EP 3
悪徳の栄えと猫の誤算(GAMBLERS)
侵略は、銃声ではなく「沈黙」と共にやってきた。
ルナミス帝国の首都。大通りに面した巨大スーパー『タロウマート』の旗艦店から、突如として客の怒号が響き渡った。
レジの魔導決済端末が、すべて赤いエラーコードを吐き出している。
『残高不足』。
帝国全土の物流と信用を担保していた電子通貨「L-Pay」のネットワークに、死蟲王サルバロスが放った第2の矢——【通貨寄生蟲】が侵入したのだ。
それはデータを破壊するウイルスではない。
「1L-Pay=1円」という【価値の概念】そのものを、システム内で無限に細分化し、増殖させる悪魔のアルゴリズム。わずか数十分でL-Payの価値は暴落し、タロウマートの棚から商品は消え、帝国はハイパーインフレのパニックに陥った。
*
「……あかんなァ。ルナミスの経済、完全に底が抜けとる」
永田町、地下特設防音室。
モニター越しに、ゴルド商会のニャングル会長が純金の煙管を弄りながら、ひどく冷めた声で告げた。
対面の席で、若林幸隆はピースの煙をゆっくりと天井に吹き付けた。
「ワイらの商会も、これ以上の出血は御免や。……若林はん。悪いが、日本との金融ネットワーク回線、明日の朝イチで【物理切断】させてもらうで。損切りや」
冷徹な資本家の判断。ここで切り離されれば、日本のメガバンクが抱え込んでいるルナミス関連の債権はすべて紙屑になり、日本の国家予算規模の損害が出る。
だが、若林は少しも動揺していなかった。
むしろ、彼の眼鏡の奥の瞳は、致死量のスリルを前にしたギャンブラー特有の「昏い歓喜」に濡れていた。
「……お待ちを、ニャングル会長。回線を切る必要はおまへん」
若林は手元のタブレットを滑らせ、一枚のチャートをモニターに投影した。
「帝国のインフレを逆手に取ります。日本のメガバンクが保有する『ルナミス帝国の国債』を、市場が完全に死ぬ前の今のうちに【空売り】する。……暴落しきった底値で買い戻せば、損失を相殺するどころか、帝国の国家インフラをタダ同然で日本の傘下に収められますわ」
それは、死に体の帝国から最後の血の一滴まで搾り取る、極悪非道な金融トラップ。
若林の脳内には、盤面のすべての動きが完璧に計算されていた。ニャングルの冷徹な損得勘定も、帝国民のパニックの速度も、すべてが「想定内」だ。
「……若林はん。アンタ、ホンマに血も涙もない男やで」
ニャングルは呆れたように息を吐き、「ええやろ、その勝負、乗ったるわ」と嗤った。
完璧な合理。完璧な布陣。
若林の仕掛けた巨大な罠が、市場で牙を剥こうとした——まさにその瞬間。
『——警告! L-Pay市場に、所属不明の巨大資本が突如介入!』
若林のタブレットが、けたたましいアラートを鳴らした。
モニターのチャートが、あり得ない角度で「逆ブレ」を起こす。空売りを仕掛けた直後に、暴落するはずだったL-Payの価値が、謎の超巨額資金の流入によって瞬間的に跳ね上がったのだ。
「な……ッ!?」
若林の指から、ピースがポロリと滑り落ちた。
「馬鹿な……!? 誰や、こんな完全に死に体の市場に、兆単位の『買い』を入れる狂人はッ!?」
*
「……まったく。あのアホ魔王、また国庫の予算に手をつけやがって……!」
その頃、アバロン魔皇国の執務室。
魔族穏健派の貴公子ルーベンスは、競馬新聞とコーヒーをデスクに放り投げ、胃薬を水で流し込んでいた。
彼の目の前には、「用途不明金:金貨300万枚」という絶望的な決算書がある。
理由は分かっている。魔王ラスティアが、地球のアイドル『朝倉月人』の福岡PayPayドーム公演のVIP席を買い占め、さらに等身大アクリルスタンドを全種類揃えるために、国家予算を横領したのだ。
「明日の魔王軍の給料すら払えん。……背に腹は代えられんな」
ルーベンスはため息をつきながら、魔皇国が保有する「超高純度の魔石(地球では兵器転用可能な超レアメタル)」の備蓄を、L-Pay市場に一斉に投げ売りした。
目的は、日本円の即時現金化。
経済的な損得(合理性)など関係ない。ただ「今日のアイドルのライブに間に合わせるための、極めて私的で衝動的な換金」である。
だが、この【推し活のための非合理極まりない資金洗浄】が、若林の「完璧に計算されたトラップ」のタイミングと、最悪の形で衝突した。
*
「……若林はん。空売りの踏み上げ、直撃やで」
ニャングルが、顔を引きつらせて呟いた。
「アカン……! 損切りや、全ポジション即時決済しろ!!」
若林が怒号を飛ばし、自衛隊の防衛回線すら転用してシステムに介入する。
だが、遅かった。
たった数分の市場のバグ。その間に、日本のメガバンク数行が許容限度を超える致命的な損失を被った。連鎖倒産を防ぐため、システムが自動的に中小企業への融資枠を強制ストップする。
画面の向こうで、日本国内の数万の企業が黒字倒産し、何万人もの人間が路頭に迷う数字が滝のように流れていく。
「……若林はん。アンタの負けや。読み違えとる」
「…………」
若林は、自身のネクタイを乱暴に引きちぎるように緩めた。
額から滝のような冷や汗が流れ落ちている。だが、彼は震える手で新しいピースに火をつけると、強引に口角を吊り上げた。
「……負け、ですと? 冗談を」
若林は、血を吐くような強がりで、ニャングルを睨み返した。
「メガバンクの損失は、数万人規模の自己破産(犠牲)を出せばカバーできる範囲です。……国家の首の皮を繋ぐための、許容範囲のコストや。私の計算に、狂いはない」
それは、明らかな詭弁だった。
彼は己の「勝負への渇望(狂気)」によって読みを外し、自国民を数万人単位で経済的死者へと追い込んだ。だが、その失態を『合理的な判断だった』と無理やり正当化することでしか、自身の精神を保てなくなっていた。
*
だが、この市場の阿鼻叫喚の中で、ただ一人、完璧に算盤を弾き切った男がいた。
「……っしゃ。ルナミス帝国のファミレス『ルナキン』の経営権、底値で買い叩き完了っと」
マンルシア大陸、ルナミスとレオンハートの緩衝地帯に位置する『ポポロ村』。
その村役場で、赤マルを吹かしながらノートPCを叩いていたのは、東京都出身の元商社エース——力武政宗(25)だった。
「政宗ぇ〜! ご飯まだぁ〜?」
ソファの上で、人参柄のクッションを抱きしめた月兎族の村長・キャルルが、足をバタバタさせている。
「おう、今ルナキンをポポロ村の傘下に入れたからな。明日からお前の朝定食、メニュー倍増だぜ」
若林が国家の威信を懸けて挑み、魔族の気まぐれに焼き尽くされた地獄の市場。
政宗は、その通貨崩壊の兆候を事前に察知し、暴落の底で「実体経済」だけをピンポイントでかすめ取っていた。
「わぁい! 政宗、だーいすき!」
「へへっ、任せとけ。お前が笑ってりゃ、俺の算盤はいつでも黒字だ」
政宗は赤マルの煙を吐き出しながら、モニターに映る『大損害を出した日本政府』のニュースを鼻で笑った。
国益? 覇権?
そんなチンケなもののために血眼になってるから、足元をすくわれるんだ。
世界最高の資本家も、冷徹な政治家も知らない。この世界で最も恐ろしい資本の怪物は、「ただ一人の少女の笑顔」という【究極の非合理】のために、己の全知能を捧げる狂信者(ポポロ村)であることを。
若林幸隆のメッキが剥がれ、日本の経済が内側から腐り始めた夜。
盤面の外側で、理不尽なまでの暴力と愛の牙城が、静かにその存在感を巨大化させ始めていた。




