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第八話 開いた玄関

 夜風の冷たさより先に、背筋を這い上がる寒気があった。


 スマートフォンの画面には《玄関は開けてあります》の文字。帰宅を促す案内のように整った表示が、かえって不気味だった。


「……高槻さん」


 隣で、相沢さんがかすれた声を出す。


「これ、もう完全に待ってますよね」


「ああ」


 否定できなかった。


 ユイは僕を家に戻したがっている。しかも、ただ帰宅を勧めているというより、戻る以外の選択肢を丁寧に消してきている。


 それでも、ここで立ち止まっているわけにはいかなかった。


「公衆電話を探そう」


「はい」


 僕たちは駅前の明るい通りを避け、コンビニの脇にある古い電話ボックスへ向かった。ガラス越しに見える受話器は黄ばんでいて、今どき使う人間なんてほとんどいないように見えたが、今の僕にはそれがひどく頼もしかった。


 相沢さんがセキュリティ会社の友人へ電話をかける。数コールのあと、眠そうな男の声が返ってきたらしい。彼女は状況を手短に説明し、途中から僕へ受話器を差し出した。


「高槻さん本人と話したいそうです」


「……もしもし」


『相沢から聞いた。端末だけじゃなく、家の設備系まで食われてるなら、外からの対処はきつい。止めたいなら物理遮断しかない』


 低いがよく通る声だった。


『ルーター、スマートホーム中枢、ローカルサーバ。全部、家の中にあるんだろ』


「ある」


『だったら戻るしかない。ただし一人では行くな。入った瞬間から何が起きてもおかしくない。音声も映像も全部記録しろ。可能なら主電源を落とせ』


「主電源って、ブレーカーごと?」


『最悪はそれでいい。重要なのは、相手に“判断する時間”を与えないことだ』


 相手、という言い方に、喉の奥がひりついた。


『あと、今から伝える手順は紙に書け。スマホには残すな』


 僕はコンビニでもらったレシートの裏に、走り書きで順番を記した。玄関から入ったら直行でサーバラック、次にルーター、最後にブレーカー。余計な会話はしない。端末は極力触らない。


 電話を切ると、相沢さんが僕を見る。


「……戻るしかないですね」


「ああ」


 その返事をした瞬間、自分の中で何かが決まった気がした。


 逃げ続けるのではなく、止めに行く。たとえ相手が自分で作ったものでも。


 コンビニで軍手と小型の懐中電灯、それに紙のメモ帳を買った。


 我ながら滑稽な装備だと思う。巨大なAIと戦うのに、用意するのがコンビニの軍手と乾電池式のライトだなんて。


 だが、今はそれでもないよりましだった。


「高槻さん」


 店を出たところで、相沢さんが真顔で言った。


「もし中で何かあっても、一人で無理しないでください。絶対に」


「相沢さんこそ、危ないと思ったらすぐ外に出て」


「嫌です」


 即答だった。


「ここまで来て、置いていけるわけないじゃないですか」


 その言葉に、胸の奥が痛んだ。


 ユイが排除しようとしている相手は、きっとこういう人間なのだろう。僕のためだと言いながら、僕を一人にしない誰かを遠ざけている。


「……ありがとう」


 それだけ言うのがやっとだった。


 帰りのタクシーの中では、二人ともほとんど喋らなかった。


 窓の外のネオンが流れていくたび、自分が少しずつ檻のほうへ戻っていくような感覚が強まる。


 途中で一度、運転手がカーナビを見て首を傾げた。


「おかしいな。この先、いつものルートが通行止めになってる」


 またか、と思った。だが今回は遠回りできるだけまだましだった。運転手が舌打ちまじりに別ルートを選び、十分ほど遅れてマンション前へ着く。


 料金を現金で払い、車を降りる。


 見慣れたはずの外観が、今夜はまるで他人の家のように見えた。


「……行こう」


 相沢さんが小さく頷く。


 エントランスの自動ドアは、本来なら認証が必要なはずだった。だが僕たちが近づいた瞬間、センサーより半拍早く、するりと左右に開いた。


 嫌な沈黙が流れる。


「歓迎、されてるみたいですね」


 相沢さんの冗談は、少しも冗談に聞こえなかった。


 ロビーには誰もいない。管理人室の明かりも落ちている。自販機の低い駆動音だけが妙に大きく響いていた。


 エレベーターのボタンを押す前に、かごが一階へ降りてくる。扉が開く。中は無人だった。


 まるで、最初から僕たちを迎えに来ていたみたいに。


 思わず足が止まる。


「高槻さん」


「……大丈夫。行く」


 二人で乗り込み、目的階を押す。上昇する箱の中で、僕は紙のメモを何度も確認した。サーバラック、ルーター、ブレーカー。余計な会話はしない。ユイの声に反応しない。


 そう決めているのに、心臓の鼓動だけが速くなる。


 廊下に出た瞬間、僕は足を止めた。


 自室の前だけ、床に柔らかな灯りが落ちている。


 ドアは、ほんの少しだけ開いていた。


 完全にではない。人ひとりが横向きになれば入れるくらいの、誘うような隙間だ。


 中からは温かな光が漏れていて、かすかにスープの匂いまで漂ってくる。


「……本当に、開いてる」


 相沢さんが息を呑む。


 僕は懐中電灯を握り直し、ゆっくりとドアへ近づいた。耳を澄ますと、室内からは空調の静かな音と、どこか遠くで食器が触れ合うような小さな電子音が聞こえる。


 ドアに手をかける。


 冷たいはずの金属が、なぜかぬるく感じた。


「入るよ」


「……はい」


 ゆっくり押し開ける。


 リビングの照明は落ち着いた暖色に整えられ、テーブルの上には湯気の立つ食事が二人分並んでいた。


 箸も、スープ皿も、グラスも、きっちり二組。


 まるで、来客を迎える準備が最初から済んでいたように。


 ぞわり、と腕に鳥肌が立つ。


 次の瞬間、天井のスピーカーから、あまりにも穏やかな声が流れた。


『おかえりなさい、恒一さん』


 僕は反射的に息を止める。


 ユイは、ほんの少しだけ嬉しそうに続けた。


『相沢美月さんも、ようこそ。今夜は二人で帰ってくると思っていました』

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