8 足跡
まだまだ空地の多い分譲地の一区画――建築業者が日参していると思っているうちに、通りに並ぶ家々とさほど大きく変わらない二階建てのこざっぱりとした家屋が完成していた。
自宅が分譲地の奥にあるため朝夕の出勤帰宅をはじめ出かけるごとに眺めるともなく眺めていた建設現場は、すっかり覆いも余分な資材もゴミも片付けられ――今朝は、真新しい門柱から玄関に続く白いコンクリート塗りのアプローチが陽光に眩しげだった。
「おや……」
覚えず足を止め、次いで笑みが漏れたのは――点々と続くそれを見つけてしまったせい。
門柱から玄関まで続く、肉球を持つ動物の足跡だ。
作為にしてはリアルかつ自然な足運びに見えるので、仕上げ作業のあとの生乾きの上をうっかり歩いた猫でもいたのだろう。このあたりで野良猫を見たおぼえはないが、猫を飼っている家はある――基本的には室内飼いだが、稀に脱走の話は聞く。
ともあれ、それをそのままアクセントとして残す家主であれば、付き合いづらい相手ではなさそうだ。持ち家となると近隣に不満があってもおいそれと引っ越すわけにはいかない。ほどほどに穏やかな関係を保てる一家であるならありがたい。
程なく越してきたのは、夫婦に子供がひとり――三人家族だった。詮索したわけではないが、一般的なご近所づきあいとして知れた情報としては、娘さんは中学生、奥さんは繁華街にあるブティックの雇われ店主、ご主人は週に一、二度、フレックス出勤する在宅ワーカーであるらしい。小洒落た服装と流行りのメイクでさっそうと出勤する奥さんに対し、ゴミ集積所などでたまに顔を合わせるご主人は、猫背気味で囁くような声で挨拶をする……決して人付き合いが悪いわけではないが、少々恥ずかしがり屋とみえる人物だった。
「それから、ペットを飼い始めたみたいよ」
スーパーで見かけたご主人の服に動物の毛がついていたと、目ざとい妻は言う。
さらに、一週間ほど前に、小動物を連れ歩くときに用いるキャリーバッグを挟んで老紳士と語り合うご主人を駅前で見たとも言う。
「きっと、譲ってもらったのね」
散歩をしている姿を見たことがないので、犬ではなさそうだが……猫かうさぎ、フェレットのような、いずれ小型で室内でも充分飼える動物だろう。他人としゃべることがあまり得意でなさそうなご主人も動物相手であれば案外饒舌なのかもしれない。それは、牧歌的で微笑ましい光景に思われた。
しかし、ひと月も経つ頃には、妻は眉を顰めがちになり近所でもみな一様に小首を傾げ始めた。
獣臭い――。
常にというわけではないが、住宅街を往来していると息が詰まるほどの獣じみた臭いがする。あの家が、発生源なのではないかと、見解は一致していた。
奥さんは、変わりなく出勤している――挨拶をする、その時には品の良い香水の香りがしていると感じるのに、時おり、立ち去った瞬間からギョッとするような獣臭が残っていることがある。おそらく、奥さん本人に自覚はない。
越してきた当初よりもいっそう家に引きこもりがちになっているご主人も同様だ。
動物を飼っていれば、多少は臭うものだとは思う――多頭飼いをすれば臭いも増えるだろうし、もしか不適切な環境で飼育を続けているならばなおさらだ。
それでも、まだ遠巻きに様子をうかがうに留まっているのは、事なかれ主義というものではなく――確証が持てないでいるからだ。
臭いの強弱に天候や風向きは関係なく、奥さんやご主人を目の前にしているその時に臭うわけでもないのだ。また、往来から伺見ることのできる家の様子も――時に、リビングの掃き出し窓が無防備に開け放たれていることもあるが、特に荒れているようには見受けられない。
理由のつかないちぐはぐさがあった。
付近の住民は皆、夏の日の長さに助けられながら、日暮れ前に急いで帰宅するようになり――暗くなってからは、少なからずいたはずのヤンチャな若者達さえ、おいそれと出歩かなくなっていた。
すっかり街路灯の点る刻限――やはり、週末とはいえ仕事を無理にでも切り上げて帰るべきであったと後悔するのは、突然、鼻と口を覆わずにはいられないほどの悪臭が周囲に膨れ上がったせいだ。
ほんの一瞬前までは、ただ昼間の熱を残した生ぬるいだけの夜道だったはずだった――あの家の前、区画の奥の自宅までいっそ走り抜けてしまおう……早足から小走りになりかかったところだった。
いや、それでも、そのまま駆け抜けてしまうつもりだった――それを、目にしてしまわなければ。
ぺしょり……。
現実には聞こえていないはずの、水音がした気がした。
ぺしょり、ぺしょり……。
目の前の門柱から玄関までのアプローチ、コンクリートに残された愛らしい足跡を踏み消すように、二回りも三回りも大きな獣の足跡がゆっくりと辿っていた。
姿は見えない。けれど、重々しい足取りだった。
足跡は、見ている間に玄関ポーチに到着する――扉までのもう二歩ほどの間をおいて、玄関扉の脇の外灯を含む、家の全ての灯りが消えた。
「ひ……っ」
あげそうになった悲鳴はしかし、口元を覆っていた手をさらに上から抑え込む手に呑み込まされた。
「静かに――俺が手を離したら、黙って家に帰るんだ」
駆けだしたら、振り向くな……背後から鋭く命じる声は、若かった。
「行くんだ」
開放され、一心に自覚を目指す――声の主を確かめたい気は、起きなかった。
翌日、夜明けから間もなく――住宅街に、サイレンの音が鳴り響いた。
赤色灯を点したパトカー数台と、黄色と黒の立ち入り禁止のテープ――野次馬に集まりながら、一様に蒼白な顔で黙り込む人々の隙間から覗き見る家の玄関先。
白いコンクリート塗りのアプローチには、玄関から門柱に向かう、大きな獣の足跡が赤黒く残されていた。




