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EP 12

泥中の合気道(交渉の極致)

 防音室の分厚いカーペットの上で、焦げたピースから細い煙が立ち昇っている。

 画面の向こうでは、ロシアのヴィクトル大使が勝利の美酒を味わうようにベロモルカナルを咥え、ゴルド商会のニャングルが「肉一ポンド」を切り取るナイフを舐めずっていた。

「一兆二千億円。……なるほど、見事な罠ですわ」

 若林幸隆は、ゆっくりと新しいピースを取り出し、火をつけた。

 指先が、微かに震えている。ニャングルの『反脆弱性』の眼力は、若林のその生理的な恐怖エラーを見逃さなかった。

「若林はん。強がらんでもええ。アンタの負けや。日本のメガバンクのシステム権限、明日からワイらが全権アクセスさせてもらうで」

「ええ。そうすれば、我々は国家予算の一部を喪失し、政権は吹き飛ぶでしょうな」

 若林は、深く煙を吸い込んだ。

 そして、その煙を画面の向こうの三人へ向けて、長く、鋭く吐き出した。

「——ですが、それは『日本という国が、この一兆二千億円を真面目に払った場合』の話や」

 若林の眼鏡の奥で、マキアヴェッリの冷徹さが『孫子』の苛烈さへとスイッチした。

「……何?」

 ヴィクトルが怪訝な顔をする。

「孫子曰く。『死地に陥れて然る後に生く』」

 若林は、手元のタブレットを操作した。

「ニャングル会長。あなたが『ヴェニスの商人』のシャイロックなら、私は裁判官ポーシャの論理で返させてもらう。……肉を一ポンド切り取るのはええが、血を一滴でも流せば契約違反や」

「……どういう意味や、若林はん?」

 ニャングルの猫耳が、警戒にピンと立つ。

「簡単な話です。我が国は、この一兆二千億円の債務を『一切支払わない(デフォルト)』。それどころか、ゴルド商会との通信・物流ラインを、今この瞬間をもって【物理的にすべて遮断】します」

 画面の向こうの三人が、一瞬、思考を停止した。

「な……狂ったか、日本!? 借金を踏み倒して鎖国すれば、日本の信用は地に落ち、世界中から経済制裁を受けるぞ!」

 張大使が思わず声を荒げた。

「ええ、日本は血みどろの大ダメージを負う。……だが、ニャングル会長。あなたの商会はどうなる?」

 若林は、画面の中の化け猫の「眼球」を真っ直ぐに睨み抜いた。

「ルナミス帝国のタロウマートの裏で、商品の調達と決済システム(L-Pay)のサーバーを動かしているのは、日本のメガバンク(物理インフラ)です。日本が回線を物理切断すれば、タロウマートの物流は明日から完全にストップする。……帝国中で暴動が起き、L-Payの信用は『ゼロ』になる」

 ニャングルの顔から、余裕の笑みがスッと消え去った。

「一兆二千億円の借金を取り立てるために、日本を破産させる。ええでしょう。……ですがその瞬間、ゴルド商会が握る『L-Pay経済圏の未来の数十兆円の利益』が、丸ごと電子の藻屑になって吹き飛ぶんや!!」

 沈黙。

 圧倒的な、死の沈黙。

 若林が突きつけたのは、交渉ではない。【自爆テロのスイッチ】だった。

 『俺を殺せば、お前の最も大事な金庫(ルナミスの経済圏)も道連れにして爆破するぞ』という、国家を人質に取った究極の脅迫。

「……若林はん。アンタ、自分の国を人質に、ワイを脅すんか。……そんなハッタリ」

「ハッタリかどうか。あなたのその目で、私の脈拍と瞳孔を見れば分かるはずや」

 ニャングルは、画面に顔を近づけ、若林の微細な筋肉の動きをスキャンした。

 ……嘘はない。この男は、本気で自国の経済の半分を犠牲にしてでも、ゴルド商会を道連れに地獄へ落ちる覚悟を決めている。

 借金取りが最も恐れるのは、「死んでも払わない無敵の人」だ。

「……カッカッカッ!! アッハッハッハッ!!」

 突如、ニャングルが腹を抱えて爆笑し始めた。

「アカン! アカンわ若林はん! アンタ、政治家やのうて、ヤクザや! 極道やで!!」

 笑い涙を拭いながら、ニャングルは煙管を机に叩きつけた。

「……ヴィクトルはん、張はん。残念やが、このゲーム、ワイの『降り』や」

「な、ニャングル会長! ここで引けば……」

「黙りなはれ!!」

 ニャングルの凄まじい怒声が、ロシアと中国の大使を黙らせた。

「ワイは『儲ける』ために商売しとるんや。一兆の端金のために、ルナミスの巨大市場タロウマートっちゅう『金の卵を産む鶏』を殺すような三流の真似はせん。……若林はん、アンタの勝ち(引き分け)や。その一兆二千億、どうやって『払う』んや?」

 若林は、ここで初めて「合気道」の投げを打つ。

 相手の殺意と資本の暴力を利用し、自らの陣地へ引き摺り込む、最も泥臭く、最も強固な契約ディール

「デット・エクイティ・スワップ(債務の株式化)。……この一兆二千億円の債務を帳消しにする代わりに、新たに設立する『地球・ルナミス間物流統括機構』の株式の49%を、ゴルド商会に譲渡します。あなたは債権者ではなく、我々と運命を共にする【共同運営者(共犯者)】になるんや」

 49%。過半数は日本が握るが、利益の半分はゴルド商会に吸い上げられる。

 日本にとっても血を流す「痛みを伴う決断」。だが、国家の首根っこ(51%)は死守した。

「……ええやろ。その毒饅頭、ワイが食うたるわ」

 ニャングルがニヤリと笑う。そして、ヴィクトルの方へゆっくりと首を向けた。

「さて、ヴィクトルはん。ワイと若林はんが『身内』になった以上……アンタがワイの商会を使って日本に不渡りの毒(偽旗)を食わせた事実は、看過できへんのう」

「……ッ!」

 ヴィクトルの顔色が変わる。

「ロシアはんへのL-Payおよび魔石の供給ライン、本日から『無期限停止』とさせてもらうで。……雪の降る寒い国で、せいぜい震えながらベロモルカナル吸っときなはれ」

 通信が、プツンと切断された。

 ロシアと中国が消え、画面には若林とニャングルだけが残る。

「若林はん。……次にワイの利益を損なう真似をしたら、今度こそ本当にアンタの国の首、切り落とすで」

「ええ。互いに背中にナイフを突きつけ合いながら、仲良く世界を支配しましょうや。ニャングル『共同代表』」

 通信が完全に終了した。

 防音室に、ただ一人残された若林。

 彼はゆっくりと眼鏡を外し、ネクタイを乱暴に緩めた。

 その額からは、滝のような冷や汗が流れ落ちている。

「……心臓が、止まるかと思ったわ……」

 震える手で、灰皿の横に転がった『孫子』の本を撫でる。

 一歩間違えれば、国家が崩壊していた。だが、彼は生き残った。自分の血肉(49%)を削らせることで、ロシアを盤面から蹴り落とし、最強の資本家を「味方」に引き摺り込んだのだ。

 政治という名の、泥まみれの合気道。

 日本の頭脳戦は、薄皮一枚で、世界を制圧した。

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