25 じりじり
(※強い嫌悪感を覚える方の多いネタかもしれません。通しで出ている登場人物たちの正体にはかかわらない話なので、飛ばしていただいてかまいません。)
男は飢えていた。
男は、母ひとり子ひとりの家庭で育った。幼い頃は、一間に簡素な台所のついたアパートの一室で、朝、仕事に出かけた母親が、夜に『まかない』を持ち帰るまで、ひたすら寝て待つ日々を送っていた。
ある頃から、母親は夜も出かけるようになり、抱き締められると骨が当たって痛かった母親の身体は少しだけふかふかになり、アパートに帰ってこないことが増えた。
男は、子供心にもそのうち母親が二度と帰ってこなくなる日が来るのだろうと思っていた。
けれども、ある朝――芳ばしい匂いに目を覚ますと、母親が台所で肉を焼いていた。肉は、『まかない』に入っていたものよりも分厚く、焼けた色も濃かった。その日は、小さく切った塩味の強い肉の入った米の多いお粥を何回かに分けて食べた。
夜遅くに母親は出かけ、翌朝には戻っていてまた肉を焼いていた。スリッパをはいた母親の足元には、これまで家にはなかったクーラーボックスがあった。
その次の日もそのまた次の日も、母親は同じように夜中に出かけ、連日、肉の入った料理を作って食べさせてくれた。
相変わらず塩味が強かったが、母親の手料理は美味しかった。
ほんの一週間ほどだったが、男にとって幸せな日々だった。
しかしながら、また母親の帰ってこない夜があって、その翌日、何人もの知らない大人がアパートにやってきた。大人たちは一様に泣きそうな笑顔を男に向け、そのうちのふたりに促されて車に乗せられた……のだと思う。そのあたりは、あのクーラーバッグを持って行こうとして引っ繰り返してしまい、大人達が大慌てをしたことの方が強烈で――次の記憶は、車の中に飛んでいた。
そのまま、アパートよりも綺麗な建物の綺麗な部屋に連れていかれ、今日からそこで暮らすのだと言われ、母親とはそれきり会えなかった。
そこは身寄りのない子供の面倒を見てくれる施設だった。
施設の環境に慣れ、共に住む子供たちとも会話するようになると、親のいなくなる前にご馳走を食べさせてくれたり一日中一緒にいてくれたりした思い出を語る子供が少なくなかったので、つまりあの一週間はそう言うことだったのだと男は思った。
施設で世話をしてくれた大人たちは誰もが優しく親切だったが、時おり、母親が……と言うより、母親のあの肉料理が恋しかった。
十八歳までをそこで過ごし、仕事を得て独り立ちした。肉卸し業者と提携した料理店で、まずは見習いとして料理人になる道に進んだ。
母親のあの肉料理をもう一度、味わいたかったのだ。
ところが、何年経ってもあの味は再現できなかった。
調味料の問題ではなく、肉そのものの味わいが違うのだ。
鶏や豚の肉ではないことは、焼き色で憶えていた。
熟成期間が必要なのだろうか、それとも――牛だけでなく、馬や猪、鹿なども試してみたが、どれも違った。
『母親の特別な味なぞ、思い出の中にあるものさね。お前さんは、追いなさんな』
客に出すメイン料理のいくつかを任されるようになる頃――帰宅途中の夜道で一時並んだ和装の老人の声は、思いつめた男自身の生んだ幻聴だっただろうか。
寝ても覚めても母親の肉料理のことしか考えられなくなった男は、やがて仕事を辞めた。上の空になったり、苛立ちのあまり当たり散らすようにもなったので、辞めざるを得なかったとも言えた。
男はひとり、ひたすらあの肉料理の味を求めた。
金銭の蓄えは瞬く間に尽き、遂に空腹に倒れた夜――男は、夢を見た。
母親が帰らず、大人達にアパートから連れ出される日の光景だった。
男は、持って行きたいものはあるかと問われ、シンクの足元に置かれていたクーラーボックスを持って出たいと思った。真新しいものだったので、もし捨てられたりしたらもったいないし、母親が残念がるだろうと思ったのだ。
ところが、クーラーボックスを持ち上げようとした途端、大人達は慌てた。慌てたあげくに、子供だった男の手から取り上げたクーラーボックスを床に取り落とした。
弾みで蓋が、開いた――。
ごろり……。
転がり出たいくつかの部位は、多少変色はしていたが、原形を留めていた。
男は、甲高い悲鳴をあげ――目が覚めた。
施設に引き取られた頃、地域の会社の重役が殺されたと、連日ワイドショーが騒いでいた。子供たちに悪影響だとそんな番組は見せてはもらえなかったが、それでも世間が姦しければ、子供であっても断片的に耳にする機会はあった。
「そうか。そうだったのか……」
あの肉は……。
男はまず、あの事件の重役と同じ年ごろと思われる働き盛りの男性で試してみた。
塩加減はあの頃のままとは言えなかったが――男は、確信した。
そして、虜になった。
女性や子供も試したくなった。
夜道をひとり歩く女性を探した。
『追い越してしまうなら、全て負うがいいさね』
いつかの老人の声を聞いた気がして顔をあげると、道の先で白い着物姿の老人が脇道を指していた。
駆け寄れば、消える。
しかし、示された先には、トートバッグを肩から抱えた女性の背中があった。地方から出てきたばかりだろう、後ろ姿からも垢ぬけない純朴そうな気配があった。
『派手においき』
促されるまでもなく、男は追った。
平均的な体躯の女性だ。背後から羽交い絞めにすれば捕まえるに難はない。
追いつき、襲い掛かる――女性が、とっさに振り向いた。
のど元に、衝撃と灼熱が走った。




