7 あたらよ
彼は、孤独であった。
祖父は一代で財を成した実業家、祖母はかつて映画の主演を務めテレビドラマでも重要な役を任せられる女優であったという。家柄を恃みにするむきには、成り上がり者とそしりを受けることもあったようだが、実力はなにより強い――高級住宅街に大きな邸宅を構え、孫の彼には充分な教育の機会、文化活動に触れる機会を保障してくれ、何の不自由もない生活を与えてくれていた。
もちろん、決して冷淡でもなかった。興味のあるものはなにか、やりたいことはないか、欲しいものはあるか……顔を合わせる折々に気にかけてくれていた。
しかしながら、彼は孤独に育った。
身の回りのことは、家政婦が世話をしてくれた。学校の参観授業には誰も来なかったし、三者面談の際には祖父の契約した弁護士が同席した。
母に会うことは、忙しい祖父母に会うことより稀だった。
母は、彼のいない世界を生きていた。母は、彼を出産する際に、危うく死にかけた――なんとか一命はとりとめたが、その影響であろうと思われた。
父は、わからない。誰もはっきりとは教えてくれなかった。
他の縁者としては、伯母夫婦がいたそうだが――彼の生まれる前に、交通事故で揃って亡くなっていた。伯母夫婦の死の知らせにショックを受けた母は早産となり、それが難産の原因であったらしい。
母のこと、父のこと――祖父母も彼への接し方に迷うものがあったのだろう。
彼は、物事が見えてくる年頃になると、この家族の中で孤独であることは仕方がないと、受け入れるようになっていた。
物事を冷静に公平に見ることのできる賢い子供であったし、寂しさや悲しさを身をもって理解できるだけに、母や祖父母を思いやることのできる子供でもあった。
長じるにつけて、父はわからないのではなく――彼にとっての義理の伯父が父であり、母が横恋慕の果てに酔い潰した伯父を強襲して身ごもったのが彼であることに気付いてしまうほど聡明な子供だった。
にもかかわらず――。
なぜ、不思議に思うことがなかったのか……?
「今日の用事は、お前さんではないのだけど」
夜中に緊急搬送された母の運び込まれた手術室の前、家族としてひとり廊下のソファに残った彼の前に現れた和装の若者。
「お前さんが何も知らないままというのも……可哀想かと思ってね」
穏やかな声と優しい口調は、出会って二十年からとこ変わらない。色白で性別のわかりづらい品の良い細面、襟足でまとめられ背の中ほどまで流れる絹糸のような黒髪――背はそれほど高くはなく、すっかり成長してしまった彼より頭半分ほど低いだろうか? 白い夏物の着物に揃いの羽織を纏う姿も、一向に。
物心ついた頃から年に一度、夏の夜にふらりと現れる姿変わらぬ若者を――なぜ、今の今まで、不思議なものと感じることがなかったのか?
夜の早い幼少時は、夜中にふと目を覚ますと、枕元に姿勢よく座る若者が、団扇で風を送ってくれていた。ひとり庭先で花火を燃しているところに、一本もらえるかい…と現われたこともあった。夜更かしが苦にならなくなってくると、庭の端の東屋で夜風を感じながら、乞われるままに近況を話して聞かせるのがならいになり――そうしていると、夜が明けてしまうのが惜しかった。
年に一度、一晩限りの訪問は、孤独に過ごす彼の秘密の楽しみで――若者が誰であるのか、どこからやってくるのか……疑問を覚えたことは欠片もなかった。
「まぁ、わたしはそういうものだからね」
諦めたように笑む若者に、ぞくり…初めて背筋が凍えた。
「普段は、こんなこたぁしないんだが……お前さんが不憫に思えてしまってね」
母親は好きか……と、若者は問うた。
「死ぬか生きるかを言えば――このままいれば、お前さんの母さんは生きる」
びっくりするくらい、欲深い嬢ちゃんだ……首を振る仕草には、言葉の調子ほど困惑した様子はない。
「ただし、お前さんの寿命がまた持ってかれる」
むしろ、告げられた言葉に、彼の方が理解を求めて困惑した。
「それは、どういう……?」
「そのままの意味さ」
若者は、語った。
首尾よく彼を身ごもった母は、伯母の命を贄に、子供が無事に生まれることを願った――伯母が死に、子供が生まれ、伯父が自分の夫に収まることを目論んだ。
しかし、伯父は伯母と共に死んでしまった。
ショックで産気づいた母は、死の淵でそれでも再び願ったのだという――。
死ぬのは嫌!
腹の子の寿命をあげるから……!
そうして、一つ目の願いに子供は無事生まれ、ふたつ目の願いにまさに母の命だけが助かった。
「お前さんは、あの嬢ちゃんにとって、小出しにできる命の対価になっちまった」
そうでありながら、彼がここまで生き永らえたのは、母の心が壊れたがためとも言えるだろうか。
「死に近づけば、またぞろ嬢ちゃんは願うだろうねぇ――あれは、理屈でなく本能だものさ」
肩をすくめるでもなく淡々と語る若者の肩越しに、『手術中』のライトを見上げた。
彼は、ずっと孤独だった。
既に鬼籍に入って久しい祖父母は、それなりに良くしてくれた。
それでも孤独を感じたのは、やはり――母を求めていたせいかもしれない。
母に望まれ生まれてきたのだと、示してほしかったのかもしれない。
なるほど、確かに望まれていた……。
肩の力が、抜けた気がした。
「あんたに願えばいいのか?」
彼の疑問符に、若者はうっすら笑みを刷くことで応えた。
「俺の寿命を引き換えに、母を終わらせてくれ」
暗転するかと思った世界は、渦を巻いて歪んだ。
『よかったよ。お前さんが殺され損にならなくて』
遠く、若者の声がした。
『わたしもようやく手に入れられた……大事に使わせてもらうよ』
「終わりました……」
眠っていたのだろうか――肩を揺さぶられ我に返ると、屈み込んで顔を覗きこんでくる看護士の向こう、憔悴しきった顔の医師と灯の落ちた『手術中』のライトが見えた。
生きている……?
もちろん、若者の姿はなかった。




