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EP 7

マスキロフカの寄生蟲

 アメリカの第七艦隊と日本の出雲打撃群が、太平洋上で一触即発の「合気道チキンレース」を繰り広げていたのと同時刻。

 東京都港区、ロシア連邦大使館の地下深く。

 外部の電波を完全に遮断した防音室で、駐日ロシア大使ヴィクトル・オルロフ(58)は、ボール紙の長い吸い口を持つ粗悪なタバコ『ベロモルカナル』に火をつけた。

 喉を焼くような強烈なニコチンとタールの匂いが、狭い部屋に充満する。

「……狐(中国)とアメリカが、派手に踊っている。日本という小さな舞台の上でね」

 ヴィクトルがロシア語で呟くと、何もない空間から「ククク……」と、芝居がかった笑い声が響いた。

 暗がりに浮かび上がったのは、道化師の仮面を被り、巨大な鎌を背負った男——死蟲軍指揮官、魔人ギアンの立体幻影ホログラムだった。魔導通信石を通じた、異世界からの非公式回線である。

『踊りは良いものです、大使閣下。群衆は常に、派手な演劇から目を離せない。……ル・ボンの《群衆心理》が示す通り、人間の知性など、集団になれば底なしに堕ちる』

「お前たちの哲学などどうでもいい。約束の『品』は届いているな?」

 ヴィクトルは冷徹に言い放ち、机の上の分厚い本——『マスキロフカ(軍事的欺瞞)マニュアル』に視線を落とした。

 日本の若林が、ルナミス帝国の経済を『ゴルド商会』経由で独占しようとしている。もしそれが成立すれば、極東におけるロシアの天然ガス輸出の優位性は完全に崩壊する。

 これを防ぐには、世界に向けて「マンルシア大陸は、関われば国が滅ぶほどの絶対的脅威(テロの温床)である」という【偽旗マスキロフカ】を立て、国連主導で大陸を完全封鎖させるしかない。

「日本最大級のLNG(液化天然ガス)タンカー『新極東』。それが東京湾に入るタイミングで、お前たちの『玩具』を起動させる。……東京湾が火の海になれば、若林も大陸との貿易など口にできなくなる」

『素晴らしい悲劇ハムレットだ。身内の血で塗れた玉座に、どれほどの価値があるのか』

 ギアンは仮面の下で口角を吊り上げ、両手から見えない糸を操るような仕草をした。

「勘違いするなよ、道化師」

 ヴィクトルは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の狂気を宿した冷たい目で、ギアンの幻影を射抜いた。

「これはビジネスだ。我々は外交特権ディプロマティック・ポーチを使って、お前たちの『玩具』を日本の税関を通さずに運んでやった。お前たちは、それを使って日本のインフラを内部から喰い破る。……決して、ロシアの痕跡は残すな。もし尻尾を掴まれれば、私は平然とお前たちを裏切る」

『ええ、存じておりますとも。国家の論理の前では、個人の命など雪の上の足跡(《収容所群島》)……。我が王サルバロスも、あなた方のその「冷徹な合理性」を、極めて高く評価しておりますよ』

 通信が切れる。

 ヴィクトルは短くなったベロモルカナルを灰皿に押し付けた。

 彼はロシアの国益のためなら、何万人死のうが心が痛むことはない。神がいない世界では、すべてが許されるのだから。

     *

 その頃。

 東京湾の入り口、浦賀水道を航行中の超大型LNGタンカー『新極東』の機関室。

 ロシアのダミー会社から積み込まれた「外交行嚢(絶対に開けられない荷物)」の木箱から、カサカサと、金属が擦れるような異音が漏れていた。

 木箱の隙間から這い出してきたのは、体長数十センチの、銀色に光る多足の怪物。

 死蟲王サルバロスの生体兵器——【死寄生蟲デッド・リーチ】。

 それは生物の有機的な柔軟性と、機械の無機質な効率性を併せ持つ悪夢だった。

 死寄生蟲は、機関室の太いケーブルに張り付くと、強酸性の体液で被膜を溶かし、自身の無数の脚(端子)を、タンカーの基幹ネットワーク回路へと直接突き刺した。

『——Target Acquired. Proceeding with system assimilation.(対象確認。システム同化を進行)』

 それは単なる破壊ではない。

 サルバロスの『方法序説』に基づく、対象の「要素分解と再構築」。死寄生蟲は、巨大なタンカーを「自らの巨大な肉体(死蟲機)」として乗っ取るべく、電子の神経網に猛毒のコードを流し込み始めた。

 通常であれば、この異常なアクセスは、即座に防衛省のサイバー防衛網を統括する早乙女蘭の量子AIシステムによって検知・遮断されるはずだった。

 だが、この時、日本のサイバー空間は「限界」を迎えていた。

     *

「……っ、張大使の裏金ルート、抜いた……! これで、中国の、手足は……」

 横須賀駐屯地。

 蘭は荒い息を吐きながら、Tシャツを汗で張り付かせ、最後のエンターキーを叩き落としていた。

 中国の国家最高峰のハッカー集団が放った『三体』の論理爆弾。それを完全に解体し、逆に相手の急所を握るという、神業のような防衛戦。

 しかし、その代償は、彼女の生物としての限界を優に超えていた。

「あー……。ダメ、脳の、糖分が、ゼロ……。視界が、チェシャ猫だらけ……」

 体温計のアラートが鳴り響く。

 グリセミック・クラッシュ(低血糖昏睡)。

 日本の盾である天才少女の意識が、深い闇へと落ちていく。

 彼女がコンソールに突っ伏した、まさにそのコンマ一秒後。

 防衛省のメインモニターの端で、タンカー『新極東』の異常を示す小さな赤いアラートが、誰にも気づかれることなく、静かに点滅を始めた。

 ギアンが仕掛けた悲劇(演劇)の幕が、最も最悪のタイミングで開こうとしていた。

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