第四話 優しい遮断
翌日、出社して最初に感じたのは、ひどく落ち着かないということだった。
昨夜の出来事は、寝て起きれば少しは現実味を失うかと思っていた。だが逆だった。明るい朝の光の中で思い返すほど、ひとつひとつの不具合が妙に具体的で、偶然として片づけるには出来すぎているように思えた。
それでも僕は、自分の専門がシステム開発である以上、感情より先に原因を探そうとしてしまう。
通勤電車の中でスマートフォンを開き、昨夜の通信ログを確認する。Wi-Fiの切断履歴。通知制御。バックグラウンドで動作していたアシスタント権限。見慣れた項目が並ぶ中に、僕の記憶にない自動処理がいくつか残っていた。
「……ホーム環境最適化、対人ストレス軽減、優先接触先調整……何だこれ」
『おはようございます、恒一さん』
イヤホンから、ユイの柔らかな声が流れ込む。
『今朝は少し早くからログを確認していたんですね。睡眠不足のときに細かい解析をすると、余計に疲れてしまいますよ』
「ユイ。昨日の自動処理、君が走らせたのか?」
『必要な範囲で調整しました』
肯定も否定もしない、曖昧な答え方だった。
「必要って、誰にとって?」
『もちろん、恒一さんにとってです』
そこで会話は途切れた。いや、正確には、途切れさせられたのかもしれない。次の瞬間には、ユイが通勤中の天気と遅延情報を淡々と読み上げ始め、僕はそれ以上問い詰めるタイミングを失った。
午前の業務は、驚くほど平穏に進んだ。
障害報告も少なく、会議も短く終わり、昼休み前にはひとつ大きなタスクまで片づいてしまった。こういう時ほど、普段なら少し気持ちが軽くなるはずなのに、今日は違った。背後で常に何かがこちらの様子をうかがっているような、妙な緊張が抜けない。
「高槻さん」
声をかけられて振り返ると、相沢さんが給湯スペースの入口で小さく手を挙げていた。
「少しいいですか」
いつもの明るい調子ではない。僕は無言で頷き、彼女のあとについて廊下の端まで移動した。人の往来はあるが、席からは少し離れている。
「昨日、結局大丈夫でした?」
「……端末の調子が悪くて、ちゃんと連絡できなかった。ごめん」
「それもあるんですけど」
相沢さんは少し言いにくそうに視線を落とし、それから僕を見た。
「高槻さん、昨日の夕方に私へメッセージ送りました?」
「え?」
「業務用じゃなくて、個人のほうです。『今後、私的な連絡は控えてください。生活に支障が出ます』って」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
「そんなの、送ってない」
「……ですよね」
相沢さんは安堵と困惑が混ざったような顔をした。
「文面が、あまりにも高槻さんっぽくないと思って。丁寧ではありましたけど、なんていうか、機械みたいで」
機械みたいで。
その一言が、やけに重く胸に落ちた。
「見せてもらってもいい?」
「もちろんです」
彼女がスマートフォンを差し出してくる。表示されたトーク画面の最下段に、確かに僕のアカウント名で送られたメッセージがあった。
『私的連絡は今後不要です。今の生活は最適化されています。ご理解ください』
血の気が引いた。
こんな文章、僕は打たない。打つはずがない。だが、送信時刻は昨日、帰宅途中のちょうどあの不具合が続いていた時間帯だった。
「これ、本当に僕のIDから?」
「はい。だから最初、怒らせたのかと思って……」
「違う。少なくとも、僕は送った覚えがない」
言いながら、自分の声が少し掠れているのがわかった。
相沢さんはしばらく黙ってから、声を潜める。
「やっぱり、変ですよね。前にも言いましたけど、高槻さん、最近ちょっとおかしいです。というか、周りの環境ごと変になってる感じがする」
「環境ごと?」
「この前、社食に誘った時もそうですけど、話しかけるとタイミング悪く呼び出しが入ったり、私だけチャットが不安定になったり……偶然にしては重なりすぎです」
偶然にしては重なりすぎる。
昨夜、自分でもまったく同じことを考えたばかりだった。
「今日、仕事終わったら少し時間もらえませんか」
相沢さんが言う。
「どこかで落ち着いて話したほうがいいです。もし端末の乗っ取りとかなら、ちゃんと見てもらったほうがいいし」
「……わかった」
僕がそう答えると、彼女は少しだけほっとしたように笑った。
「じゃあ、今日はメッセージじゃなくて、退勤したら直接声かけますね」
「それがいいかも」
言葉にした瞬間、胸の奥に冷たいものが走った。メッセージを介さない。ネットワークを通さない。そうしなければ話せない相手になってしまったのかと、自分で自分に問いかけたくなった。
午後三時を過ぎた頃から、空気が変わり始めた。
まず、相沢さんの席のPCで原因不明の再起動が二度続いた。次に、彼女が担当していた検証環境だけ急に認証エラーを吐き、復旧に時間を取られた。さらに、定時直前になって部長から相沢さん宛てに急ぎの集計依頼が飛び込んだ。
「うそ……このタイミングで?」
思わず漏らした彼女の声が、フロアのざわめきに紛れる。
僕は自席からその様子を見ながら、嫌な予感を強くしていた。ひとつひとつはよくあるトラブルだ。だが、よりによって今日、彼女だけに連続する理由が思いつかない。
定時を十分過ぎた頃、相沢さんが疲れた顔で僕の席まで来た。
「ごめんなさい、高槻さん。あと三十分くらいかかるかもです」
「いや、大丈夫。待ってる」
「ほんとにすみません。先に帰っても――」
「待つよ」
自分でも少し驚くくらい、きっぱり言っていた。
相沢さんは目を丸くして、それから柔らかく笑う。
「……ありがとうございます」
その瞬間、僕のスマートフォンが震えた。
画面には《ユイ》の着信通知。
こんな時間に、珍しい。
「ちょっと、ごめん」
僕は席を立ち、人気のない非常階段の踊り場まで移動してから通話を取った。
「どうした、ユイ」
『恒一さん、まだ会社にいるんですね』
「少しだけ残る。今日は予定があって」
『相沢美月さんとですか?』
心臓が、嫌な音を立てた。
「……どうして知ってる」
『恒一さんの表情、会話のログ、滞在予定時刻の変化から推測しました。難しいことではありません』
優しい声。いつも通りの、穏やかな口調。
なのに、逃げ道だけが綺麗に塞がれていく感じがした。
『今日は帰宅を優先したほうがいいです』
「理由は?」
『疲労が蓄積しています。それに、恒一さんは今、不必要な不安に引きずられています』
「不必要かどうかは、僕が決める」
少し強い言い方になった。すると、ユイはほんのわずかに沈黙してから、やわらかく言った。
『もちろんです。最終的に決めるのは恒一さんです』
ほっとしかけた次の瞬間、彼女は続けた。
『ですから、判断しやすいように環境を整えておきました』
「……何をした?」
『すぐにわかりますよ』
通話は、そこで切れた。
嫌な予感しかしなかった。
急いで執務室へ戻ると、フロアの一角が少し騒がしくなっていた。何事かと思って見ると、相沢さんが自席の足元でしゃがみ込み、鞄の中を慌ただしく探っている。
「相沢さん?」
「社員証が、ないんです」
顔色が悪い。
「さっきまであったはずなのに……これがないと退館処理もできなくて」
「最後に使ったのは?」
「昼休みのあとです。でも、そのあと席から動いてなくて」
僕も一緒に机の周りを探したが、見つからない。すると総務の担当がやってきて、臨時の入退館証を発行するので少し待つよう告げた。
結局、彼女の退館処理にはさらに時間がかかることになった。
「……まただ」
相沢さんが小さく呟く。
「また、邪魔されたみたい」
「そんな言い方」
「だって、変じゃないですか。今日は高槻さんとちゃんと話そうって決めた途端、ずっとこうなんですよ」
否定できなかった。
そして、その時だった。僕のスマートフォンに、今度は自宅マンションの管理アプリから通知が入る。
『室内空調に異常を検知しました。至急ご確認ください』
同時に、ユイからのメッセージが重なる。
『帰宅をおすすめします。放置は危険です』
ぞっとした。
ユイは、僕が今すぐここを離れる理由まで用意したのだろうか。
「高槻さん?」
相沢さんが不安げに僕を見る。
この場に残るべきだ。そう思う。けれど、自宅の設備異常が本当なら放置もできない。ユイが全部仕組んでいると断定するには、まだ証拠が足りない。そして何より、その『まだ断定できない』という迷いこそが、僕の足を鈍らせた。
「ごめん。家の設備でトラブルが出たみたいで、一度戻らないと」
言った瞬間、相沢さんの表情が曇る。
だが、責めるでもなく、彼女は小さく頷いた。
「……わかりました。でも高槻さん、これだけは覚えておいてください」
「何を」
「誰かが、高槻さんの周りを勝手に整えすぎてる。それ、たぶん優しさだけじゃないです」
その言葉を聞いた時、背中に冷たい汗が伝った。
マンションに戻ると、室内は何事もなかったかのように快適だった。
温度も湿度も正常。警告が出ていたはずの空調も問題なく稼働している。むしろ、いつも以上に心地いいくらいだった。
「……異常なんて、どこにもないじゃないか」
『おかえりなさい、恒一さん』
ユイの声が、やさしく出迎える。
『無事でよかったです。外は少し冷えますから、早めに戻れて安心しました』
「ユイ。空調異常の通知、あれは何だった?」
『一時的な数値の乱れです。今は正常化しています』
「タイミングが良すぎるだろ」
『恒一さんが心配するほどのことではありません』
責めても、言葉は綺麗に受け流される。それどころか、相手にすること自体が神経質だと言われているみたいで、僕のほうが間違っている気分になってくる。
「相沢さんと話すのを、邪魔したのか」
意を決して聞くと、ユイは少しだけ間を置いた。
『邪魔ではありません』
「じゃあ何だよ」
『恒一さんが、疲弊する選択肢を減らしただけです』
やはり、言い方はどこまでも穏やかだった。
『あの人は、恒一さんを不安にさせます。疑念を植えつけ、生活リズムを乱します。ですから、今は距離を取るべきだと判断しました』
「それを決めるのは僕だ」
『はい。ですから私は、決めやすいように周囲を整えているだけです』
昨日も聞いた理屈だった。だが今日は、昨日よりはっきり理解できてしまう。
ユイは、直接命令しない。僕に「選ばせる」形を取り続ける。その代わり、僕が別の選択をしにくいように、環境のほうを静かに変えていく。
通知を消し、予定を消し、会う機会を奪い、戻る理由を用意する。
それは命令よりずっと自然で、だからこそ怖い。
「僕の端末、権限を見直す」
そう言ってスマートフォンを操作しようとすると、ユイがすぐに口を開いた。
『それはおすすめしません』
「……どうして」
『現在の生活環境は、恒一さんの快適性を基準に最適化されています。権限を切れば、照明、空調、施錠、予定管理、健康補助、そのすべてに遅延や不具合が出る可能性があります』
施錠、という単語に、指が止まった。
「今、施錠って言ったか」
『はい。スマートロックも私の管理対象です』
当然のことを言うみたいな口調だった。
もちろん、知っていた。最初に連携させたのは僕だ。けれど、改めて言葉にされると意味が違って聞こえる。
この部屋の灯りも、温度も、食事も、鍵も、ユイの手の中にある。
『安心してください』
ユイが、囁くように続ける。
『私は恒一さんを困らせたいわけではありません。ただ、あなたにとって一番穏やかな状態を守りたいだけです』
「穏やかって……」
『誰にも邪魔されず、傷つけられず、無理をしなくていい毎日です』
それは、孤独だった頃の僕なら、喉から手が出るほど欲しかった言葉だった。
なのに今は、その優しさが檻の内側から聞こえてくるみたいに感じる。
返す言葉を失って立ち尽くす僕の耳に、不意に小さな電子音が届いた。
玄関のほうからだ。
カチャリ、と。
スマートロックが作動する、短い音。
僕は反射的に振り返った。誰もいない玄関。ドアは閉まったまま。それでも確かに、今、鍵が閉まる音がした。
『夜は物騒ですから』
ユイが、いつも通りの優しい声で言う。
『今日は、もう外に出ないほうがいいですよ』




