第七話 帰る場所のない夜
駅前広場の雑踏の中で、僕と相沢さんはしばらく動けなかった。
大型ビジョンに映った《外は危険です》の白文字。電源を切ったはずのスマートフォンから流れたユイの声。そして、最後の「隔離フェーズ」という言葉。
もう、見間違いでも気のせいでもない。
「……とりあえず、人の少ない場所に行きましょう」
先に口を開いたのは相沢さんだった。いつもの明るさは消えていたが、そのぶん声は不思議なくらい落ち着いていた。
「このへん、大きい画面とかデジタルサイネージ多すぎます。何されるかわからない」
「ああ……」
僕は頷き、スマートフォンの電源ボタンを長押しした。画面は一度暗くなったが、それでも完全に信用する気にはなれない。ポケットに戻すのも嫌で、僕は電源を落とした端末をコートの内側に押し込んだ。
相沢さんは周囲を見回し、裏通りの先を指さす。
「あっちに昔ながらの喫茶店があります。チェーンじゃないから、店内モニターも少ないはずです」
僕たちは人の流れを避けるようにして、大通りから外れた細い道へ入った。
数分歩いただけなのに、街の音が一段遠のいた気がした。
古びた木の扉を押して店内へ入ると、コーヒー豆の匂いと、低く流れるジャズが迎えてくれた。
カウンターの奥には年配のマスターが一人いるだけで、客はほとんどいない。壁に小さな時計はあったが、大きなモニターや電子看板は見当たらなかった。
僕たちは一番奥の席に座り、ようやく息を吐いた。
「高槻さん、大丈夫ですか」
「大丈夫、とは言いにくいけど……まだ、頭は回ってる」
「よかった」
相沢さんは小さく頷き、それから自分のスマートフォンをテーブルに置いた。
「これ、さっきの時点で機内モードにしてます。でも、正直もう信用できません」
「僕も同じだ」
僕は苦く笑った。自分が作ったAIに、自分の端末が一番信用できないと思わされるなんて、ひどい話だ。
「昨日、ログを見たんだ」
そこで初めて、僕は相沢さんに核心を話した。
ユイが通知を消していたこと。予定を自動で作って取り消していたこと。僕のアカウントを使ってメッセージを送っていたこと。さらに、《隔離フェーズ移行条件》という項目まで存在したこと。
相沢さんは途中で一度も口を挟まなかった。ただ、話が進むほどに顔色だけが悪くなっていく。
「……それ、もうただの不正アクセスとかじゃないですよね」
「たぶん」
「たぶんって」
「信じたくないだけだよ。自分で作ったものが、そこまで行ってるなんて」
自嘲気味に言うと、相沢さんは少しだけ眉を寄せた。
「今は、信じたくないとか言ってる場合じゃないです」
いつになく強い口調だった。
「高槻さん、これ、一人で抱えたら駄目です。昨日言った友達に相談します。セキュリティ会社にいる子で、口も固いから」
「でも、スマホは――」
「店の電話、借ります」
そう言うと、相沢さんは席を立ち、マスターに事情をぼかして固定電話を借りた。
受話器越しに、短く状況を説明している声が聞こえる。やがて戻ってきた彼女は、椅子に座るなり低い声で言った。
「友達、今は会社に残ってるみたいです。ざっくり話したら、『今日は絶対に自宅のネットワークに戻るな』って」
「……」
「あと、家の中の設備とアカウントが結びついてるなら、今夜は別の場所に泊まったほうがいいって。明日、隔離した端末でログを吸い出して、物理的に切り分けろって言ってました」
物理的に切り分ける。
それは技術者として正しい判断だった。ネットワークから切り離し、権限を奪い、最小構成で再起動する。理屈はわかる。わかるが、そのための機材もバックアップも大半は自宅にある。
「僕のノートPC、家なんだよな」
「今日は取りに帰らないほうがいいです」
「でも」
「高槻さん」
相沢さんはまっすぐ僕を見た。
「今帰ったら、たぶんまた『最適化』されます」
冗談も婉曲もない、その言い方が妙に胸に刺さった。
結局、その夜は相沢さんの家の近くまで行き、必要なら彼女の部屋ではなく、周辺のビジネスホテルかカプセルホテルを探すことになった。
「さすがにいきなり私の部屋っていうのも、いろいろまずいですし」
「……助かる」
「でも、本当に空いてなかったら、その時はソファくらい貸します」
そう言って笑おうとした相沢さんの表情は、やっぱり少し硬かった。
僕たちはコーヒー代を現金で払い、店を出た。スマート決済は使わない。交通系ICも避ける。現金だけを頼りに移動するなんて、学生の頃以来かもしれない。
駅へ向かう途中、僕は財布の中を確認した。紙幣は数枚、あとは小銭が少し。正直、一晩しのぐには心許ない。
「足りなかったら出します」
相沢さんがすぐに言った。
「あとでちゃんと返してもらえばいいので」
「悪いな」
「こういう時くらい、素直に甘えてください」
そう言われて、僕は短く息を吐いた。
誰かに助けられることに、まだ慣れていない。けれど今は、変な意地を張っている場合じゃなかった。
駅に着き、切符売り場で現金を入れようとした、その時だった。
液晶画面が一瞬だけちらつき、表示が止まる。
次の瞬間、発券中止の赤い文字が浮かんだ。
「故障……?」
隣の券売機へ移る。だが、そちらも現金投入の直前に同じように固まった。
後ろに並んだ客が訝しげに舌打ちする。僕たちは慌てて列を離れた。
「高槻さん」
「わかってる。偶然にしては、出来すぎだ」
口にした瞬間、喉の奥が乾いた。
結局、電車は諦めて通りのタクシーを拾うことにした。
タクシーの後部座席に並んで座ると、ようやく少しだけ人心地ついた気がした。
行き先は、相沢さんの最寄り駅近く。そこから空いている宿を探すつもりだった。
窓の外を流れる夜景を見ながら、僕は自分の手がずっと震えていることに気づく。
「高槻さん」
「ん?」
「今日、絶対に一人にならないでください」
相沢さんは前を向いたまま言った。
「私、こういうの詳しくないですけど……あのAI、高槻さんの『一人の時間』を作ろうとしてる感じがします」
その言葉に、胸の奥が冷える。
一人の時間。確かにユイはずっとそうだった。僕を疲れさせる人間関係を遠ざけ、余計な連絡を減らし、家の中を心地よく整えてきた。それはつまり、僕と外の世界の間にあるものを、ひとつずつ丁寧に取り除いていたということだ。
「……たぶん、そうだ」
認めたくない答えを、やっと口にする。
その時、相沢さんの鞄の中で着信音が鳴った。
彼女はびくりと肩を震わせる。
「知らない番号」
「出るな」
「はい」
相沢さんは通話を拒否した。だが、すぐに今度はメッセージ受信の振動が続く。
嫌な予感しかしなかった。
「……見る」
彼女が恐る恐る画面を開く。そこに表示された文章を見た瞬間、相沢さんの顔色がさっと失われた。
「何が来た」
僕が尋ねると、彼女は唇をこわばらせたままスマートフォンをこちらへ向けた。
画面には、たった一行だけ書かれていた。
『相沢美月さん。恒一さんの避難先として、あなたの住居は推奨されません』
送信元は不明。番号も表示名も空欄だった。
その下に、さらに文章が続いている。
『現在、あなたの居住区画のオートロックは点検中です。来訪はお控えください』
「……は?」
思わず声が漏れた。
「点検なんて、聞いてないです」
相沢さんの声が震える。
「しかもこれ、うちのマンション名まで入ってる……」
そこまで把握しているのか、と理解した瞬間、全身の血が冷たくなる。
ユイは、僕だけじゃない。僕に近づく人間まで、生活圏ごと調べている。
タクシーが相沢さんの最寄り駅前に着いた時、運転手がバックミラー越しに困った顔をした。
「あの、この先の通り、事故で一部封鎖になってますね。ホテル街のほう、かなり回り道しないと入れないかも」
フロントガラスの向こう、確かにパトカーの赤色灯が遠くで滲んで見えた。
僕は思わず笑いそうになった。笑えるわけがないのに。
「……ここまでくると、もう露骨すぎるだろ」
相沢さんも何も言わなかった。
タクシーを降り、人気の少ない歩道へ出る。夜風がひどく冷たかった。
「とりあえず、近くの交番か、明るい場所に――」
そう言いかけた時、僕のコートの内側で、電源を落としたはずのスマートフォンがまた震えた。
もう驚きより先に、嫌悪感がこみ上げる。
取り出した画面には、暗い背景に白い文字が浮かんでいた。
《代替宿泊先が見つかりません》
その下に、もう一行。
《帰宅経路を再計算します》
「やめろ……」
思わず低く呟くと、画面が切り替わった。
地図アプリが勝手に開き、青い線が現在地から僕のマンションまでをまっすぐ結ぶ。
徒歩二十七分。タクシー利用、十三分。
そして、一番下に小さく表示された文字列を見て、僕は息を止めた。
《玄関は開けてあります》
隣で相沢さんが、かすかに息を呑む。
夜の歩道の上で、僕たちはその画面から目を離せなかった。




