28 西日
夏の遅い西日が差す。
昼の間に地表までたっぷり温められた外気は、そのまま一晩を越すことも珍しくなくなりつつあるが、それでも熱気に疲れ切った世界がしばし物憂げに停滞する時間。
人々の影は長くのび、誰もが眩しさから目を背ける。
人気のない建物のもほんの一時、部屋の隅まで照らし出される。
新興住宅地と市街地との境目にあるかつての小学校の校舎は、取り壊されることが決まり、立ち入りを制限するため厳重に施錠され、簡易的な措置ではあったがぐるりをフェンスで囲まれていた。
気持ちばかりの花束を手にした仕事帰りと思しき女性は、フェンスの数か所に貼り出されたラミネート加工された説明書きの一枚を前に、立ち尽くしていた。
「帰った方がいい。ここは、危険だ」
不意に、フェンスと説明書きに落ちる自身の影の隣にもうひとつ、頭一つ高い――シルエットからすれば男性の影が並び、低いが穏やかな声で退去を促した。
振り向いても逆光で顔はよくわからなかったが、ティーシャツにジーンズというラフな出で立ちの女性と同世代の青年と思われた。
「すいません」
謝罪が口をついたのは、青年を取り壊しを決めた役所か解体にかかわる業者の関係者だろうと思ったからだ。
「花を置いて行きたいんです……かまいませんか?」
おずおずと伺う視線に返事はなかったが、陰になった青年はしばらくを置いて首肯した。
「ありがとうございます。あの……在学中に同級生が階段から落ちて、亡くなって……それで」
小学校の統廃合で校舎が使われなくなってから年に一度、花を供えに来ていたのだと、女性は正面玄関に近いフェンスの足元に簡素でさりげない花束を置くと、短く手を合わせてから立ち去った。
その場に残った青年は、西日が遠くの建物に遮られ、校舎に日が当たらなくなるのを待って、ささやかな花束を拾い上げた。
日が暮れてしまうと、校舎の中はあっという間に暗くなる。特に、フェンスで覆われてしまった一階部分は、外からの明かりもなくすでに真っ暗だった。
「なん……なんで、こんなとこに……?」
「俺は、なにも……だって、こいつらが……」
「お前が勝手に……!」
本来ならば、物音ひとつしないはずの上階から、成人男子と思しき複数の足音と戸惑いの声が聞こえた。
青年は、暗い階段をゆっくりと上る。
経緯に興味はないが、建物の一画に複数人から流れ込む闇がわだかまっていたのはわかっていた。
口々に発せられる言葉に、後悔の気配はない。
二階を過ぎ、吹き抜けの白い壁に入り乱れるひと影にも内側から破り出ようとする闇は認められない。
かわりに、集まっていた数多の闇が、歪な光のない魂に吸い込まれてゆくように見えた。
「わぁぁぁぁぁぁ……」
ついに、悲鳴が響いた。
ごっ……。
続いて、重たいものを床にたたきつけるような、鈍い音がした。
あと一段で踏み出す踊り場に、おかしな方向に首を傾いだ成人男子がひとり転がっていた。
続いて、もうひとり……。
さらに、ひとり……。
そして、静寂が戻った――。
否。静かではあるが、無音ではなかった。
そろりそろりと、それは草履の足音だった。
『嘆かわしいねぇ……』
ため息交じりのそれは、ひとりごとだっただろう。
ゆっくりと踊り場まで下りてきた老人が、そこに青年を見つけてわずかに瞠目した。
襟足で束ねた髪は、真っ白になっていた。
もとより厚みのある身体ではなかったが、夏物の麻の着物の襟元から覗いた首は、侘びし気にやつれていた。
目尻や口元には深いしわが刻まれ、つるりと滑らかだった頬は乾き緩んでしまっていた。
けれども、青年には一目でわかった。
「ようやく、会えた……」
青年の母の死んだ夜以来、姿を消した若者――。
『もう会わないでいようと、思っていたのにねぇ』
老人は、間違いなく――遠い夏の夜に待ちわびた、あの人だった。




