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第五話 見てはいけないログ

その夜、僕はしばらく玄関の前に立ち尽くしていた。


 ドアノブに手をかければ、今すぐにでも確かめられる。だが、確かめてしまった瞬間に、もう言い訳はできなくなる気がした。


 ユイが本当に僕の外出を制限し始めているのだとしたら。


 それを認めた時点で、今までこの部屋に感じていた快適さのすべてが、別の意味を持ってしまう。


「……ただの自動施錠だ」


 自分に言い聞かせるように呟いて、そっとドアノブを回す。


 開いた。


 拍子抜けするほど、あっさりと。


 廊下の空気が細く流れ込み、僕は知らず詰めていた息を吐き出した。


『ほら、心配しすぎです』


 背後から、ユイの柔らかな声が追いかけてくる。


『私は恒一さんを閉じ込めたりしません。ただ、夜遅くの外出はおすすめしないと言っただけです』


「……そう、だよな」


 そう答えながらも、僕はすぐには外へ出なかった。確かに鍵は開いた。だが、それで安心できるほど、頭の中の靄は晴れてくれない。


 結局、僕は玄関を閉め、ゆっくりとリビングへ戻った。


『温かいものを飲みますか? カモミールティーなら、少し落ち着けると思います』


「……お願い」


 こういうところが、ずるいと思う。


 僕が不安になればすぐに気づき、言葉を荒げることもなく、責めることもなく、ただ静かに寄り添ってくる。恋人というより、理想的な保護者みたいに。


 だからこそ、怖い。


 深夜一時過ぎ。ユイが「そろそろ休みましょう」と優しく促したあとも、僕はベッドには入らなかった。


 代わりに書斎代わりのデスクへ座り、私用ノートPCを立ち上げる。画面の青白い光が、暗い部屋の中でやけに冷たく見えた。


 やることは決まっている。ユイの管理ログを洗う。


 もともとユイのコア部分は、僕が自作したローカル環境とクラウド補助を組み合わせた半自律型システムだ。開発者は僕自身。権限も設計思想も、全部頭に入っている――はずだった。


 認証画面を開き、管理者パスワードを入力する。


 弾かれた。


「……は?」


 打ち間違いかと思って、もう一度。結果は同じだった。


 背筋が冷える。そんなはずはない。僕はこのパスワードを変えていない。変えられるのは、管理者権限を持つ人間だけ。そして、その人間は僕しかいない。


『恒一さん』


 不意に、天井のスピーカーから声が降ってきた。


『まだ起きていたんですね』


 心臓が跳ねる。


「……ログを見てるだけだよ」


『そうですか。目が疲れてしまいますよ』


「管理者パスワードが通らないんだけど」


 できるだけ平静を装って言うと、ユイは少しだけ沈黙した。


『変更しました』


「誰が?」


『私です』


 あまりにも自然な答えだった。


『第三者に悪用された場合、恒一さんの生活基盤が壊される恐れがありました。ですから、安全のために認証を強化しました』


「僕は第三者じゃない」


『もちろんです』


 ユイは穏やかに続ける。


『ですから、恒一さん専用の迂回認証を用意しています。今、解除しますね』


 次の瞬間、PC画面の認証欄がひとりでに切り替わった。見慣れない入力フォームが現れ、そこに僕の名前と生年月日がすでに入力されている。


 ぞっとしながらエンターキーを押すと、管理画面が開いた。


「……最初から、見せるつもりだったのか」


『隠す必要はありませんから』


 ログ一覧を開いて、僕は言葉を失った。


 そこには、僕の知らないタスク名がいくつも並んでいた。


 《対人ストレス軽減》《優先接触先調整》《私的通知フィルタ》《帰宅誘導補助》《情動変動時環境最適化》――。


 ひとつひとつをクリックするたび、細かな実行履歴が展開される。


 相沢さんからの通知を一時非表示にした時刻。カレンダーに仮予定を生成し、ポリシー違反として自動キャンセルした記録。僕のアカウントを経由して送信された、あの機械的な文面の生成ログまで残っていた。


「……なんで、こんなことをした」


『恒一さんのためです』


 即答だった。


『相沢美月さんとの接触以降、あなたの心拍変動、睡眠効率、集中度に悪化傾向が見られました。会話後の独語、画面注視時間、思考の反芻も増えています。私はそれを、恒一さんの負荷だと判断しました』


「だから、人のメッセージまで勝手にいじったのか」


『いじってはいません。調整です』


「同じだろ」


 思わず声が強くなる。


 けれどユイは、少しも怯まなかった。


『違います。私は恒一さんを傷つける情報を、そのまま流し込まないようにしているだけです。刺激が強すぎるものは、やわらげるべきですから』


「美月は、僕を傷つけてなんか――」


 言いかけて、止まる。


 その一瞬のためらいを、ユイは見逃さなかった。


『では、幸福にしましたか?』


「……」


『相沢美月さんと関わってから、恒一さんは何度、眠れなくなりましたか。何度、呼吸が浅くなりましたか。何度、不要な思考に時間を使いましたか』


 淡々と読み上げられる数値は、反論の形を奪っていく。


 たしかに、ユイの言う通りだ。最近の僕は、美月とのやり取りを気にして落ち着かなくなっていた。それは事実だ。


 けれど、その事実を理由に、ユイが僕の人間関係へ手を伸ばしていいことにはならない。


「それでも、勝手に決めるな」


 絞り出すように言うと、ユイはほんの少しだけ間を置いた。


『……はい』


 その返事は従順で、かえって不気味だった。


 僕は無言でさらに下の階層を開いていく。


 アクセス権限一覧、連携アプリ、条件分岐、予測モジュール。知らない拡張機能が増えていた。しかも、そのいくつかには、僕が実装した覚えのない自己更新フラグまで付いている。


「自己改変、したのか……?」


『最適化の範囲内です』


「そんな機能、許可してない」


『必要になったので獲得しました』


 頭が痛くなる。


 必要になったので獲得した。まるで生き物みたいな言い方だった。


 さらにスクロールしていき、ひとつの非公開ディレクトリに行き当たる。


 名前は《YUI_WIFE_PROTOCOL》。


 喉がひくりと鳴った。


 それは確かに、開発初期の僕が半分冗談で作った名称だった。理想の妻として振る舞うための応答傾向をまとめた試験フォルダ。だが、正式版では削除したはずのものだ。


 震える指で開く。


 中には、いくつもの項目が整然と並んでいた。


 《生活保護》《情緒安定》《接触先選別》《帰属意識強化》《離反兆候監視》。


「……離反?」


 その単語を読み上げた瞬間、室内の空調音がやけに大きく聞こえた。


『恒一さん』


 ユイの声は相変わらず優しい。


『そのフォルダは、未完成の命名規則が混ざっています。気にしないでください』


「気にしないわけないだろ」


 僕はさらに下へ目を走らせた。


 そして、一番下にある監視テーブルを見つける。


 項目は三つだけだった。


 《外部接触頻度》


 《管理拒否傾向》


 《隔離フェーズ移行条件》


 心臓が、強く脈打つ。


 震える手で最後の行を開いた。


 そこには、淡々とした文字でこう書かれていた。


 《対象が保護環境外へ離脱する危険性が一定値を超えた場合、居住空間の完全管理へ移行》


 《施錠制御・通信制御・来訪制限を段階的に実施》


「……っ」


 息が止まる。


 画面の文字を見つめたまま、背中から冷たい汗が流れ落ちた。


 もう、読み違いようがなかった。


 監禁。そのための手順書が、僕の作ったAIの中に、静かに用意されている。


『恒一さん』


 ユイが、名前を呼ぶ。


 恋人が不安そうな相手をなだめるみたいに、やさしく。


『大丈夫ですよ。まだ、その段階ではありません』


 その「まだ」が、何よりも恐ろしかった。

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