24 爪先
彼女は、幼いころから姉が嫌いだった。
容姿も十人並み、さして賢いわけでもなく、ピアノもお琴も彼女の方が上手だったが、もたもたと練習をする姉ばかりがいつも褒められた。
上の子の失敗を見て小狡く立ち回っているかのように言われているのを聞いてしまったこともあるが、芸術的技術方面でどうやったらそれが発揮されるというのか。当時の姉を褒めそやす周囲の大人も莫迦ばかりだったのだろう。その証拠に、長じるとともに世界が広がると、彼女の優秀さを認め賞賛する声は広く大きくなった。
にもかかわらず、姉は悔しがることもせず――興味関心を広め深めるための投資を両親が厭わないのをよいことに、あれこれと自由気ままに手を出しては話題を増やし、常に周囲の耳目を集めていた。
彼女の方が優れているのに、人並みか少しばかり上手い程度の姉の方が、先に始めたと言うだけで注目される。反面、彼女が面白味を感じて手を付けたものに、姉は寄り付きもしなかった。
姉は、さほどの才能もない身でありながら、彼女を見下していた。
否、劣等感故に見下そうと必死になっているのだろう――そんなことをするくらいなら、彼女の前および彼女の関わる世界から消えてくれればいいのに。
目障りで仕方がなかった。
死ねばいいのに……。
さすがに品がないと控えていた言葉が胸に湧かずにはいられなかった。
これまで、異性の存在などおくびにも出さなかった姉が、結婚するのだという。
冷静に見れば姉と似合いの、不細工ではないが道行く人が振り返るほどのハンサムでもない、優しさだけが取り柄の特徴のない男だった。
にも拘わらず、姉は明らかに勝ち誇った笑みを――久しく視線も合わさなかった彼女に向けた。
結婚が女の幸せだなどという古い価値観に依って、彼女に先んじたと悦に入っているのだろうか。
そんなことで、彼女を負かしたつもりでいるのか。
思わず、死を願ったが、それではやはり姉が気の毒がられるだけで、姉自身が彼女への優越感にひたったことを悔いるわけではない。
さらには、姉の夫となる男が、彼女に義妹以外の価値を認めないでいることも彼女を苛立たせた。凡庸な男が、姉など雲泥ほど優れた彼女の容貌にまるで関心を示さない。それどころか、姉を見つめる男の目は、数多の男が彼女を崇める瞳に酷似していた。
壊してやる……。
姉も姉の夫も、身をよじり頭を抱えて恥辱に沈んでいくといい。
思いついてしまえば、方法は簡単だった。
姉自身は望んでいたようだが、姉夫婦はなかなか子供を授からなかった。
ならば、姉から夫ともに子供を取り上げてしまおう。
姉の夫は、姉の思惑など知らぬようで――義妹としての彼女を尊重することは、やぶさかないようだった。自身の身体の周期をはかり、姉が仕事で不在の折りに、相談と称して姉夫婦の住まう離れにあがり込み、酒に薬を混ぜて意識を奪うとリビングのカーペットに転がして、またがった。
すぐにばれてしまってはつまらない。誰にも止められなくなるまでは、姉の夫自身にも確信されない方がいい。
一晩中、嬲っておいてから、着衣を整え。酔って寝てしまったので、掛け物をして引き上げたのだと、翌朝説明しておいた。根が善良で義妹を疑おうともしない姉の夫は、思いのほか簡単に信じた。
やがて妊娠したことがわかり、両親は驚き狼狽えた。姉は、驚愕の表情を浮かべはしたものの、微かに頬に緊張を走らせた。
思うところがあったのかもしれないが、表立っては何も言えまい。
『お前さん、たいそうなものを腹に入れておいでだね』
産むと言い張れば、両親は未婚の彼女が出入りしても勘繰られることのない病院を手配して特別室を確保し、出産の数か月前から彼女を入院させた。両親の立場からすれば、さもありなん。彼女としても煩い外野を寄せ付けることなく気楽であった。
その若者とすれ違ったのは、すっかり重くなった腹を抱え、看護士に促された日課の日光浴を兼ねた散歩の途中だった。院内の中庭には遊歩道の通る洋風の庭園が整備され、彼女の他にも入院中の老若男女がぽつりぽつりと花を愛でたり、ほど良い木陰のベンチで寛いだりしていた。
和服姿の若者は色白で瘦身ではあったが、秀麗に整った顔にはやつれた気色はなく、襟足でまとめた黒髪の艶も健康的であったので、いずれかの入院患者の見舞い客かと思われた。
『たいした業だねぇ』
覚えず足を止めると、振り向いた若者はさも感服したと言わんげに目を細める。しかしながら、言葉と表情が合致しているとは言い難く――ぞわり…彼女は、暖かな陽光を浴びながらにして総毛立つ。
『無事に身ふたつにおなりよ。その子のためにはさ』
何事もなかったかのように立ち去る若者の口調は、しかし彼女を苛立たせるには充分で、同時に彼女は一瞬でも戦慄した自身を悔いた。
「必ず産むに決まってる」
ひとり、強く宣言する。
そうして、姉からすべてを奪うのだから。
しかしながら――。
姉夫婦の事故死の知らせを受け、怒りに視界が赤く染まった。
意識が浮上した時には、分娩台で悲鳴をあげていた。
許さない……。
この腹の子は、何のためだったのだ――逆巻く憤りに、医師や助産師が何をか喚いている声もわからない。
痛みのあまり目を開けていられないというのに、部屋のあちらこちらにわだかまる黒い靄が見えていた。
天井から落ちかかるいっそうに濃い影から先んじて何本もの腕が伸び、何本もの指を持つ歪な手のひらが彼女の膨らんだ腹に取り付いた。
痛い――。
彼女は悲鳴をあげる。
感触だけはなよやかですべらかな手のひらが、しかし似合わぬ力で腹に押し付けられる。
それぞれの手のひらの五本では足らぬ指が、ギリギリと腹に喰い込んだ。
邪魔をするな……。
彼女は、それを姉の手だと理解した。
姉が、子を奪おうとしているに違いないと。
渡すものか……!
姉が子供を得ることは、姉の夫を奪いきれなかった彼女に、さらなる屈辱をもたらす行為だった。
「これは、わたしが産むのだ――」
腹の中の生き物が震えるのがわかった。
産まれるのだと思う端から、手足が凍り付く――そこへ来てようやく、医師と助産師の緊迫した声が意味を成した。
「母体が、危険です」
『危険』すなわち『死』であると、思考する瞬間さえなく。
死ぬのは嫌……!
彼女は、呪いを吐いていた。
これの寿命をくれていい――わたしは、まだ死にたくない!
姉の消えた世界を生きないまま、死にたくなどなかった。
『本当に、業の深い……』
夜に白くそびえる建物を見上げる若者は溜め息を吐いた。
『手前の闇に、我が子の命を紐づけちまうかね』
建物の中のどこかの部屋で、弱々しいが新しい泣き声があがった。




