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EP 10

月明かりの回答(ロウソクの科学)

 非常灯の赤黒い光が瞬く、横須賀駐屯地の地下大空間(車両整備格納庫)。

 焦げた肉とオイルの悪臭が漂うその空間の中央で、道化師の仮面を被った魔人ギアンは、優雅に一礼をした。

「ようこそ、血塗られた英雄殿。そして、麗しき月の王女」

 防爆扉を破り、格納庫に踏み込んだ信長の全身は、すでに返り血と機械のオイルでどす黒く染まっていた。その背後には、彼を見極めるように静かに付き従うアルテアの姿がある。

 信長の目は、虚無のように暗く、静かだった。

 100人の命を天秤にかけ、切り捨てた。その事実が、エリート幹部としての彼の精神メッキを完全に焼き尽くしていた。

「……お前の首の、一番太い血管を切り裂きに来た」

「おや、恐ろしい。ですが……あなたが斬るべきは、本当に私ですか?」

 ギアンが両手を広げると、彼の指先から無数の「透明な糸」が放たれた。同時に、空間の上部に潜んでいた『死蛾デス・モス』の群れが、燐光を放つ鱗粉を格納庫いっぱいに撒き散らす。

 ル・ボンの『群衆心理』を極めたギアンの精神魔法。

 鱗粉が非常灯の光を乱反射させ、空間そのものが歪む。

『……連隊長。なぜ、開けてくれなかったんですか……』

『熱い、熱いよォ……ッ!』

 信長の足元から、黒焦げになった部下たちと、その家族の亡霊が這い出してきた。

 信長の足首を掴み、怨嗟の声を上げる。顔の判別もつかないほど焼け爛れた少女の幻影が、信長に手を伸ばす。

「……ッ!」

 信長の足が、地面に縫い付けられたように止まる。

幻覚マスキロフカだ! 信長、騙されるな!」

 背後のアルテアが叫ぶ。だが、信長の理性では幻覚だと分かっていても、自ら見捨てたという「罪悪感」が、彼の身体を金縛りにかけていた。

「幻覚、でしょうか?」

 ギアンが指を動かすと、亡霊の一人が信長の胸を殴りつけた。

 ドゴォッ!

 確かな物理的衝撃。信長は肋骨を軋ませ、数メートル吹き飛ばされる。

「彼らは死蟲の糸で操られた、あなたの部下の『死体』かもしれない。あるいは、幻覚に紛れ込んだ死蟷螂デス・マンティスの刃かもしれない。……疑心暗鬼。罪悪感。それこそが、最も重い『処刑の刃』なのです」

 亡霊たちが、一斉に信長に群がる。

 斬れない。信長の北辰一刀流は「殺意」を感知して断つ剣だ。だが、亡霊たちから発せられるのは殺意ではなく、信長自身の心が作り出した「哀しみ」だった。

     *

(……違う。これは魂の呪いなどではない!)

 格納庫の端で、アルテアはマイケル・ファラデーの『ロウソクの科学』の教えを脳内に高速展開していた。

 ——『宇宙のいかなる法則も、ロウソクの燃焼という物理現象の中に含まれていないものはない』。

 魔法もまた、この世界の法則の延長にある。

 アルテアの鋭い瞳が、空間に漂う鱗粉の動きと、亡霊たちの「影の落ち方」を解析する。

(死蛾の鱗粉は、空気中のマナを『可燃性ガス』として滞留させている。そして、ギアンの糸がそのガスに微弱な摩擦熱を与え、光の屈折率を操作している……。巨大な『蜃気楼レンズ』と同じ原理!)

 ならば、亡霊ホログラムを映し出している「光源」が必ず存在するはずだ。

「信長ッ!」

 アルテアの凛とした声が、怨嗟のノイズを切り裂いた。

「亡霊を見るな! それはただの『光の屈折』よ! 空気中のマナが、ロウソクの炎のように燃焼して影を作っているだけ!」

「……光の、屈折……」

「亡霊の足元を見なさい! 影の向きがすべて不自然に『一点』から伸びているはずよ! ギアンの糸が摩擦熱を生んでいる【焦点(光源)】……そこが、敵の急所リアルよッ!!」

 アルテアのデカルト的な「理性の光」が、信長の脳内の霧を晴らした。

 信長は、目を閉じた。

 視覚を捨て、亡霊の声(罪悪感)を意識の底に沈める。

 防大卒のエリート1尉・坂上信長は、死んだ。今、閉じたまぶたの裏で覚醒したのは、広島の裏社会を震え上がらせた暴走族の総長(親父)から受け継いだ、純粋で凶暴な『族の血』。

「……おう、おどれ。小賢しい手品じゃのう」

 信長が目を開いた。

 その瞳は、亡霊を一切見ていなかった。広島弁の低いドス声が、格納庫の空気を物理的に凍らせる。

「……何?」

 ギアンが、初めて動揺を見せた。

「アルテア。お前の頭脳アシスト、極上じゃ」

 ドンッ!!

 信長の足がコンクリートの床を粉砕し、弾丸のように前傾姿勢で突進した。

 亡霊たちが群がってくる。だが信長は避けず、その幻影の群れの中を最短距離で直線に突っ切る。

 亡霊の影が伸びる、その中心。

 空間が微かに歪み、陽炎のように揺れている『焦点』。

 そこには、光学迷彩で姿を消した巨大な死蟷螂デス・マンティスと、すべての糸を束ねて操るギアンの「左腕」があった。

「そこじゃァァァッ!!」

 信長の咆哮。

 北辰一刀流の闘気が、タクティカル・ナイフの刃身を青白く発光させる。

 それはただのナイフではない。音速を超える一閃。

 ギィィィィンッ!

 凄まじい金属音と共に、空間の歪みが真っ二つに裂けた。

 光学迷彩が解け、死蟷螂の首が宙を舞い、同時にギアンの左腕が肘から先で切断されて血飛沫を上げる。

 焦点(光源)が破壊された瞬間、格納庫を埋め尽くしていた亡霊の幻覚が、ガラスが砕けるようにパリンと消滅した。

「ガ、アァァァッ!? 私の、糸が……ッ! まさか、この『狂気』に理屈で辿り着く人間がいるとは……!」

 切断された腕を押さえ、ギアンは後ずさった。

 目の前に立つ男からは、先ほどの「迷えるエリート」の影はない。ただの、血に飢えた狂犬の眼差しだけがある。

「第1幕は終わりじゃ言うたのう、三流。……テメェの舞台は、ここで千秋楽じゃ」

 信長がナイフを逆手に構え、ギアンの喉笛へ向けて最後の一歩を踏み込もうとした、その時だった。

     *

「……そこまでだ、信長一尉。武器を引け」

 格納庫の入り口から、無数のフラッシュライトが信長を照らした。

 駆けつけてきたのは、外部からの手動オーバーライドで防爆扉をこじ開けた、自衛隊の完全武装の特殊作戦群だった。

 蘭が昏睡する直前に残した「予備システム起動コード」が、ようやく生き返ったのだ。

「チッ……」

 信長が舌打ちをした一瞬の隙を突き、ギアンは「素晴らしいデータでしたよ……!」と嗤いながら、自身の周囲に煙幕の魔導陣を展開し、空間の彼方へと転移エスケープして消え去った。

 残された格納庫。

 沈黙の中、特殊作戦群の隊長が、冷たい声で信長に報告した。

「……連隊長。厚生棟の爆発ですが、早乙女室長の残したスプリンクラーの自動起動コードにより、二次爆発は免れました」

「……そうか。生存者は」

「死者は出ませんでした。……ですが、多くの家族が重度の火傷と一酸化炭素中毒で意識不明。あなたの部下たちも……あなたに、強い不信感を抱いています」

 隊長の目には、明確な『軽蔑』が混じっていた。

 自分たちを見捨てて、敵国の女を選んだ冷血漢。それが、今の信長の評価だ。

「……分かった。後の処理は任せる」

 信長は言い訳を一つもしなかった。ナイフを鞘に収め、ただ一人、血塗れの背中を向けて歩き出す。

 その背中を、アルテアは静かに見つめていた。

 自分の命(国益)のために、100人の同胞を見捨てるという業を背負い、部下からの信頼を失ってもなお、この男の足取りは一切ブレていない。

(これが、国家を背負うということ……。坂上、信長。あなたは……)

 アルテアの胸の奥で、恐怖と、そして彼に対する戦慄にも似た『執着』が、確実に根を張り始めていた。

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