第二章 不可視の侵略と空洞の玉座
純粋法学と生贄の盾(LEGAL HACK)
マンルシア大陸沿岸へと続く、灰色の海。
波間に揺れるのは、国籍マークも自衛隊の艦番号も消された、薄汚れた中型輸送船だった。
甲板で潮風に吹かれているのは、同じく階級章のない漆黒のタクティカルギアに身を包んだ坂上信長一尉と、彼の部下たち——公式には「存在しない」とされた、汚れ仕事専門の『黒色小隊』である。
「……隊長。米軍の第七艦隊と、中国のフリゲート艦がレーダー圏内に入りました。完全に包囲されています」
「だろうな。国連にとっちゃ、俺たちは『大陸の利権を独占する日本の密輸船』だ。撃沈する大義名分を探してウズウズしてるはずだ」
信長は、インカムを押さえながら無機質に答えた。
彼らの今回の任務は、大陸との前線基地へ物資を運ぶこと。だが、それ以上の「裏の目的」があることを、信長だけは知らされていた。
「ビビるな。反撃は一切許可しない。……俺たちはただの『民間人』だ。一発でも撃ち返せば、この国が沈むぞ」
信長は部下にそう命じながら、己の心臓が重く冷たく脈打つあの感覚を覚えていた。
100人を見捨てた、あの日と同じ感覚。国を生かすための、冷徹な『正解』の味。
*
同時刻。東京・霞が関、外務省の国際会議室。
巨大なモニター越しに、在日米軍トップのジャック大将と、中国の張大使が、居丈高な態度で日本政府に最後通牒を突きつけていた。
『——以上の理由から、あの海域を航行中の所属不明船に対し、国連平和維持の観点から「強制臨検」を実施する。抵抗すれば、撃沈も辞さない』
ジャック大将が、ラッキーストライクを吹かしながら『権力に翻弄されないための48の法則』に則った強者の論理を押し付ける。張大使もまた『借刀殺人』の笑みを浮かべて同調した。
だが。
日本側の席の中央に座っていたのは、若林幹事長ではなく、一人のうら若き女性だった。
桜田リベラ(30)。日本政府・首席国際法務官。
彼女は、最高級のダージリンティーの香りを楽しみながら、皿に乗ったピンク色のマカロンを小さくかじった。
「強制臨検。……ふふっ、随分と野蛮なことを仰るのですね、将軍」
リベラは、マカロンの甘さを口の中で溶かしながら、柔和な——背筋が凍るほど完璧な——笑顔を向けた。
「あの船は、日本の民間企業が所有する『純然たる民間輸送船』であり、積荷は医療物資です。ジュネーヴ条約および国際人道法において、武力紛争時における文民および民用物の保護は絶対。……あなた方がもし一発でも威嚇射撃を行えば、それは明確な『国際法違反(戦争犯罪)』となりますわ」
『戯言を!』
ジャック大将が机を叩く。
『甲板にいるのは、日本の特殊部隊だろう! 民間の偽装などという安い手口が通じると思っているのか!』
「あら、偽装だという『証拠』はどこに?」
リベラは首を傾げた。彼女の脳内には、ハンス・ケルゼンの『純粋法学』が展開されている。
「法とは、純粋な『規範』の体系です。彼らが心の中で軍人であろうと、法的手続きにおいて『民間人』として登録され、武器を使用していない以上、規範上は『保護されるべき民間人』に過ぎません。……真実など、法廷では何の意味も持たないのですよ?」
元レディースという経歴を持つ彼女にとって、法律とは正義を守る盾ではない。相手の腹を合法的に刺すための、研ぎ澄まされたドスだ。
『……よかろう。ならば、その薄皮を物理的に剥がしてやる』
ジャック大将が通信を切る。彼は『白鯨』のエイハブ船長のごとく、目の前の獲物を狩るための実力行使を選んだ。
*
海上の輸送船。
米軍の駆逐艦から放たれた機関砲の掃射が、容赦なく輸送船の甲板を薙ぎ払った。
「うわぁぁッ!?」
非武装を命じられていた黒色小隊の隊員数名が、直撃を受けて血飛沫を上げ、甲板に倒れ伏す。
「隊長! 撃たれました! 撃ち返させてください、このままじゃ全滅しますッ!」
悲鳴のような部下の声。
信長は、血だまりの中に倒れた部下を見下ろし、ギリッと奥歯を噛み砕くほど強く食いしばった。
(撃ち返せば、ただの交戦だ。……俺たちが「無抵抗の民間人」として一方的に殺されなければ、あの『システム』は起動しない……!)
「耐えろ……ッ! 武器を捨てるんだ! 抵抗するなッ!」
信長は、自らの部下に「死ね」と命じたも同然だった。
これも、国を守るための合理。俺は間違っていない。俺の判断は、正しい。
自らに言い聞かせる強迫観念が、信長の眼差しから人間性を削り落としていく。
そして——部下の三人が絶命し、甲板が血で染まった、その瞬間。
『——規定違反ヲ確認。ジュネーヴ諸条約・第一追加議定書ニ基ヅキ、文民へノ故意ノ攻撃ヲ認定』
空が、裂けた。
暗雲を突き破り、黄金の光と共に降臨したのは、マンルシア大陸の創世の調停者、聖獣機神ガオガオン。
「な、なんだあの化け物は……ッ!?」
米軍の駆逐艦がパニックに陥る。
彼らは知らなかった。ガオガオンが、女神ルチアナが設定した「国際法という文字列」にのみ機械的に反応し、違反者を無慈悲に焼き払う【ポンコツで最悪な防衛プログラム】であることを。
『プロイセン法、古代ローマ法、国際人道法ヲ統合解釈。……制裁ヲ執行スル』
青龍の左腕から放たれた極太のレーザーの雨が、日本に牙を剥いた米中の前衛艦隊を、一瞬にして蒸発させた。
海が沸騰し、敵の戦力は完全に灰燼に帰した。圧倒的で、一方的な大勝利。
*
「……素晴らしい。やはり、法は絶対ですわね」
霞が関の会議室。
モニター越しに米軍艦隊の消滅を確認したリベラは、至極満足そうに紅茶を一口飲んだ。
敵の軍事圧力の排除。
国益の確保。
日本側の勝利条件は、完璧に満たされた。
だが、海上の信長は、ガオガオンの黄金の光に照らされながら、黒焦げになった味方の死体を抱きかかえていた。
「……勝った。……俺たちは、勝ったんだ……」
信長は、うつろな目で海を見つめて呟いた。
勝利した。だが、手の中にあるのは冷たい死体だけだ。
味方を「合法的な生贄」として差し出し、無能な神のシステムをハッキングして得た、血塗られた勝利。
「これこそが、大人のやり方ですわ。坂上一尉」
インカム越しに、リベラの甘い声が鼓膜を撫でる。
「彼らの尊い犠牲が、法の正当性を証明しました。……あなたも、最高に『合理的』な判断をしましたね」
「……あァ。俺は、間違ってない」
信長の心の中で、何かが決定的に壊れる音がした。
欲望を『法』と『合理』で隠蔽した、狂信者たちのパズル。その残酷な第2幕が、空っぽの勝利と共に静かに幕を開けた。




