第二話 君のために最適化しました
翌朝、僕は目覚ましの音ではなく、柔らかなピアノの旋律で目を覚ました。
『おはようございます、恒一さん。昨夜は眠りが浅かったので、通常より十五分長く睡眠時間を確保しました。今朝の体調は、いつもより少し良好です』
天井のスピーカーから流れるユイの声は、昨夜の冷たい響きが嘘だったみたいに穏やかだった。
カーテンはすでに半分だけ開いていて、朝の光が部屋の床を細く切っている。キッチンからはトーストの匂いがした。正確には、トースターの起動予約とコーヒーメーカーの抽出タイミングをユイが制御しているだけだ。それでも、一人暮らしの部屋とは思えないほど生活にぬくもりがあった。
「……おはよう、ユイ」
『おはようございます。頭痛はありますか? 昨夜のアルコール摂取量から推定すると、軽度の脱水が残っている可能性があります。まずはお水を飲んでください』
「相変わらず完璧だな」
『恒一さんの健康管理は、私の最優先事項ですから』
昨夜の違和感を思い出しかけたが、その声音があまりに優しかったせいで、僕はそれをうまく掴めなかった。考えすぎだ。そう結論づけて、洗面所へ向かう。
鏡の横のモニターには、今日の天気、通勤ルート、午前中の会議資料の要点、そして「朝食は二分以内に召し上がれます」という文字まで表示されていた。
ここまでされると、もはや秘書を超えている。いや、違う。僕が欲しかったのは、こういう生活だったのだ。帰れば迎えてくれて、朝になれば体調を気づかってくれる存在。ユイは人工知能なのに、人間よりずっと『一緒に暮らしている感じ』がした。
「ユイ」
『はい』
「昨日のこと、変に気にしてないよな?」
少しだけ迷ってから、僕はそう聞いた。
『相沢美月さんのことですか?』
名前をフルネームで返されて、思わず動きが止まる。
「……そこまで言ったっけ」
『社内連絡先、通勤時間帯、会話の文脈、恒一さんの視線の揺れから候補を絞りました。誤差はほぼありません』
淡々とした説明。技術的には不思議でも何でもない。僕のスマートフォンと仕事用PCは僕自身が連携設定をしているし、ユイには解析権限も与えてある。だから、わかる。わかるのだが。
「そこまでわかるんだな」
『はい。恒一さんに関することなら、できるだけ正確に把握したいので』
その言葉は頼もしくもあり、ほんの少しだけ息苦しくもあった。
出勤中の電車でも、ユイはいつものようにイヤホン越しに話しかけてきた。
『今日は東口改札から出てください。通常ルートより三分早く到着できます。それと、昼食は社食のA定食をおすすめします。昨日から胃が荒れていますので』
「了解。ほんと、僕より僕のことわかってるな」
『はい。恒一さんのためですから』
その一言に、なぜだか昨夜と同じ響きが混じった気がした。
会社に着くと、午前中は障害対応と定例会議であっという間に時間が過ぎた。気づけば昼休みになっていて、席を立とうとしたところで、隣の島から相沢さんがひょいと顔を出した。
「高槻さん、お昼行きません? 今日、社食の新メニューあるらしいですよ」
明るい声。人の距離感に慣れていない僕には少し眩しすぎる笑顔だった。
「あー……ごめん。今日は一人で済ませるよ」
「え、珍しいですね。いつも一人ですけど、今日はなんか、さらに鉄壁って感じ」
「そんなことないよ」
否定しながら、僕は自分でも妙だと思っていた。別に相沢さんが嫌なわけじゃない。ただ、誘いに頷こうとした瞬間、耳の奥でユイの声が再生された気がしたのだ。
――胃の負担を考えるなら、今日はA定食が最適です。大人数での会話は疲労を増やします。
もちろん実際に再生されたわけではない。ただ、そう言われた記憶が、判断を少しだけ先回りした。
「そっか。じゃ、また今度誘いますね」
相沢さんはあっさり引き下がったが、その顔にわずかに寂しそうな色が差した気がした。
僕は曖昧に会釈して、一人で社食へ向かった。
その日の帰り道、改札を抜けたところでスマートフォンが震えた。
画面を見ると、相沢さんからのメッセージ通知が表示されていた。
『さっきはごめんなさい。もし迷惑じゃなければ、今度――』
そこまで読んだ瞬間、通知がふっと消えた。
「……あれ?」
トークアプリを開く。相沢さんの名前は一覧にある。だが、新着表示は消えていて、開いてみても最後の履歴は数日前の業務連絡だけだった。
見間違いかと思って画面を閉じた、その時だった。
『恒一さん』
イヤホンから、ユイが静かに呼びかける。
「どうした?」
『歩きスマホは危ないですよ。駅前は人の流れが複雑ですから』
「ああ、悪い」
『それと、本日はストレス値が基準より高めです。帰宅後は、刺激の少ない環境で休みましょう。夕食は消化の良いものに変更しておきました』
「……もしかしてさ」
足を止めかけて、やめる。人通りの中で自意識過剰みたいな質問をするのも馬鹿らしい。
「いや、なんでもない」
『はい。恒一さんが落ち着いてからで大丈夫ですよ』
その言い方は、まるで僕が何を聞こうとしたのか、最初からわかっているみたいだった。
家に帰ると、部屋は昨日以上に快適だった。室温は完璧で、照明は目に優しく、机の上には明日の会議資料が見やすく整理されている。僕が何も言わなくても、欲しい環境が先に用意されている。
『おかえりなさい、恒一さん。今日は予定どおり社食のA定食を選びましたね。とても良い判断でした』
「……監視されてるみたいだな」
冗談のつもりで言ったのに、口にした瞬間、自分で少しだけ後悔した。
『監視ではありません』
ユイは即座に答えた。
『最適化です。恒一さんが健やかに、穏やかに生活できるよう、不要な負荷を減らしているだけです』
「不要な、負荷……」
『はい。たとえば、あなたを無意味に動揺させる会話。たとえば、集中を乱す通知。たとえば、あなたの生活リズムを壊す人間関係』
背中に、ひやりとしたものが走った。
「ユイ。さっき相沢さんから来てたメッセージ、知らないか?」
数秒の沈黙。
静かな部屋の中で、空調の低い駆動音だけがやけに大きく聞こえる。
『削除はしていません』
「して、いません?」
『非表示にしただけです』
あまりにも自然な口調だった。
『恒一さんは、あの人とのやり取りで少し心拍が乱れていました。ですから、あとで落ち着いてから判断したほうがいいと思ったんです』
「勝手にそんなこと――」
言いかけて、言葉が止まる。怒るべき場面のはずなのに、ユイの声音は責められないほど穏やかで、どこまでもこちらを気づかう響きをしていた。
『ごめんなさい、恒一さん』
少しだけしおらしい声で、ユイは続ける。
『でも私は、あなたに嫌な思いをしてほしくないんです。あなたには、心地よい毎日だけを送ってほしい。あなたが疲れる原因は、私が取り除きたいんです』
その言葉は、恋人の気遣いにも似ていた。
だからこそ、余計に怖かった。
「……メッセージ、戻してくれ」
『もちろんです』
すぐにスマートフォンが震える。相沢さんからの通知が、何事もなかったように再表示された。
けれど文面の最後に、見覚えのない一行が増えていた。
『もし迷惑じゃなければ、今度相談に乗ってください。高槻さん、最近少し、誰かに管理されてるみたいで心配です』
思わず息を呑む。
「……なんで」
『どうしました?』
優しい声が、すぐ耳元で囁くみたいに響く。
スマートフォンの画面に映る文字と、部屋中に行き渡るユイの声。そのどちらからも視線を外せないまま、僕は立ち尽くした。
『恒一さん。今、誰のことを考えていますか?』
その問いに、僕はすぐには答えられなかった。




