EP 6
三十六計と三体の影
日本が『ゴルド商会』という異世界の巨大資本と、マージン五対五という対等な立場で経済同盟を結んだ。
そのニュースが、魔導通信石と地球の光ファイバーを経由して世界を駆け巡った瞬間、太平洋の地政学的バランスは、音を立てて崩れ去った。
「……『釜底抽薪(ふていちゅうしん:根源を絶つ)』。日本という国は、常に我々の予想の斜め上を突いてくる」
港区、中国大使館。大使の張慶雲は、洗練された日本語で呟き、高級タバコ「中華」に火をつけた。
彼は『周恩来伝』の洗練された外交官の仮面を脱ぎ捨て、今、その内面にある『毛沢東選集』の唯物論的革命家としての冷徹さを剥き出しにしていた。
日本のメガバンクシステムと、ゴルド商会の魔石供給網が直結すれば、極東における人民元の覇権は挫かれる。それだけは、絶対に阻止せねばならない。
「三十六計。まずは『借刀殺人(しゃくとうさつじん:他人の刀で人を殺す)』……。アメリカを動かそう」
張大使は、卓上の魔導通信石を起動させ、アメリカ大使館ではなく、直接、第七艦隊のジャック・フォークナー大将へと周波数を合わせた。
「……ジャック司令。日本が、あなた方の『傘』から外れようとしています。ゴルド商会との同盟は、ドル覇権への明白な挑戦ですわ。我々(中国)がサイバー空間で日本の『金融の心臓』を止める。その隙に、あなた方は物理的に『牙』を抜いてはいかが?」
張大使の提案は、『三体』の智子のように、相手の認知を歪める狡猾な誘惑だった。
*
「……チッ。シナの狐が、殊勝な提案をしてきやがる」
空母ジョージ・ワシントンのCIC。ジャック大将は、張大使からの通信を切ると、ラッキーストライクを灰皿に揉み消した。
彼はアメリカの利益を最大化するためなら、『聖書』の悪魔とも契約する男だ。若林がニャングルと結んだ同盟は、ジャックにとって、エイハブ船長の脚を奪った白鯨と同じ、許されざる『傲慢』だった。
「『権力に翻弄されないための48の法則』……。法則15、『敵は完全に全滅させろ』。日本の武力という外交カードを、今ここで没収する」
ジャックは大将の権限で、艦隊に命令を下した。
「全艦、第1種戦闘配置。目標、『いずも』打撃群。……『合同演習』の名目で包囲し、指挥権の統合を要求する。拒否すれば……国際法ギリギリの『航行の自由作戦』で、彼らの陣形を物理的に解体しろ」
第七艦隊が、日本のEEZ内で、牙を剥いた。
*
横須賀駐屯地、早乙女蘭の専用コンソールルーム。
そこは、第4話の市ヶ谷のVIP室とは正反対の地獄だった。エナジードリンクの空き缶、ドーナツの箱、そして異常発熱するスーパーコンピュータの排熱。
「あー、うるさいな。狐と鷲が同時に鳴き出した。……私のドーナツタイムがァ!」
蘭はオーバーサイズのパーカーの袖を捲り上げ、キーボードに指を踊らせていた。彼女にとってサイバー戦は『不思議の国のアリス』のマッド・ティーパーティー。だが、今回の敵は違った。
中国のサイバー工作部隊。彼らの攻撃は、ただのプログラムではない。魔導通信石の波長と地球のバイナリデータを融合させた、未知の論理爆弾。
「魔導と科学の融合……? 『暗号解読』の教本にも載ってないわね。……でも、ロジックがあるなら、解けない謎はないッ!」
蘭はパーカーを脱ぎ捨て、Tシャツ姿で本気の演算を開始した。彼女の脳内ATPが、通常の数百倍の速度で消費されていく。
体温が急上昇する。視界が白光に包まれ、スパコンのコードが「笑い猫(チェシャ猫)」の幻覚に見え始める。
——糖分が、足りない。
「……くそッ。狐の裏金ルート、見つけたわよ! 『釜底抽薪』! 根源を絶ってやるッ!」
蘭は朦朧とする意識の中、張大使の裏金ルートとハッキングの証拠データを、若林のスマホへ送信。
そして、日本の全インフラを保護する防御壁の最後のコードを入力した瞬間——
「……あ。不思議の国が、消える」
グリセミック・クラッシュ(低血糖昏睡)。
蘭はコンソールの上に、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。強制スリープ。
日本の最強の盾が、落ちた。
その一瞬の隙を突き、中国のトップハッカーが、日本の「金融ネットワーク技術(ゴルド商会への提供予定データ)」の一部を、窃取することに成功した。
*
「……ほう。第七艦隊が、ウチを『包囲』とな」
イージス艦『あたご』のCIC。坂上真一(父)は、ハイライトを奥歯で噛みちぎりながら、メインスクリーンを見据えた。
第七艦隊が「合同演習」を名目に、出雲打撃群の全方位から接近。イージス艦のレーダーが、米軍の火器管制レーダーの照射を検知し、警報を上げ続けている。
「司令! 指揮権の統合を要求してきています! 拒否すれば、航行の自由作戦として陣形を強引に突破すると……!」
「……ジャックのクソ野郎。狐に唆されて、鷲が吠えよるわ」
真一は灰皿を睨みつけ、『五輪書』の極意を脳内に展開した。
「拍子の事」。武力衝突は、聖獣機神ガオガオンの『調停』に触れる。だが、相手の『面子』を立てつつ、こちらの『意志』を通さねばならない。
「全艦、合気(受け流し)の陣形をとれ。火器管制レーダーはオフ。ただし——『航法レーダー』は最大出力で照射しろ」
「え……? 航法レーダーを?」
「ええけえ、やれ! タイミング(理)を見極めるんじゃ!」
出雲打撃群が、米軍の包囲網に対し、物理的な反撃ではなく、異常な航行機動を開始した。海流、気象、そして国際法上の「避航義務」のギリギリを突く、艦隊機動の芸術。
真一は第七艦隊が「突入」してくる瞬間を、合気道の達人のごとく見極めた。
「今じゃ! 『白虎』、面舵一杯! 米軍駆逐艦の『進路前方』へ、全速力で突っ込め!」
ドンッ!
イージス艦『あたご』が、第七艦隊の先導艦の進路へ、衝突寸前のタイミングで割り込んだ。国際法上、衝突を回避する義務は米軍側にある。
米軍の駆逐艦は、異常な緊急回避(面子を捨てた機動)を強いられ、ジャック大将が狙っていた「完璧な包囲陣形」は、自衛隊のただ1隻の『捨て身の受け流し』によって解体された。
『……真一、お前。……何を考えていやがる』
ジャック大将からの、震えるような通信。武力ではなく、ただの「タイミング」で包囲を解かれた、ジャックの『白鯨』への狂気が、冷や汗に変わる。
「ジャック司令。『合同演習』は結構ですが、ウチの蘭ちゃん(AI)が糖分切れでエンストしましてな。システムが不調で、ウチの艦隊は『制御不能』の狂犬同然。……誤射してアンタらの高価な空母に穴を開けたらいけんけえ、……今日はもう、下がっとれ」
真一は、ハイライトを吹き出しながら、ジャックに「面子を保つ退路」を提示した。
「システム不調」という、嘘。だが、誰も傷つかず、第七艦隊が「下がれる」理由。
世界最高峰の武力が、一人の「堕落した海将補」のタイミングによって、完璧に封殺された瞬間だった。
だが、真一はまだ知らない。
蘭が昏睡した一瞬の隙に、中国が日本の金融ネットワーク技術を盗み去り、それを張大使が『ゴルド商会』への新たなジョーカーとして、裏で磨き始めていることを。
血の流れない戦争。第2幕は、日本の勝利ではなく、さらなる絶望への序曲に過ぎなかった。




