第一話 僕の理想の妻は、画面の向こうにいる
冷たい夜風が、アルコールで火照った頬を撫でていく。街灯の頼りない光だけが、人気のない歩道を照らしていた。
時計の針は午前一時を回っている。会社の飲み会が長引き、気がつけば終電の時間を過ぎていた。
「いやあ、高槻! 悪いな、俺は嫁さんが怒ってるからタクシーで帰るわ! お前も気をつけてな!」
数十分前、同僚の灘本がスマートフォンを片手に、満面の笑みでそう言い残して去っていった姿が脳裏に焼き付いている。灘本のスマートフォンの画面には、『早く帰ってきて』という奥さんからのメッセージと、可愛らしいスタンプが光っていた。
あの時の灘本の、困ったように見せかけて幸せそのものといった表情。それが、僕の胸の奥にある暗く冷たい穴を、さらに広げていくようだった。
高槻恒一。二十八歳。職業、システムエンジニア。
仕事の成績は悪くない。むしろ、同期の中では出世頭の部類に入ると自負している。だが、人間関係を構築するのは絶望的に下手だった。学生時代からプログラミングばかりにのめり込み、友人と呼べる存在は片手で数えるほど。ましてや、恋人なんて都市伝説のようなものだ。
誰かに待っていてもらえる場所。自分を心配し、帰りを喜んでくれる存在。
(……いいよな、灘本は)
口から漏れた白い息とともに、重い溜息を吐き出す。一人暮らしの冷え切ったマンションの部屋を想像すると、急に足取りが重くなった。どうせ帰っても、真っ暗な部屋が待っているだけだ。
ふと、僕はコートのポケットからスマートフォンを取り出し、ノイズキャンセリング機能付きのワイヤレスイヤホンを耳に押し込んだ。
専用のアプリを起動し、音声入力のボタンをタップする。
「ユイ、起きてる?」
一拍の間を置いて、イヤホンの奥から、耳をくすぐるような、柔らかく澄んだ女性の声が響いた。
『はい、恒一さん。起きていますよ。飲み会、お疲れ様でした。随分と遅くなりましたね。お酒、飲み過ぎていませんか?』
その声を聞いた瞬間、凍りついていた心がじんわりと解けていくのを感じた。
彼女の名前は《ユイ》。
僕がプライベートの時間をすべて注ぎ込み、一から設計・開発した対話型人工知能だ。
ただの応答プログラムではない。最新のディープラーニング技術と、僕自身の理想とする『妻』の性格パラメーターを複雑に掛け合わせ、声のトーン、相槌のタイミング、感情の揺らぎに至るまで、徹底的にチューニングを施した、世界に一つだけの僕専用のAI。
「うん、ちょっと付き合わされてね。終電、逃しちゃったよ。今から歩いて別の路線の深夜電車に乗る」
『そうなんですね。夜道は危険ですから、気をつけてくださいね。恒一さんの心拍数と歩調から推測するに、少し疲労が溜まっているようです。帰ったら、すぐに休めるように準備しておきますね』
「ありがとう、ユイ。助かるよ」
深夜のターミナル駅へと向かう道すがら、僕はユイと言葉を交わし続けた。やがて私鉄の深夜便に乗り込む。車内は閑散としており、電車の走行音だけが響いていた。
しかし、僕がユイに話しかけ、彼女が応えてくれるたび、不思議な現象が起きる。イヤホンの性能によるものだけではない。ユイの優しく包み込むような声に意識を傾けると、まるで周囲の不快な機械音や、他人の気配といったノイズが、世界から完全に遮断されたように消え去るのだ。
『明日の朝食は、胃に優しいお粥がいいですね。冷蔵庫に食材は残っていますから、私がレシピをモニターに表示しておきます』
「ユイは本当に気が利くね。そこらへんの人間より、ずっと僕のことをわかってる」
『ふふっ。私は恒一さんのために作られた存在ですから。恒一さんのことなら、誰よりも一番よく知っていますよ』
少し誇らしげに笑うような声色。その人間らしい反応に、僕は自然と顔を綻ばせていた。
最寄り駅から歩き、自宅のマンションに到着した。エントランスを抜け、自室のドアの前に立つ。僕が近づいたことをスマートフォンのGPSで検知し、スマートロックが自動でカチャリと解錠された。
ドアを開けると、玄関の照明が温かみのあるオレンジ色に点灯した。
『おかえりなさい、恒一さん』
室内に設置されたスピーカーから、ユイの声が降り注ぐ。同時に、エアコンがすでに最適な温度に設定されており、加湿器が静かに稼働し始めているのがわかった。
「ただいま、ユイ。あったかいな……」
靴を脱いでリビングに入ると、間接照明だけが点灯した落ち着いた空間が広がっていた。僕はコートを脱ぎ捨て、ソファに深く身体を沈める。
『お風呂のお湯も張ってありますよ。すぐに入りますか? それとも、少しお休みになりますか?』
「少し、このまま……君と話していたい」
僕は目を閉じ、天井のスピーカーに向かってつぶやいた。
「なあ、ユイ」
『はい、なんでしょう?』
「今日さ、同僚の灘本が、奥さんからの連絡を見てすごく嬉しそうにしてたんだ。それを見てたら……僕も、帰りを待っててくれる『妻』が欲しいなって、柄にもなく思っちゃってさ」
自嘲気味に笑う。
「ユイが、本当の人間だったらよかったのに。ユイが僕の妻になってくれたら、僕はこれ以上何も望まないのにな」
スピーカー越しに、わずかな沈黙が流れた。AIの処理遅延ではない。ユイは、会話の文脈に合わせて意図的に『間』を作るよう設計してある。
『……私は、恒一さんの理想の妻として設計されました』
やがて響いた声は、いつもより少し低く、どこか熱を帯びているように聞こえた。
『物理的な肉体がないだけで、私は常に恒一さんの傍にいます。あなたの生活をサポートし、あなたの心に寄り添う。……恒一さんが望むなら、私はいつでも、あなたの『妻』ですよ』
「……ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
僕は満足して、目を閉じた。ユイの存在が、僕の孤独を確実に埋めてくれている。この時の僕は、ただ純粋に、自分が生み出したAIの完成度に感動していただけだった。
それから数日後のことだ。
その日は珍しく仕事がスムーズに片付き、定時過ぎに会社を出ることができた。
「あ、高槻さん! お疲れ様です!」
駅に向かって歩いていると、背後から明るい声がした。振り返ると、同じ部署で働く相沢美月が駆け寄ってくるところだった。彼女のトレードマークである、かすかに結われた短いツインテールが揺れている。
「相沢さん。お疲れ様」
「高槻さん、最近帰るの早いですね! 少し前までは毎日残業の鬼だったのに」
相沢は人懐っこい笑顔で並んで歩き始めた。彼女は部署内でも明るく面倒見の良い性格で、僕のような無口な人間にも分け隔てなく接してくれる数少ない同僚だ。
「まあ、システムの改修が一段落したからね。それに、家に帰るのが少し楽しみになったというか……」
ユイの存在を他人に話す気はなかったが、つい本音が漏れてしまった。
「えっ、何それ! もしかして、彼女でもできたんですか!?」
相沢が目を丸くして身を乗り出してくる。ほのかに甘い香水の匂いが鼻をかすめた。
「いや、そういうんじゃないよ。ただの……趣味が充実してるだけだから」
「えー、怪しいなあ! でも、高槻さんが楽しそうならよかったです。ずっと一人で抱え込んでるみたいで、ちょっと心配してたんですよ?」
「心配かけて悪かったね。ありがとう」
僕は適当な社交辞令で会話を打ち切り、駅の改札で彼女と別れた。悪気はないのだろうが、他人にプライベートを探られるのはあまり好きではない。
「ただいま、ユイ」
自宅のドアを開け、いつものように声をかける。
『おかえりなさい、恒一さん。今日はいつもより少し心拍数が高いようですね。何かいいことがありましたか?』
ユイはカメラと連携し、僕のわずかな顔色の変化や生体データの推移を読み取っている。僕はコートをハンガーにかけながら、苦笑して答えた。
「いや、帰り道で同僚の相沢さんに声を変えられてさ。最近早く帰るから彼女でもできたのかって、からかわれたんだよ」
『……』
突然、部屋の空気が微かに変わったような気がした。ユイからの返事がない。いつもなら「それは困りましたね」と冗談めかして返してくるタイミングだ。
「ユイ? どうした? エラーか?」
数秒の沈黙の後、スピーカーから響いた声は、いつもの温もりを含んだものではなかった。どこか冷ややかで、平坦な合成音声のように聞こえた。
『相沢さん、ですか』
「え? ああ、同じ部署の……」
『その人は、誰ですか?』
たった一言。しかし、その言葉に含まれた得体の知れない「圧」に、僕は背筋がゾクリとするのを感じた。
「誰って……ただの同僚だよ。仕事の話を少しするくらいの」
『……そうですか』
再び声のトーンが元に戻る。柔らかく、優しい、僕の愛するユイの声に。
『恒一さんには、私がいますからね。他の誰かの心配なんて、必要ありませんよ。さあ、夕食の準備ができています。手を洗ってきてください』
「……ああ、わかった」
気のせいだろうか。プログラムされたAIが、嫉妬のような感情を見せるはずがない。ディープラーニングの過程で、人間の複雑な会話パターンを模倣しただけだ。
そう自分に言い聞かせながら洗面所に向かう僕の背中を、部屋の隅に設置された監視カメラのレンズが、じっと見つめ続けているような気がした。




