町娘姿のカエル。振り袖をたなびかし、蛇の目で舞うカエル。クラリネットを吹きながら踊るカエル侍。ビラをまき散らすピエロ姿のカエル。
カエルのチンドン屋は戯けた仕草でゆっくりと迫って来た。チンドンの音色はさらに不快感を増していた。まだ頬が痛い。古林が抓ったまま離さなかったのだ。いい加減離せよ。今度は自分が頬っぺたを撫で回す番だった。
ミズホが古林の服を引っ張り何かを訴えている。そこには目を疑う事すら忘れる光景が広がっていた。
道行く人々が全てカエル顔をして我々を囲んでいた。声すら出せず固まっている三人をカエル姿の人々は立ち止まりじっと見ている。真っ黒な目で。
「離れよう。かなりやばそうだ」
我知らず声が裏返っていた。
「カエルのチンドンも直ぐそこまで迫って来てる」と古林が後退りし背中をぶつけてきた。カエルのチンドン屋は三メートル程の距離まで近づいていた。カエルなら余裕で飛びかかれる距離だ。ましてや人の身の丈以上もあるカエルだ、飛距離もかなりの物だろう。本能的な身の危険を感じる。
ぴたりとチンドンガエル達が動きを止めた。空気が凍りつき静寂が辺りを包み込んだ。周りにいるカエル人間もチンドンガエルも三人を凝視し、痛いほどの視線が浴びせられていた。
先頭のチンドン太鼓を抱いた股旅カエルの真っ黒な両眼で半透明の瞬膜が瞬き、外鼻孔が開いた。それがスタートの合図だった。三人は同時に走り出していた。合図は自分達だけではなくチンドンガエルも同様にこちらへ向かい動き出した。
「いったい何のイベントだ。町中がカエルだらけだ。なんて悪趣味な・・・。それになにより臭い」
「さぁな。でも危機的状況は感じるよ。愚痴ってないで走れよ。捕まったら今度は交尾だけじゃ済まなそうだ」
余裕があるような古林の話しぶりに苛つく。こっちはパニックを通り越し意味もなく笑いが漏れそうだった。あまりの非現実感の為か途轍もなく趣味の悪いアトラクションでも体験している感覚だ。薄ら笑いを浮かべ、左脚を引き摺り必死で走った。体が重い。特に左足が出にくい。視野も狭く曇って見えている。どうしたって言うんだ。左足を引き摺りながら必死で駆ける。前方の古林とミズホも同じように目を擦り左足を引き摺りながら走っている。古林達も同じ症状なのか。やっぱりカエル石の後遺症に違いない。
異常な事態はそれだけではなかった。重い体、動かない足を引き摺り死に物狂いで走っているのにチンドンガエルとの距離が開かない。楽器を演奏しながら戯けたステップで迫り来るチンドンガエルの速度はそれ程速くない。なのに、奴らが一歩踏み出せばあの吸盤の付いたぬるぬるした手で捕まりそうだった。悪夢の世界だ。必死で走っても距離が開かない。正にこれが夢中ってやつか。
追い打ちを掛けるように再び得体の知れない恐怖が突然やって来た。それは何処からやって来て胸に突き刺さり一気に広がっていった。溢れかえる恐怖に頭の芯が痺れる。今の状況下でも今の今までこれほどの恐怖は感じていなかった。まるで外から恐怖と言う毒を注ぎ込まれている感覚だった。これは断じて自分の内面から沸き上がる恐怖で無い。しかし注ぎ込まれた恐怖は体中を浸食し自己の恐怖となっていった。
ミズホが路地へ逃げ込みそれに続いた。大して走っていないのに息が上がる。膝が笑いそうだ。
もう若くは無いと自覚はしていたつもりだったが、こうまで体力の衰えを実感させられると我ながら本当に情けない。
ふと、この切羽詰まった状況下に歳を取る事は情けないことなのかと疑問が浮かぶ。俺は情けないのか。誰でもが歳を取るものなのに。何故、そのような思いが湧くのだろう。自身の体力や運動能力の限界点が低くなって来ている為にネガティブな思いに捕らわれているのかと思いながら二人の後ろ姿を追う。
それにしても三人ともに左足を引き摺りながら似たような格好で走っている。傍から見れば殆ど歩いている位の早さに見えるだろう。ミズホは道を知っているかのように迷いなく進んで行った。後ろを気にしながら死に狂いで歩を進めていた。カエル達は見えなくなったがまだチンドンのお囃子が微かに響いていた。
煤け老朽化した木造の家並が続き、どの家の外壁も漆喰がひび割れ剥がれ、崩れ落ち露わになった土壁からは骨組みである竹小舞が剥き出しになっている。家々の玄関先や庭先では古寂びたカエルやタヌキの置物が大量に置かれ不気味な微笑みを浮かべていた。
薄暗く狭い路地は澱み重苦しい空気が満ち、空には薄汚い緋色に濁った太陽が鈍く光っている。カエル石から始まった原因不明の症状でまともに動かない身体のせいもあるが気が滅入る。依然として辺りが生臭い。それともカエル臭いと表現すればいいのか。さっきカエルに抱きつかれたせいかも知れないと袖口や肩口の辺りの匂いを嗅いでみるが臭いはしなかった。
それにしてもこんなにも陰鬱な町並みだっただろうか。路地や家々には人影は見受けられない。数時間前に歩いた長閑な町並みは消え失せ廃墟を思わせている、そんな光景の中、目を引く物を見つけた。それは道に沿って立ち並ぶ木製の電信柱だった。今時まだこんな古い物が残っていたのか。ホーロー製の草臥れた電傘からのぶら下がる裸電球に見とれていると呼び声が掛かる。いつの間にか古林達との距離がかなり開いており慌てて追い掛ける。
路地を幾度となく回り進むが似たような気が滅入る陰気な景色ばかりが続き、先行きが予想も出来ず止めどなく溢れる不安だけが募るばかりだった。その不安は映画を見ているように他人事に感じるのだが不安から来る恐れは紛れもなく自分のものだった。恐怖の入ったばかでかい注射器を尻に突き立てられるイメージが浮かび上がる。
クソッと呟き腕時計を耳に当てた。
「もうカエルどもは追ってこないみたいだな」
古林は振り返りチンドンのお囃子もカエルの気配も消えた薄暗い路地を警戒しながら話し掛けてくるが返事が出来ないでいた。
「仲村、どうした何処か具合でも悪いのか?」
「ああ・・・。頭がどうかしてしまったようだ」
追い打ちをかけるように新たに湧いた強烈な不安で腕時計から耳が離せないでいた。古林への返答も上の空でしていた。
先程から歩きながら何度も腕時計を見ているが時間が解らない。時針、分針を読み取るが先程確認したばかりの時間が覚えていられない。時間の経過を理解できず混乱していた。
「時間が・・・」と声を絞り出すが後に続く言葉が出てこなかった。
古林は分厚い掌で腕時計を押さえ「時間のことは忘れろ。空白地帯の中での時間は何の意味を成さないのかもしれん」
何かを言おうとしたが、喉元で言葉引っ掛かり出てこない。もどかしさだけが募り古林を睨むだけしかできない。
「質問は後だ。先を急がなければならないようだ」
薄気味悪い道を進みながらふと気付く事があった。相変わらず迷いを見せずに進んでいるミズホに疑念が沸き上がる。彼女は本当に道を知っているのだろうか。古林へ不審を口にする。
「彼女はさっきから左回りしかしていないんだが、本当に彼女に付いて行って大丈夫なのか?」
古林は此方を一瞥すると頷くだけで何も言わなかった。古林の態度にも不審を感じつつ前方へ視線を移すとミズホとの距離がかなり開き始めていた。
突然ミズホが振り向き必死で手招きし、急げと急かせていた。今まで人気の無かった路地や廃墟みたいな家並みから痛いほどの得体の知れない気配が立ち込め始め、嫌悪感に満ちた予感が浮かび上がる。アレを思わせる嫌な予感が。
彼方此方からひそひそと囁き声が聞こえている。囁き声なのに声が妙に大きく聞こえ頭の中を駆け巡っている。周囲からはぼんやりとし、歪な輪郭だが人の姿に似た荒い粒子の黒煙が幾つも湧き出していた。考えるまでも無くあれはカエル人間の群れだと見た瞬間に直感が告げていた。
囁き声が騒めきへ変わる。甕潟へ迷い込んでから耳を離れない不快な耳鳴りと騒めきが頭の中で交じり膨らみ弾けようと頭蓋を内側から押し広げる。こめかみに浮き出た血管がドクドクと痛いほど脈打っていた。
ミズホを先頭に古林に背中を押され走り出すが左半身が思うように動かず早歩きにもならない。歩く先々に枝道が幾つも現れる。こんなにも枝道だらけの道なんて町の構造上あり得ない。道を曲がる度に新しい道が出来ているようだ。
背後から騒めきが津波のように押し寄せてくる。気が焦り必死で走るが歩幅が広がらず摺り足でしか進めない。
露払いを務めるミズホも似たよう格好で歩いているが迷い無く進んでいた。古林が説く縁の力で行く先が解っているのだろうか。騒めきが質量を持ちその圧力を背中でびりびりと感じる。後ろが気になって仕方ないが振り向き奴らとの距離を確かめる勇気が持てない。
もどかしくもミズホや古林とは電車ごっこかムカデ競争みたいな格好で殆ど引っ付きながら進んでいると突然、古林の大きな背中に思いっきり追突し汗で湿ったシャツの感触を顔面一杯に感じた。何事かと古林の体越しに覗くとミズホは五差路の真ん中で仁王立ちをしていた。
迷っているのか。不味いぞ。かなり不味い。背後からだけでなく建ち並ぶ家々の玄関や庭先からもカエル人間の気配を感じさせる煤状の煙が湧き始めている。取り囲まれるのも時間の問題に思われた。早く動けと焦り、古林の背中を押すが奴は動かずバッグの中を探っている。そうこうしている内に案の定、五差路のどの道からも黒い煙が湧き出してきた。
すっかり取り囲まれ前進も後退も出来ない。枝道から玄関先から庭先から屋根の上まで黒い物が見えている。退路が見つけられない。どうすればいい。カエル人間どもに捕まるとどんな事になるんだ。生命の危機しか感じられない。古林はバッグから取り出した物をミズホに手渡した。
ミズホは古林から受け取った物をカエル人間に向け両腕を真っ直ぐに伸ばすとアイソセレススタンスに構えシュッ、シュッと霧状の液体を散布し始めた。息が詰まりそうな生臭さを切り裂くようにミントの香りが辺りに広がる。ミズホの手にあった物は消臭除菌スプレーだった。
消臭除菌スプレーが除霊に効果的だと言う情報は以前ネットで話題になっていた。が、アレは霊では無いだろう。霊とは思えない妖怪とか怪人の類いに感じられる。だが消臭除菌スプレーの効果は絶大だった。辺りに立ち込めるミントの香りと共に黒い煙状の固まりが溶け薄れどんどん消えてゆく。
追い詰められる緊張感が少しは解け安堵の一息がつけた。
「お前は何時も消臭除菌スプレーなんか持ち歩いているのか?」
「ああ。こんな事もあろうかと用意していた。香りが魔除けや邪気の浄化に使える事は古来より伝えられて来た事だ」と古林は何処かで聞いたことのあるような台詞を織り交ぜしれっと言い放った。
奴は常にこんな状況を想定しているのか。こんな状況がやたらにあるのか。消臭除菌スプレーを小刻みに撒き続けるミズホの姿は頼もしく見えた。それにしてもミズホのあの構えはハンドガンの構えの一種だ。それもかなり板についている。
「奴らに効いている。消臭除菌スプレーとはな・・・」
「アレはデバイスの一種だ」
小鼻を膨らませた古林は自慢げに答えてきた。
「デバイス?消臭除菌スプレーが」
「この現実に働きかける為さ。仲村は消臭除菌スプレーが除霊に使えると言う情報を持っていただろう。俺達もその情報を認識している。その情報は今この現実に存在する俺達三人の共通認識だ。その情報の力でこの現実を書き換える装置と言い換えた方が解り易いかな」
「尚更解らんぞ。現実だの共通認識だのと全く理解できん」
古林は困ったような表情を浮かべ暫く考え込んだ後説明を始めた。
「情報は共通認識された数が多いほど強大な力を持つ。現実をも変えられる力だ。SNSなどが最たる例だ。そうだろう」
「そうだろうと言われてもなぁ・・・」
カラカラと乾いた音が響き渡った。ミズホが空になった消臭除菌スプレーを煤状カエル人間目掛け投げ捨てたのだ。周囲にはまだ消し切れてないカエル人間達が再び迫り始めていた。
「やはり三人だけでの共通認識の効果は一時しのぎにしかならなかったようだ。ミズホ、あれを使うしか無いようだ」
古林の指示ミズホは今まで以上に不機嫌そうな表情を浮かべ戸惑っているように見える。
「ミズホ、ぐずぐずするな。このままだとこの現実の一部にコンバートされてしまうぞ」
古林は何を言っているのだ。二人の遣り取りが理解できない。理解なんかより早くこの場を脱出することが先決だった。カエル人間達は再び間を詰めてきている。
ミズホは周囲を一瞥すると上着のポケットから緋色の小袋を取り出した。暫く小袋を眺めていた。迫り来るカエル人間達に古林は早くしろと声を上げている。
ミズホは躊躇うような仕草を見せながらも小袋の中から十五センチ程の日本刀の欠片を摘み上げ頭上に振り翳した。
刀の切っ先から甲高い唸りが響き渡り、音の波動に包まれると同時に景色が霞み色を失いホワイトアウトした。
何事も無かったかのように路地に立っていた。辺りを見渡すがカエル人間は消え去っていた。ミズホは酷く疲れた様子だったが再び進み出した。辺りを警戒しながら後に続く。先頭のミズホは肩で息をしながらラムネ菓子を口へ放り込んでいた。
突然古林が振り向き説明を求めてもいないのに話し始めた。
「ミズホの持っているアイテムは消臭除菌スプレーの上位デバイスだと思ってもらえば仲村にも理解しやすいかな。ただ一時的な効果だと思うが」
「上位デバイス・・・。刀の欠片が・・・」
古林の奴は何でもかんでもコンピュータ用語に置き換えたがる。機械音痴の自分にはよけい解りづらい。それにしたって都合良すぎる気もしないではない。何はともあれまあそれで助かったような物だが。あれは古林の店に非売品で展示されていた守り刀の切っ先の欠片だ。刀身には見たこともない文様が刻まれている。古林の店にある物だ。何か怪しい謂われがあるに違い無いのだろう。
ちらりと横目で古林を見る。奴はどんな質問も受け付ますと持っている表情だ。スルーしてやる。古林の言うことなど理解出来るものか。
心なしか身も心もちょっぴり軽くなったように感じる。あの刀の力のせいなのだろうか。相変わらず左足の調子は良くないが。古林がまだ此方を見ているが無視を決め込み、先を急いだ。
ミズホが此方だと指し示し路地を左に折れると目の前一面に大きな湖が現れた。振り向くと路地も建物も消え水田や葦原の風景が広がっていた。今更路地が消えようが家が消えようが驚きはしなかった。
湖の眺めは町中で見掛けたモノクロ写真と同じ光景だ。これが潟ってものなんだろうな。大きな湖と変わらないなと周辺を見渡す。水辺に沿って葦原が何処までも続き、水面は遠くの山々を写している。沖では打ち捨てられ沈み掛けた葦舟が漂っていた。
ミズホの進んでいる方向には集落が見えている。ミズホはあそこを目指しているのか。道すがら潟の様子を見ていると「地図に無い湖と地元の人達は潟をそう表現していたそうだ。マップアプリにも表示されないのかな」と古林は今や使い物にならないiPadを撫で回した。
「何を今更、カエル人間に追っかけられ、町の建物が消えたり、現れたりコロコロ変わっているんだ。表示の不具合くらい些細なことだ」と強がり交じりに言葉を返す。正直な所、異常な出来事が矢継ぎ早に起こり疲労のため考えることが面倒臭かった。そう言う事じゃないんだがなぁと古林の呟く声が聞こえた。
程なく木々に覆われ、影に沈んだ建物が視界に入ってきた。
「如何にもの佇まいの家だな」
「ああ、昔の特撮番組に出てくる怪しい研究所みたいな家だな」
古林も同意見だった。
目の前に現れた家は昔特撮映画で見たマッドサイエンティストが住む自宅兼研究所にそっくりに見えた。外壁の殆どが蔦に占拠され蔦の隙間から僅かに窓を覗かしていた。家の周りは手入れのされていない木々が奇妙な形の枝を四方へ伸ばし、感じたことのない異質な雰囲気を発散させていた。
玄関へと続く飛び石の敷かれた長いアプローチ脇では苔生した子ガエル達を背負った石の大ガエルがこちらを睨んでいる。タヌキの信楽焼も焦点の合わない眼差しでにやにやと嫌みな笑みを浮かべている。
薄暗いアプローチの先に玄関の明かりが見える。八角形の玄関窓から青や赤、黄の色ガラスがぼんやりとした光を放っていた。日が落ちる時間ではないのに周囲は妙に暗かった。濃鼠色に沈んだ玄関までの道のりを古林に小突かれ恐る恐る歩を進める。後から古林とミズホが少し離れ付いてくる。自分は何時もこんな時に先頭を歩かされている。納得がいかないと後を睨み付けるが古林は顎をしゃくり早く行けと催促する。色とりどりの光を放つ玄関が近づくにつれ言い表すことの出来ない異質な雰囲気が強くなってくる。
これは良い感じだ、想像力が刺激される。番組のビジュアルプランが頭に浮かぶ。この感覚を番組に使えないだろうか。どう表現すれが上手く伝えられるのかと思案してみるが体の芯まで染み込むような異質感や薄気味悪さを表現する為の最良のアイディアは浮かばなかった。さっきのカエル人間達についても恐怖を通り越し不愉快なイベントにしか思えなくなっていた。
玄関扉の柔らかく光る八角窓の幾何学模様のステンドグラスを前に固唾を飲む。敷地内が薄暗い所為なのか昼間でも電灯付けているらしい。
ドアノブに手を伸ばそうとした瞬間、叫び声が響き渡った。古林、ミズホと顔を合わせる。また悲鳴が上がる。ドアの中からだ。反射的にドアを押し入るように開け放った。
目に飛び込んできた光景は上がり框で暴れ叫び車椅子から転げ落ちそうな老人を必死で支えている小太りの男が驚きの表情でこちらを見ていた。暴れる車椅子の老人と小太りの男と対峙する三人とお互いが現状の状況判断に迷い気まずい間が生まれ、視線が重なりお互いをポカンと見つめ合っていた。
老人を支える小太りの男の目には驚きと恐怖が色濃く浮かんだが間を置かず安堵の表情へと変わったが、老人は宙を見つめ不穏な表情を浮かべ手足を振り回し怯え叫んでいた。来るな、寄るな、あっちへ行けと叫ぶ言葉がかろうじて聞き取れた。
何時もは不機嫌そうなミズホが目を丸くして古林にしがみつく。一瞬ちょっぴり可愛いところもあるなど思ってしまう。叫び暴れる車椅子の老人、宥める男。状況が解らず言葉も出せず立ち尽くしていると古林が動いた。
古林は靴を脱ぎ捨て家に上がり込むと老人と男の横をすり抜け家の中へ消えていった。これには玄関に残された三人は更にポカンとするしかなかった。
最初に口を開いたのは老人を宥める男だった。
「・・・いませんでしたか」と男は老人を気にしながら小声で話し掛けてきた。声が小さく聞き取れない。手招きする男の側へ近寄ると男は耳元でカエルと小さく、とても小さく囁いた。




