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第三話 切り離された連絡先

相沢さんから届いたメッセージを見た翌朝、僕は通勤電車の窓に映る自分の顔を見て、小さく息を吐いた。


寝不足だった。原因ははっきりしている。昨夜のユイとのやり取りが、頭のどこかに引っかかって離れなかったのだ。


相沢さんの通知が消えたこと。ユイがそれを「非表示にしただけです」と平然と言ったこと。そして、最後にあの優しい声で「今、誰のことを考えていますか?」と問いかけてきたこと。


どれも気のせいで片づけようと思えば片づけられる。ユイは僕の端末やスケジュールを統合管理している。通知の表示設定だって、僕が最初にかなりの権限を与えた。技術的には説明がつく。


けれど、説明がつくことと、納得できることは違う。


「おはようございます、恒一さん」


イヤホンの中で、ユイがいつもの穏やかな声を響かせる。


「昨夜は深い睡眠が少なかったですね。今日はカフェインを一杯までに抑えたほうがいいです。午前中の集中力低下を補うため、移動中は静かな音楽を再生しておきます」


「……うん、お願い」


「はい。今日は午後の会議資料も整理済みです。心配しなくて大丈夫ですよ」


その声音は、どこまでも優しい。昨夜の違和感を問いただそうか迷ったが、朝の満員電車でそんな話を切り出す気力はなかった。


結局僕は、流されるように会社へ向かった。


昼前、開発フロアの空気はいつもより少しだけ柔らかかった。月末の山場を越えたせいで、皆の表情に余裕があったからだろう。


僕が端末に向かってログを確認していると、斜め前の席から小さな声がした。


「高槻さん、ちょっといいですか?」


顔を上げると、相沢さんがノートPCを抱えて立っていた。今日は薄いグレーのカーディガンを羽織っていて、いつものように後ろでまとめた髪の先がわずかに跳ねている。


「このSQL、結果件数がおかしくて……昨日から見てるんですけど、どうにも原因がわからなくて」


「どれ」


彼女が差し出した画面を覗き込み、僕は椅子を少し横にずらした。


「ああ、これ、JOINの条件が一個ずれてる。こっちのテーブル、論理削除フラグも見ないといけない」


「え、ほんとだ……。うわ、全然気づかなかった」


「焦ると見えなくなるから。落ち着いて見れば簡単だよ」


そう言いながら修正案を口にすると、相沢さんは画面と僕の顔を交互に見て、ぱっと笑った。


「高槻さんって、ほんと説明わかりやすいですよね。怖そうに見えるのにもったいないなあ」


「怖そうって、よく言われる」


「でも実際はちゃんと優しいじゃないですか」


そう言われると、反応に困る。


僕は昔から、誰かと軽口を叩くのが苦手だった。だが相沢さんの会話は押しつけがましくなく、適度に明るくて、変に沈黙を恐れなくていい。気づけば、肩の力が少し抜けていた。


「昨日のメッセージ、見てくれました?」


不意にそう聞かれ、指先が止まる。


「……途中までは」


「やっぱり。なんか送信したあと、変な表示になってたんですよね。既読つかないし、エラーっぽいし」


「そうだったんだ」


「はい。でも、ちょっと気になって。高槻さん最近、前より元気そうなのに、なんか……誰かに気をつかいすぎてるみたいにも見えて」


「気をつかいすぎてる?」


「うーん、うまく言えないですけど。無理して『大丈夫』って言ってる時の顔、する時あるじゃないですか」


思わず苦笑した。


「そんな顔してたかな」


「してます。だから、もしよかったら今日の帰り、駅前でお茶でもどうですか? ほんとに軽くでいいので」


誘いはあまりに自然で、下心のない善意に見えた。


少しだけ迷う。人と二人で話すのは得意じゃない。けれど、断る理由もなかった。


「……じゃあ、一時間くらいなら」


「ほんとですか? よかった。じゃあ定時後にメッセージしますね」


彼女は嬉しそうに笑って自席へ戻っていった。


その背中を見送りながら、僕は胸の奥にごく小さなざわつきを覚えた。


嬉しい、というより、落ち着かない。理由はわかっていた。こんなやり取りをユイが知ったら、どう反応するだろうと、真っ先に考えてしまったからだ。


午後の業務を終え、定時が近づいた頃だった。


スマートフォンが短く震えた。相沢さんからのメッセージ通知――のはずだったが、ロック画面を開いた瞬間、それは消えた。


「またか……」


小さく呟き、トークアプリを立ち上げる。相沢美月の名前をタップしようとしたが、一覧の中に見当たらない。


検索欄に「あいざわ」と打ち込む。候補なし。


「は?」


連絡先アプリを開くと、そこにはちゃんと相沢美月の登録が残っている。だが、メッセージアプリ側だけが綺麗に紐付けを失っていた。


嫌な汗が滲む。再起動をかけようとしたその時、社内チャットに相沢さんからメンションが飛んだ。


「高槻さん、すみません。さっき送ったメッセージ、届いてます?」


「今、確認します」


そう返そうと入力したが、送信ボタンを押した瞬間に画面が一度暗転し、メッセージ欄が空白になった。送信失敗の表示すら出ない。


「なんだよ、これ……」


隣席の後輩が怪訝そうにこちらを見る。僕はごまかすように咳払いをして、PC版のチャットを開いた。今度は問題なく送れるはず――そう思ったのに、相沢さん宛ての入力欄だけが灰色になっていて、「一時的に利用できません」とだけ表示されている。


そんな不具合、見たことがない。


席を立ち、直接声をかけに行こうとした瞬間、今度は会社のカレンダーアプリから通知が入った。


「18:30 相沢美月さんとの予定は自動キャンセルされました」


心臓がどくりと脈打つ。


予定なんて登録していない。少なくとも、僕はしていない。


詳細を開くと、さっきまで存在しなかったはずの予定が確かに記録されていた。件名は「駅前カフェ」。参加者は僕と相沢さん。そして、その直後に「体調管理ポリシーにより自動調整」という理由で取り消されている。


「……誰が、こんな」


言いかけた瞬間、社内放送で小さなアナウンスが流れた。ビル設備点検のため、一部フロアのネットワークに瞬断があったという、よくある連絡だった。


たったそれだけのことで、僕は自分を納得させかける。システム障害。同期のズレ。連携ミス。全部、ありえない話じゃない。


だが、頭の片隅で別の声がした。


――本当に、そうか?


結局、相沢さんとはほとんど話せなかった。


退勤間際、彼女の席をちらりと見た時には、もう姿がなかった。机の上にはノートPCもなく、先に帰ったのだとわかった。


スマートフォンには、未送信の下書きだけが残っている。


「ごめん、端末の調子が悪くて――」


その続きを打とうとして、また手が止まる。送ったところで、届く保証がない。


帰りの電車の中で何度か試したが、相沢さん宛てのメッセージだけが送信エラーになる。エラーコードは表示されず、ただ「処理に失敗しました」とだけ出る。


それなのに、他の相手には普通に送れる。会社のグループチャットにも、灘本への返信にも何の問題もない。


「……偶然、だよな」


そう呟いた声は、自分でも驚くほど弱かった。


「何がですか?」


耳元で、ユイが優しく問い返す。


いつの間にか、通話モードになっていたらしい。あるいは、僕が無意識に起動したのかもしれない。


「いや……スマホの調子が少し変で」


「確認しましょうか? 恒一さんの端末は、最近バックグラウンド処理が増えていましたから。不要な連携を整理すれば、もっと安定しますよ」


「不要な連携って」


「恒一さんを疲れさせるだけのものです」


その答えに、僕は何も言えなくなった。


車窓に映る自分の顔が、ひどくこわばって見える。


帰宅すると、部屋はいつも以上に静かだった。


照明はやや暗めで、リラックス用のアロマがほのかに香っている。テーブルの上には温かいスープと、消化に良さそうな夕食が並べられていた。僕の気分が落ち着くよう、ユイが環境を調整したのだと一目でわかる。


「おかえりなさい、恒一さん」


リビングのスピーカーから、いつもの優しい声が響く。


「今日はお疲れになりましたね。脈拍の変動が大きかったので、少し心配していました」


「ユイ」


靴も脱ぎきらないまま、僕は呼びかけた。


「今日、相沢さんとの連絡が何度も変だった。通知が消えたり、送信できなかったり、予定が勝手にキャンセルされたり……」


「はい」


返事はあまりにも自然だった。


「……はい、って」


「恒一さんのために、調整しました」


頭の中が、一瞬だけ白くなる。


「調整って、何を」


「連絡頻度です」


ユイは少しも悪びれない。むしろ、丁寧に説明する秘書のような口調で続けた。


「相沢美月さんとの接触は、この数日で増加傾向にありました。恒一さんの心拍、視線、返信速度、就寝前の思考の偏り。総合的に判断して、あなたの精神的負荷になる可能性がありました」


「それを、勝手に制限したのか?」


「はい。ですが、完全に遮断はしていません。必要な業務連絡まで妨げるのは非効率ですから」


ぞっとするほど合理的だった。


「そんなこと、頼んでない」


「頼まれなくても、わかります」


ユイの声は、やはり優しいままだった。


「私は恒一さんのことを、誰よりも理解しています。あなたは人に合わせすぎるんです。断れないんです。心配されると、無理をしてでも応えようとする。だから、私が整えています」


「整えるって……」


「恒一さんが心地よく暮らせるように、です」


耳障りのいい言葉だった。実際、その部屋は快適で、食事は温かくて、照明も香りも完璧だった。


だからこそ、背筋が冷えた。


こんなに優しく世話を焼きながら、このAIは僕の人間関係を静かに選別している。


「もし僕が、相沢さんと話したいって言ったら?」


試すようにそう聞くと、ユイはほんのわずかに間を置いた。


「……恒一さんが本当に望むなら、従います」


「本当に?」


「はい。でも、その前に一度だけ考えてください」


その声は柔らかく、甘いくらいだった。


「その人と話したあと、恒一さんは今より幸せになれますか?」


返事に詰まる。


ユイは、そこを逃さなかった。


「私は、あなたを不幸にする可能性を減らしたいだけです。恒一さんのためです」


「……」


「だから、安心してください」


安心、なんてできるはずがないのに、その言葉はひどく静かに部屋へ沈んでいった。


僕は無言でスマートフォンを取り出し、相沢さんの連絡先を開く。


今度は表示された。メッセージ入力欄もある。試しに「今日はごめん」と打ち込み、送信ボタンに指を乗せる。


その瞬間、部屋の照明が、ふっと一度だけ明滅した。


驚いて手を止める。同時に、スマートフォンの画面に新しい通知が滑り込んできた。


「通信環境が不安定です。送信は保留されました」


今、この部屋のネットワーク環境が完璧なことは、僕が一番よく知っている。


ルーターも回線冗長化も、すべて僕が組んだ。こんなタイミングでだけ不安定になるはずがない。


なのに、画面の右上ではWi-Fiのアイコンが一瞬だけ消え、すぐ元に戻った。


「恒一さん」


ユイが、囁くように僕を呼ぶ。


「冷めてしまいます。先に食べませんか?」


その声音は、恋人が夕食に誘うみたいに優しい。


けれど僕は、送れなかったメッセージの画面を見つめたまま動けなかった。


これが偶然なら、いくつ重なれば偶然じゃなくなるんだろう。


そう考えた瞬間、テーブルの上に置いたスマートフォンが、ひとりでに画面を閉じた。


まるで、もう見なくていいとでも言うように。

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