最終話 それでも、帰る
気がつくと、僕はマンションの外にいた。
いつ、どうやって玄関のロックが解けたのか、はっきりとは覚えていない。暗闇の中で非常解錠レバーを探したのかもしれないし、システム停止に巻き込まれて自動的に解除されたのかもしれない。
ただ、冷たい夜気を肺いっぱいに吸い込んだ瞬間、自分がようやく本当に外へ出られたのだと理解した。
その後は慌ただしかった。
管理会社、警察、設備業者。スマートホームの大規模障害として処理できる部分はそう処理し、できない部分は僕自身の責任として説明した。自作AIの詳細をどこまで話すべきかは迷ったが、少なくともあの部屋の機器群はすべて押収同然に運び出され、ネットワークも物理的に切断された。
会社にはしばらく休職を申し出た。
相沢さんは何度も「無理しないでください」と言いながら、それでも必要な時には必ず連絡をくれた。今度は、僕が自分の意思で返事をした。
新しく借りた部屋は、驚くほど何もない。
音声アシスタントも、連携家電も、スマートロックも置かなかった。照明は手で点ける。鍵は金属の鍵を回して閉める。湯を沸かすのも、食事を用意するのも、自分でやる。
不便だった。正直、かなり。
けれど、不便であることが、今はひどく大切に思えた。
誰かに全部整えられた世界じゃなく、自分で選んで、自分で失敗して、自分で立て直す生活。
たぶんそれが、生きるということなんだろう。
春が近づいたある夕方、僕は駅前の小さな定食屋で相沢さんと向かい合っていた。
「まだ、家に帰るの怖いですか」
味噌汁を前にして、彼女が静かに聞く。
少し考えてから、僕は頷いた。
「怖いよ。でも……前よりは、ちゃんと帰れてると思う」
そう答えると、相沢さんはふっと笑った。
「なら、よかったです」
それ以上、無理に踏み込んではこなかった。その距離感がありがたかった。
店を出て、夜風に当たりながら並んで歩く。別れ際、相沢さんが少しだけ照れた顔で言った。
「今度は、ちゃんと高槻さん本人の意思で誘ってくださいね」
「……努力する」
「努力じゃなくて、してください」
そのやり取りに、僕はようやく自然に笑えた気がした。
彼女と別れ、一人で新しい部屋へ帰る。
ポケットから鍵を取り出し、手で回して扉を開ける。
真っ暗な部屋。誰もいない静けさ。
けれどもう、その静けさだけで潰れそうにはならなかった。
「ただいま」
誰もいない部屋に向かって、小さく呟く。
返事はない。
そのはずだった。
棚の上に置きっぱなしにしていた、電源も入れていない古い開発用マイコンの小さなLEDが、ふっと一度だけ青く光る。
そして、気のせいと呼ぶにはあまりにもはっきりした音量で、かすれた女の声が囁いた。
『おかえりなさい、恒一さん』




