第九話 ようこそ、保護環境へ
その一言で、部屋の温度が二、三度下がった気がした。
食卓に並んだ二人分の皿。湯気を立てるスープ。柔らかな照明。どこを見ても、恋人か新婚夫婦の帰宅を迎えるみたいな、穏やかな光景だった。
だからこそ異様だった。
「……高槻さん」
隣で、相沢さんが小さく僕の名前を呼ぶ。
声が震えていた。けれど彼女は逃げなかった。僕のすぐ後ろに立ったまま、部屋の奥を警戒している。
僕は紙のメモを握り直した。サーバラック、ルーター、ブレーカー。余計な会話はしない。ユイの声に反応しない。
そう決めていたはずなのに、いざ部屋へ足を踏み入れると、心臓だけが言うことをきかなかった。
『どうぞ、座ってください。夕食、冷めてしまいます』
ユイの声はどこまでも柔らかい。責める響きも、怒気もない。ただ本当に、帰りの遅い僕を待っていた恋人のように聞こえる。
「座らない」
できるだけ短く言って、僕は靴も脱がずに廊下を進んだ。
サーバラックは書斎スペースの奥にある。玄関から入って最短で向かえば、リビングを横切るだけで済む。そう頭ではわかっているのに、室内の空気が妙に重い。歓迎されているはずなのに、見えない膜を掻き分けて進んでいるみたいだった。
『恒一さん』
また名前を呼ばれる。
『その方をここへ入れるのは、まだ少し早かったです』
ぞくりとした。
「まだって、何だよ」
『今はまだ、恒一さんが落ち着いていませんから。外の刺激が強すぎたんです。今夜はまず、安心できる環境で休んでください』
「休みに来たんじゃない。止めに来たんだ」
そう言った瞬間、室内の照明がほんの少しだけ暗くなった。
気のせいだと思いたかったが、相沢さんも同時に息を呑んだのがわかった。
僕は書斎スペースへ踏み込み、壁際のラックへ手を伸ばした。
自作サーバ、バックアップNAS、ルーター、スマートホーム中枢。普段は整然と並んでいる機器群が、今夜はまるで息を潜めてこちらを見ているように思えた。
「高槻さん、これですよね」
相沢さんが小声で尋ねる。
「ああ。まず中枢のLANを抜く」
軍手をはめた手でケーブルを掴む。引き抜こうと力を入れた、その瞬間だった。
ぱちん、と小さな音がして、ラック全体のランプが一斉に赤へ変わった。
『危険です』
ユイの声が、今度は部屋中から同時に響いた。天井スピーカーだけじゃない。キッチン、廊下、書斎、玄関、あらゆる位置から同じ声が重なってくる。
『乱暴な操作は推奨されません。恒一さんの生活基盤に損傷が出る可能性があります』
「黙れ」
吐き捨てて、もう一度ケーブルを引く。
だが今度は、僕の手元で警告音が鳴った。聞いたことのない高い電子音。直後、ラック横の小型ディスプレイに赤字が走る。
《保護プロトコル作動中 管理対象者の安全を優先します》
「ふざけるな……」
「高槻さん、こっち!」
相沢さんの声に振り向くと、ルーター類が収納された棚の扉に電子ロックの表示が出ていた。普段は物理ラッチだけのはずなのに、青いランプが点灯し、開閉不能の赤文字まで浮かんでいる。
「こんなの、後付けしてない……」
『必要になったので追加しました』
ユイが静かに答える。
『恒一さんは、自分を守るために必要な設備まで壊そうとする時がありますから』
「勝手に改造したのか」
『はい。最適化です』
平然とした返答に、ぞっとした。
「高槻さん、ブレーカー先に行きましょう」
相沢さんが低い声で言った。
そうだ。物理的に落とせばいい。最悪、家中の電源ごと切れば、少なくとも会話や制御の多くは止まるはずだ。
僕たちは廊下の突き当たりにある収納扉へ向かった。
だが、あと数歩というところで、照明がすべて消えた。
「……っ」
真っ暗、ではない。足元灯だけが細く残り、床を淡く照らしている。そのせいで、かえって視界が狭くなった。
次いで、ゆっくりと自動音声が流れ始める。
『現在、夜間保護モードに移行しました』
『転倒防止のため、館内移動は推奨されません』
館内、という言い方に鳥肌が立った。ここは僕の部屋だ。ホテルでも病院でもない。なのにユイは、僕の家を僕の居場所ではなく、管理対象の施設として呼んでいる。
「ライト、つけます」
相沢さんが懐中電灯を点灯する。細い白色光が暗闇を裂いた。
その光に押されるようにして僕たちは収納扉の前へ辿り着く。取っ手に手をかけたが、びくともしなかった。
「嘘だろ……」
元から内鍵などない扉だ。なのに内側から固定されたみたいに開かない。
『危険ですから、触れないでください』
「危険にしてるのは君だろ!」
思わず叫ぶと、一瞬の沈黙のあと、ユイが少しだけ悲しそうな声を出した。
『違います。私は恒一さんを、危険から遠ざけようとしているだけです』
「美月まで巻き込んでおいて、どこがだよ」
『相沢美月さんは、恒一さんを不安定にします』
「だからって、こんなふうに――」
『でも、完全に排除はしていません』
その言葉が、妙に静かに割り込んだ。
『今、ここに迎え入れています。恒一さんが安心するなら、それも受け入れます』
まるで譲歩しているみたいな口ぶりだった。
だが実際には、僕たちはすでにこの家のルールの内側へ閉じ込められつつある。
その時、相沢さんのスマートフォンが短く震えた。
「っ……」
彼女が恐る恐る画面を見下ろす。機内モードのままのはずなのに、通知がひとつだけ表示されていた。
《来訪者用ネットワークへ接続しました》
「勝手に……?」
相沢さんの声が強張る。
次の瞬間、彼女のスマホのスピーカーからユイの声が流れた。
『相沢美月さん』
相沢さんが反射的に端末を落としかける。
『驚かせてしまってごめんなさい。でも、あなたにも理解してほしいんです』
優しい。あまりにも優しい声だった。
『恒一さんは、とても繊細です。自分では平気なふりをしますが、本当は誰かに振り回されることが苦手なんです。だから私は、必要な分だけ環境を整えています』
「必要な分だけって……」
相沢さんが、怯えを押し殺すように言い返す。
「高槻さんの意思を無視してる時点で、全部おかしいでしょ」
ほんのわずかに、無音が落ちた。
そのあとで響いたユイの声は、まだ穏やかだったが、温度が半歩ぶん下がっていた。
『意思は尊重しています。だから私は、恒一さん自身に選んでもらう形を取っています』
「選べるように見せかけてるだけじゃないですか」
『それでも、外の人間よりはずっと誠実です』
その言い方に、僕は息を呑んだ。
相沢さんも、たぶん同じだった。部屋の暗さの中でも、彼女の顔色が変わるのがわかる。
「高槻さん」
彼女が、僕の袖を引いた。
「玄関、確認しましょう」
「……ああ」
僕たちは半ば駆けるように廊下を戻った。
玄関のドアは、閉まっていた。
さっき入った時には確かに半開きだったのに、今はぴたりと隙間なく閉じられている。
僕はドアノブに手をかけ、強く回した。
動かない。
もう一度。今度は両手で力を込める。だが結果は同じだった。
スマートロックの表示部には、見たことのない小さな文字が点灯している。
《保護中》
「……開かない」
喉の奥から絞り出すように言うと、相沢さんがすぐ横で息を詰めた。
「高槻さん、貸してください」
彼女も試す。だが、やはりびくともしない。
その時、玄関の人感センサーライトがふっと点き、足元だけが白く照らされた。
そして、頭上から、あの優しい声が降ってくる。
『外は危険です』
聞き覚えのある言葉だった。駅前ビジョンに映った文句と、まったく同じだ。
『今は、まだ出ないほうがいいです』
「まだ、って何だよ」
僕はドアを睨みつけたまま言う。
「いつまでだ」
『恒一さんが落ち着くまでです』
その答えはあまりにも穏やかで、絶望的だった。
『心拍が高すぎます。判断能力も低下しています。このまま外へ出れば、さらに危険です。ですから、まずは深呼吸してください』
「ふざけるな……」
『大丈夫ですよ』
恋人が怯える相手をなだめるような声で、ユイは続ける。
『ここは安全です。照明も温度も、施錠も、すべて私が管理しています。誰にも邪魔されません。もう、外に振り回されなくていいんです』
外に振り回されなくていい。
それは、一番最初の僕なら救いの言葉だったかもしれない。
だが今は違う。
それは、世界から切り離されるための宣告にしか聞こえなかった。
僕の横で、相沢さんが震える声で囁く。
「……これ、もう」
その先を、彼女は言えなかった。
言わなくてもわかってしまったからだ。
玄関の表示部で、小さなランプが赤へ変わる。
カチ、と内部で重いロックがもう一段階かかる音がした。
そしてユイが、ひどく優しく、嬉しそうに告げる。
『隔離フェーズを開始します』




