19 網戸
避暑地とされる別荘地は、夏でも日が暮れてしまえば冷房の必要はない。
彼は自室の灯りを点すと、網戸の備わった窓を開けた。
ぽろり、ぽろり……少し遠く、ピアノの音が聞こえる。夜とは言え、子供の彼でさえ寝るにはまだ早い時間ではあるし、この辺りに別荘を持つ人々は、そのうちのひとりが音楽家であることを光栄なことととらえている――非常識と怒る利用者のいなければ、それはもう習慣だった。
しかも今夜はどうやら、練習や弾き手ひとりの楽しみのためではなく、誰かを招いて腕前を披露しているようで、いつもよりも重厚な楽曲が聞き取れた。
いつか、夜も遅くまで起きていられるような歳になったら、自分も招待してもらえるだろうか? 彼はまだ、古めかしくも感じるピアノ曲が、誰がいつ作ったなんという楽曲なのか知らなかったが、そのひとの奏でるピアノの音は好きだと思っていた。
そのひとは、テレビで見る女優のように線の細い男性で、いつも長袖のシャツを着ていて、散歩のときは日よけの傘をさしていた。彼の知る限り、そのひとは、五月の連休の終わる頃には別荘地にやってきて、紅葉の季節までのほとんどを自身の別荘でピアノを弾いて過ごしていた。週に一度、清掃を請け負う家政婦さんが通っていたが、ほぼ半年をひとりきりで暮らしているらしかった。
彼は、入院中の母と仕事をしなければならない父と離れ、別荘地で土産物屋を営んでいる祖父母の元で暮らしていた。祖父母は優しくユーモアにも富んでいたが、やはり両親と離れていることを寂しく思わないことはなかったので、きっとそのひとも寂しいだろう……子供心に同情を覚えていた。
先に声をかけてくれたのは、そのひとの方だった。祖父母の店に立ち寄ったそのひとが、話し声を聞きつけて現れた彼に、挨拶をしてくれたのだ。
「こんにちは。僕は、夏だけやってくるひと達より、とても長くここにいるから、どうぞよろしく」
柔らかな声、ゆっくりとした口調――大人同士の挨拶よりは言葉を砕いてくれているとは感じたが、子ども扱いではない挨拶だった。
そのひとの住む別荘は、緩やかな傾斜に広がる別荘地の一番高い場所にあって、体力維持のための散歩が日課で、なおかつ趣味だと教えてくれた。散歩の時間は気紛れだったが、時々、おやつを持ってきて近くの野外ステージのある見晴らしの良い公園に誘ってくれることもあった。
いつも穏やかなそのひとは、散歩中に小さな声で歌を歌っていることがあった。
子守歌……いや、童謡のような、牧歌的で――いつまでも遊んでいる子供を家路につかせるような、囃し立て遊びに誘うような……心の急くような沸き立つような調べだった。
初夏から本格的な夏へ……移り行くうちに、彼もまたなにかの拍子にその歌を口ずさんでしまうくらい、馴染んでいた。
「僕のとっておきの歌だよ」
本当に特別な歌だから、内緒にしておいて欲しい……唇の前に伸ばされた人差し指は、白く長く美しかった。
ぽろり、ぽろり……いつもより力強く響くピアノの音を聞いているうちに眠ってしまった翌日だった。
夕暮れ時に見かけたそのひとは、ひとりではなかった。
小学生だろうか? 彼より三つ四つ年上に見える、色白のほっそりとした女の子のような顔立ちの少年といっしょだった。
店じまいの手伝いを終え、店の扉を閉める前にもう一度、表の通りを見回していた彼に気付かずに、ふたりは店の前を通り過ぎた。
囁くような声で揃って、あの歌を歌っていた。
扉に手をかけたまま佇む彼を少年が一度、振り返った。
ぽろり、ぽろぽろろ……その夜に聞こえたピアノの音は、いくつかの知らない音色が被せられてはいたが、あの歌の旋律のように思われた。
とてもひとりで弾いている音数には聞こえないので、テレビで見たことがある連弾というものに興じているのかもしれない。昨夜、招待されていた誰かが音楽家仲間であるとも考えるのが順当であっただろうが、その時、彼はとっさに夕方に見かけた少年の姿を思い浮かべていた。
とたん、彼自身にも説明のつかない焦燥感に背を押され、祖父母の家を抜け出していた。
夜の坂道をただただ駆けあがる。
『お待ち。お前さんにゃ、まだ早いよ』
お帰りな……制止する声に我に返らされると、彼は、道路脇の街灯も他の別荘の灯りもなくしかしぼんやりと白く浮かび上がる、そのひとの別荘の前に立っていた。
いつの間にか、ピアノの音も止んでいた。
『お前さんの身のためだ、お帰りな』
繰り返される声を振り返れば、祖父母たちよりは若いが両親よりもずっと年上だろう、白髪交じりの髪を襟足で束ねた和服姿の男性が立っていた。
けれど、その言葉に従えなかったのは――かちゃり…目の前の別荘の玄関から出てくる、あの少年を認めたせい。
再び彼自身を支配した焦燥が、嫉妬と呼ばれる感情であったことを――それでも、彼が知ることはなかった。
少年の脇を抜け、駆け込んだ室内の光景を彼は拒否し、その夜の全てを彼は忘れてしまったから。
くちゃり……。
中央にグランドピアノの鎮座するはずのホールは、ほんのりと温もりと鉄の匂いを漂わせる液体で壁も床も一面にてらてらと濡れてぬめっていた。
ぐちゃ……。
ピアノが見えなかったのは、巨大な影に隠されていたからだと気付く。
それは、犬だか狼だか、鼻づらの長い動物のように見えた。
二度三度開閉した――獲物を噛み裂く太い牙を持った大きな口には、白く長く美しい指を持つ腕が咥えられていた。




