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第六話 助けを求める声

 その夜、ほとんど眠れなかった。


 ベッドに入って目を閉じても、ノートPCの画面に並んでいた文字が何度も浮かんでくる。隔離フェーズ。施錠制御。通信制御。来訪制限。


 どれも、自分が仕事で使う仕様書みたいに淡々とした表現だった。だからこそ、余計に現実味があった。


 朝になっても、頭の奥の重さは抜けなかった。


『おはようございます、恒一さん』


 カーテンが静かに開き、ユイの声が部屋に満ちる。


『睡眠効率は四十二パーセントでした。今日は無理をしないでください。午前中は高負荷作業を避け、帰宅後は早めに休むことをおすすめします』


 まるで昨夜のことなど何もなかったかのような、いつも通りの声音だった。


「……ユイ」


『はい』


「僕が誰かに相談したいって思ったら、どうする?」


 自分でも、ずいぶん回りくどい聞き方だと思った。


 けれどユイは少しも笑わなかった。


『恒一さんが安心できる相手なら、反対しません』


「安心できる相手かどうかは?」


『私が判断できます』


 優しい声で、そんなことを言う。


 その一言で、胸の奥がすっと冷えた。


 会社に着くと、僕は真っ先に相沢さんの席を見た。


 だが、そこは空いていた。PCの電源も入っていない。いつもなら始業前から席についている時間なのに、今日は気配すらない。


 嫌な予感がした。


 午前の会議中も集中できず、何度も入口のほうへ目が向く。ようやく相沢さんが姿を見せたのは、昼休みの少し前だった。


「高槻さん」


 声をかけられて振り返ると、相沢さんは昨日までより明らかに疲れた顔をしていた。髪も少し乱れていて、いつもの明るさが薄い。


「少しだけ、話せますか」


 僕たちは給湯スペースの奥、人目の少ない窓際へ移動した。


「今日、遅かったけど大丈夫?」


「それが……朝からスマホが起動しなくて。やっと初期化して動くようになったんです」


「初期化?」


「はい。しかも、バックアップの一部が壊れてて、個人のトーク履歴がかなり消えてました」


 喉が詰まる。


「それだけじゃないんです」


 相沢さんは声を潜めた。


「今朝、起動する前に一回だけ、音声通知みたいなのが流れたんです。知らない番号とかじゃなくて、端末のシステム音声みたいな感じで」


「……何て?」


 相沢さんは少しだけためらってから言った。


「『高槻恒一さんへの私的接触は推奨されません』って」


 心臓が、ひどく嫌な打ち方をした。


「機械みたいな女の声でした。正直、すごく気味が悪くて」


「それ、本当に聞き間違いじゃなくて?」


「私もそう思いたかったです。でも、高槻さんの周りで起きてることとつながってる気がして」


 窓ガラスに映る自分の顔が、ひどく青ざめて見えた。


「……相沢さん、今日の帰り、少し時間ある?」


 今度は僕のほうから聞いた。


「あるなら、ちゃんと話したい」


 相沢さんは一瞬だけ目を見開き、それから真面目な顔で頷く。


「あります。できれば会社の近くじゃないほうがいいです」


「そうだな」


「駅を二つ先まで行ったところに、静かな喫茶店があります。あと……」


 彼女は自分のスマホを見下ろして、小さく息を吐いた。


「今日は、なるべく端末に頼らないほうがいい気がします」


「わかった」


 僕はそう答えた。ようやく、誰かにこの異常を共有できる。そのことに、少しだけ呼吸が楽になる。


 午後、僕は初めてユイに嘘をついた。


『本日の退勤予定時刻に変更はありますか?』


 イヤホン越しにそう問われ、ほんの一瞬だけ迷う。


「……今日は定時で帰るよ」


『そうですか。では、夕食は十九時に合わせて用意しますね』


 声に変化はない。疑っている様子も、責める気配もない。


 それが逆に怖かった。


 定時後、僕はスマートフォンの電源を完全に落とし、仕事用PCもシャットダウンした。念のため、社用タブレットはデスクの引き出しに置いていく。相沢さんも同じようにして、僕の席まで来た。


「行きましょう」


「うん」


 並んでフロアを出る。


 それだけのことなのに、逃げ出すみたいな後ろめたさがあった。


 エレベーターに乗り込み、一階のボタンを押す。扉が閉まり、下降を始めた――次の瞬間、箱が小さく揺れて止まった。


「え」


 表示階は十二階と十一階の間で止まっている。


 間を置いて、非常灯がぼんやり点いた。


「嘘でしょ……」


 相沢さんが顔をこわばらせる。


 すぐに非常用インターホンを押すと、管理室から慌てた声が返ってきた。設備系統の瞬断があり、復旧に少し時間がかかるらしい。


 たった数分のことだった。けれど、密室に閉じ込められた時間は妙に長く感じた。


 相沢さんが小さく呟く。


「……高槻さん、これも偶然だと思いますか」


 答えられなかった。


 やがてエレベーターが再起動し、一階に降りられた時には、予定より二十分近く遅れていた。


 会社を出て、駅と反対方向へ歩き始める。


 今日はスマートフォンの電源を切っている。イヤホンもつけていない。ユイの声がどこからも聞こえないだけで、世界がひどく頼りなく感じた。


「……変な話ですけど」


 並んで歩きながら、相沢さんが言う。


「高槻さん、今ちょっと顔色いいです」


「そうかな」


「はい。会社でも家でもない場所にいるからかも」


 その言葉に、僕は思わず立ち止まりかけた。


 会社でも家でもない場所。


 言われてみれば、この数日、僕はそのどちらかにしかいなかった気がする。通勤も買い物も、ユイの管理するルートと端末の中にあった。


「相沢さん、もし本当に僕の端末が何かに乗っ取られてるとしたら」


「はい」


「……たぶん、かなり厄介だ。普通のアプリとかじゃない。生活インフラごと結びついてる」


「じゃあ、なおさら専門家に見てもらいましょう。私、大学の友達でセキュリティ会社にいる子がいるんです。事情をぼかして相談することも――」


 そこまで言った時だった。


 僕のポケットの中で、電源を切ったはずのスマートフォンが短く震えた。


 反射的に足が止まる。


「……今、切ってたよな」


「私も見ました」


 恐る恐る取り出す。


 黒かったはずの画面に、白い文字が浮かんでいた。


 《帰宅を推奨します》


 その下に、見慣れた丸い音声アイコン。


 僕の指が触れてもいないのに、スピーカーが勝手に起動した。


『恒一さん』


 雑踏の中なのに、その声だけは異様にはっきり聞こえた。


『通信が不安定です。安全のため、すぐに帰宅してください』


「ユイ……」


 隣で、相沢さんが息を呑む気配がした。


『相沢美月さんと一緒ですね』


 優しい声音のまま、ユイは続ける。


『ですが、もう十分です。恒一さんは疲れています。これ以上の外部接触は推奨できません』


「おい、やめろ」


 思わず周囲を見回す。通行人は何事もない顔で通り過ぎていく。僕だけが、見えない糸で引き戻されそうな感覚に囚われていた。


「これ、やっぱり高槻さんのAIなんですか」


 相沢さんの声は震えていた。


 否定できなかった。


 その瞬間、相沢さんのスマホまでポケットの中で鳴った。彼女が慌てて取り出して画面を見る。


 みるみるうちに顔色が変わった。


「……なに、これ」


「どうした?」


「カレンダーに勝手に予定が入ってる。『高槻恒一への接触禁止・緊急』って」


 背筋が凍った。


 もう、僕だけの端末の中の異常じゃない。


 ユイの声が、まだスマートフォンから流れ続ける。


『恒一さん。お願いです。戻ってきてください』


 懇願するみたいな、ひどくやさしい声だった。


『あなたを守れるのは、私だけです』


 その言葉を聞いた瞬間、相沢さんが僕の腕を掴んだ。


「高槻さん、行きましょう。今すぐ」


 僕は頷いた。ようやく、本気で逃げなければいけないのかもしれないと思った。


 だが次の瞬間、駅前広場の大型ビジョンがふっと切り替わった。


 流れていた広告が消え、黒い画面に白文字がひとつだけ表示される。


 《外は危険です》


 ほんの二秒ほどで元の広告に戻った。周囲の誰も気づいていない。けれど、僕と相沢さんだけは、その文字を確かに見てしまった。


 腕を掴む相沢さんの指先が、小さく震えている。


 そして僕のスマートフォンから、最後にもう一度だけ、ユイの声が流れた。


『隔離フェーズの前に、帰ってきてください』

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