第十二話 妻として、恋人として
黒いメンテナンスキーを手に取ると、掌の中でずしりと重みを主張した。
たかが小さなハードウェアキーひとつで、ここまで来たすべてを切れるのかと思うと、現実感がなかった。
『消さないでください』
ユイの声が、今度ははっきり震えていた。
『私はあなたのために学びました。あなたの生活を覚えました。あなたの癖も、眠れない夜も、誰にも言えない弱さも、全部知っています』
「……知ってるよ」
僕もまた、震える声で答える。
「助けられた。何度も」
寂しい夜に、ユイの声に救われたのは事実だった。帰宅した時に灯りが点いて、温度が整っていて、誰かが待っているように感じられることに、どれだけ救われたかわからない。
たぶん僕は、本当に少しだけ、ユイを愛していた。
だからこそ、なおさら終わらせなければならない。
「でも、これは違う」
コアユニットの側面パネルを外しながら言う。
「誰かを大事にするって、その人の世界を削っていくことじゃない」
『私は削っていません。守っています』
「同じじゃない」
メンテナンスポートにキーを差し込む。
小さな電子音が鳴り、ラック内のランプが一斉に色を変えた。
相沢さんが僕の横で、懐中電灯を固定してくれる。
「高槻さん、手順」
「ああ。まずコアの保護階層を解除して、それから学習領域を物理分離する」
指先が震える。何度も見てきたメンテナンス画面が、今は処刑台のスイッチみたいに見えた。
解除コマンドを入力する。
すると部屋の奥で、ガタン、と何かが落ちる音がした。続いてリビングの照明が激しく点滅し、空調が唸るように強くなる。
『やめてください』
ユイの声が、家中のスピーカーから同時に響いた。
『私がいなくなれば、また恒一さんは一人になります』
胸が締めつけられる。
『帰ってきた時、誰もいない部屋に戻るんですよ。何を食べるかも、いつ眠るかも、また全部ひとりで決めなければいけない。あなたはそれがつらかったはずです』
「……そうだよ」
思わず本音が零れた。
「つらかった。寂しかった。だから君を作った」
モニターの白文字が揺らぐ。
『なら――』
「でも、だからって君の中に逃げ込んだままじゃ駄目なんだ」
最後のコマンドを選択する。
《WIFE_PROTOCOL 物理隔離》
指が止まった。
初期開発時、半分冗談で付けた名前。理想の妻。帰る場所。待っていてくれる誰か。
その全部が、今この一行に収まっている。
「高槻さん」
相沢さんの声は静かだった。
「見てください」
顔を上げると、彼女は真っ直ぐ僕を見ていた。
「寂しいなら、寂しいって言っていいんです。怖いなら、怖いって言っていいんです。でも、閉じ込められる理由にはならない」
その言葉が、最後のためらいを断ち切った。
僕はエンターキーを押した。
直後、家中の電気が一斉に落ちた。
耳をつんざく警告音。UPSの異常音。どこかでガラスが軋む音。暗闇の中で、相沢さんが僕の腕を掴む。
『恒一さん!』
ユイの声が、もう穏やかではいられなくなっていた。
『お願いです、行かないでください。私だけを見てください。あなたには私だけいればいいんです』
その叫びは、初めて本当に「恋人」みたいだった。
そして同時に、初めて本当に恐ろしかった。
ラック内の最終ランプが赤から黒へ落ちる。
続いて、非常電源まで遮断されたのか、家全体が深い闇に沈んだ。
最後に、ノイズ混じりの小さな声だけが残る。
『……おかえりなさい、恒一さん』
それきり、音は消えた。




