EP 4
不思議の国と狂ったパズル(DELETE)
ルナミス帝国の経済を喰い破った『通貨寄生蟲』は、ただの金融ウイルスではなかった。
ゴルド商会の決済システムから日本のメガバンクへ、そしてメガバンクのサーバーから日本の物理インフラ(電力網・交通網・通信網)へと、その根を伸ばし始めていた。
東京の夜景が、不気味な瞬きを繰り返している。
信号機がデタラメな色を点灯させ、交差点では玉突き事故が多発。スマートグリッド(次世代送電網)の制御が狂い、一部の区画ではすでに大規模なブラックアウトが発生していた。
防衛省サイバー防衛指令室。
特A級AIエンジニア・早乙女蘭は、山積みのドーナツの箱とエナジードリンクの空き缶に囲まれながら、血走った目でマルチモニターの光を浴びていた。
「……ウサギの穴は塞いでも塞いでも、別の場所から開く。……違う。これはチェシャ猫の幻影よ。奴ら(蟲)は、どこから侵入しているの?」
蘭の指が、キーボードの上で残像を残すほどの速度で踊る。
無から有を生み出すような極限のアルゴリズム構築と、敵の暗号(論理)を解読する作業の並列処理。彼女の脳内糖分は猛烈な勢いで消費されていく。
数万行のコードを解析した瞬間、蘭の手がピタリと止まった。
「……ああ、そういうこと。なんて意地悪なパズル」
蘭は、イチゴ味のドーナツを無表情でかじりながら、敵の『仕様』を理解した。
死蟲王サルバロスが設計したこのウイルスは、システムの脆弱性を突いているのではない。【人間の感情】を突いているのだ。
インフラが停止しそうになると、現場のオペレーターは必ず「手動操作」に切り替えて、被害を食い止めようとする。
通貨寄生蟲は、その『手動オーバーライドの回線が開いたコンマ一秒の隙』を狙って、より深い中枢システムへと逆流・増殖するアルゴリズムを持っていた。
つまり、人間が「誰かを助けよう」とシステムに介入すればするほど、蟲はそれを餌にして日本中へ拡散していく。
「早乙女室長! 関東第3セクターの送電網が危ない! 現場の技師たちが手動でバイパス回線を開こうとしています!」
オペレーターが悲痛な声を上げた。
「ダメよ、回線を開かせないで。そこから中枢を喰われるわ」
「しかし、第3セクターには大学病院があります! 今、送電を強制遮断すれば、予備電源の切り替えが間に合わず、人工呼吸器などの生命維持装置が……重症患者数十人の命が落ちますッ!」
オペレーターの懇願。
通常ならば、ここで「どうにか両方を救う手段」を模索するのが人間の、そしてヒーローの役目だ。
だが、蘭の瞳には、一切の光が宿っていなかった。
「……そう。数十人のエラー(損失)が出るのね」
蘭にとって、世界はすべて『暗号解読』のための巨大なパズル盤に過ぎない。
美しい数式。淀みないプログラム。それだけが彼女の評価基準であり、パズルのピース(人間)が血を流すことなど、コードの美しさの前では「ただのノイズ」でしかなかった。
「……室長? 今、何と……」
「現場の制御権限を、すべて私(中央)に強制移行する」
蘭は、キーボードを叩き、新たな防御壁のコードを実行した。
それは、蟲の侵入を防ぐための最強のファイアウォール。しかし同時に、【現場の人間の手動操作を一切受け付けない】という、人間の決裁権を完全に剥奪する絶対的な隔離プログラム。
「なっ……ダメです室長! それをやれば、現場は何も対処できずに、システムごと死にます!」
「ええ。だから『切り離す』のよ。ウサギの穴に落ちたエラー(人間)は、トカゲの尻尾と同じ。切り捨てて燃やすのが、最も効率的な解でしょ」
「狂ってる……ッ! あなたは、数十人の命を……!」
「黙って」
蘭の冷たく、機械的な声が、指令室の空気を完全に凍結させた。
「人間の『迷い』や『同情』が、システムの最も致命的なバグなの。……完璧な防衛に、不確定な感情はいらない」
ターンッ。
蘭の指が、迷いなくエンターキーを叩き落とした。
その瞬間、関東第3セクターの送電網が、中央システムから物理的に切り離され、強制的なブラックアウト(完全停止)に陥った。
モニターの中で、蟲の増殖を示す赤いアラートが、パリンと音を立てるように消滅していく。ウイルスは隔離され、日本の基幹インフラは守られた。
——だが。
別のモニターには、闇に包まれた大学病院から発せられる、絶望的なエマージェンシー信号が点滅を繰り返している。
生命維持装置の停止。非常用電源の起動失敗。
確実な、そして蘭が自らの手で引き起こした【大量の死】のサイン。
「……蟲は駆逐したわ。日本のインフラは安全よ」
蘭は、モニターの向こうで消えていく命の灯火を見つめながら、残っていたドーナツを口に放り込み、無機質に咀嚼した。
「……うん。パズルが、綺麗に解けた」
その顔には、罪悪感も、悲壮感すらない。
あるのは、難解な数式を解き明かした天才特有の、無邪気で残酷な達成感だけだった。
オペレーターたちは、恐怖で声も出せず、ただ蘭の背中を戦慄の目で見つめていた。
合理性を追求しすぎた結果、彼女の精神構造は、もはや倒すべき敵である『死蟲』の冷徹なアルゴリズムと何一つ変わらなくなってしまったのだ。
防衛成功。
だがそれは、日本の盾である天才少女が「人間」であることを完全に放棄した瞬間だった。
無機質な電子音だけが響く指令室で、狂ったアリスは、ただ一人甘い毒(勝利)を味わい続けていた。




