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16 にわか雨


 彼は、妻を自分には過ぎた存在だと思っていた。

 文筆業を生業としている彼は、さる賞を受賞した際の授賞式と祝賀会に出席を求められ、一張羅を調達すべく編集部の担当に連れていかれたブティックで、妻になる女性と出会った。

 引っ込み思案で口下手な彼に、彼女は明るく話しかけ、おずおずと言葉少なな彼の言葉をよく汲み取ってくれた。普段活字は読まないと言うが、それだけに文筆業という職種を敬い、彼にも強く興味を示してくれた。

 その場限りの縁かと思えば、担当氏の計らいか授賞式当日のスタイリストとして再会し、彼女の側から連絡先の交換を求められ、店のダイレクトメールや広告掲載文章の相談を口実に食事に誘われ日帰り観光に誘われるようになり、半年後には彼女の方からプロポーズされ、翌年には娘が生まれた。

 娘が離乳食に移行する頃から段階的に妻は仕事を再開し、執筆が佳境に入るとき以外はおおむね彼が家の中のことを引き受け、適材適所、分担を時に手伝いあいながら上手くやっていた……と思っていた。

 いや、実際――上手く家庭内は回っていた。もちろん家計も順当に資金を蓄え、新興住宅地の一画に、中学生の娘の要望も交えた我が家を建てて引っ越すことも叶っていた。

 彼の仕事は今のところ安定、センスの良い妻は流行りの服を美しく着こなし揚々と仕事に通い、娘も学業成績はまずますではあるが非行に走ることなく無邪気で元気、新築のマイホームも持てた――いわゆる順風満帆な人生であるのだろう。

 だが、彼は気づいてしまった。いや、学生時分からひとり創作活動を続けていた彼は、描写のためと同時にいじめや冷やかしなどから身を守るため、人間観察に長けていた。だから、多少のぼせていたとはいえ、うっすらと感じ続けてはいたのだ。

 妻は、なにがしかの肩書のある男や見目の良い男にちょろちょろと目移りし、時に仕事の会合と称して男と泊りがけで出かける女だった。おそらく、彼と結婚したのは、ネームバリューと収入のバランスが最も彼女好みであり、なおかつ他の女に現を抜かすことがない、安全牌であったことが理由であろう。


 さらに、結婚後まもなく身ごもったであろうはずの娘の父親も――彼ではない。


 彼は人付き合いが下手で強い言葉や威圧的な声色を好まず、彼に悪意のない相手にはできるだけ好意で返したいと考えるお人好しであったが――けして、他人に盲目的に従属し利用されることを諾々と受け入れる人間ではなかった。

 毒殺がいいか、刺殺がいいか――血の繋がらないことを知らない憐れな娘はどうする?

 彼は、執筆の傍らで思案する。

 犯罪者として世間の見世物になるのは業腹だが、正直、完全犯罪などそうそう可能なものではない。それよりも、人間は日常にある階段から落ちたり廊下で足を滑らせるだけでも死んでしまうのだ――事故で死んでしまうなら、致しかたなくないだろうか。

 いや、それよりももっと――完全に彼のことを侮っているのだ、ご自慢の顔や四肢を傷つけ……少しずつ傷を増やし、怖ろしい思いを味わわせてから、命乞いをさせてはどうだろう?

 実行可能な方法を摸索したり、荒唐無稽な妄想に酩酊したり――。

 それでいて、仕事から帰り、彼の作った夕飯を美味しそうに平らげ、心地よさげな寝顔を見せる妻に、可哀想な性分に取り付かれた愚かな女なのだと、愛しくなったりもする。

 彼は日々、心を乱した。


 その老人と出会ったのは、新築した家に越してしばらくした頃だった。


『大きな猫を呼んじゃぁどうだね?』

 好々爺然とした穏やかな声が、後から思えば驚くほどはっきりと彼の耳に届いた。

『お前さんの家は、玄関先に猫を呼ぶ(まじな)いがついているもの、ちょうどいい』

 振り向くと、和装の老人が小動物を運ぶ時に用いるキャリーバッグを抱えて、彼を待っていた。品の良い顔立ちに和やかな笑みを浮かべた、豊かな白髪を束ねた老人だった。

猫を呼ぶ呪い(・・・・・・)とは、玄関まえの足跡のことですか?」

 彼の家の門柱から玄関までのアプローチには、施工中に生乾きのコンクリートの上をどこかの猫が歩いてしまったらしき足跡を残してあった。

『そうさ。あれなら、お前さんの呼ぶ猫もきっと喜ぶ』

 呼ぶ、とは?……問い質したかったが、気がつけばキャリーバッグを受け取っていた。

 てっきり猫が入っているものと思ったバッグは、予想に反してまるで軽く――空だった。

『充分に育つまで、隠れる場所が必要だろう? 持って帰っておあげ』

 その後、どうやって家に帰ったかは、覚えていない。


 キャリーバッグは、リビングの壁際のソファーの裏に置いた。

 その夜は、妻はまた研修(・・)だとかで外泊だった――夜遅くまで、書斎であがってきた校正のチェックをしていたが、未明に座ったままうつらうつらしてしまったらしい……足元をするすると猫を思わせる温もりと肌触りがすり抜ける感触を夢に見た。


「野良猫でも入ってきてるんじゃない?」

 最初に顔をしかめたのは、中学生の娘だった。

 帰宅するなり、着ていた制服に鼻を寄せ、また室内の虚空で鼻を鳴らし、腑に落ちない顔をしてから長時間風呂を使い――翌朝から、部屋を出なくなった。

 妻は、そんな娘を心配するでもなく、いつも通りに仕事に向かう。

 彼もまた、学校で何か言われたのだろうかと思いはしたが、本人の言い出す前に干渉されたくない年頃だ――食事だけは用意して、娘の判断に任せることにした。部屋の前に届ける食事は、一時は手付かずなこともあったが、三日ほどすれば舐めたように綺麗な食器が戻されるようになった。


 あれ以来、見えない猫に触れられる夢をよく見る。

 行儀よく玄関から入ってきて、眠る彼の周囲を伺い、身を摺り寄せ時には頬を舐める。

 温かくまとわりつくそれを感じると、優越感に似た自信を覚えさせられた。

 猫の夢を見ると筆は進み、同じだけ妻は妄想の中で八つ裂きになった。

 興が乗ったので、依頼されている原稿とは別に、慰みの短編を書いた。『にわか雨』と題したそれは、にわか雨のような通りすがりの恋を繰り返す女が、男たちの復讐を待つでもなく自ら破滅していく物語だった。


 あぁ、そうだ……破滅は、いいものだ……。


 書きあげた夜から、夢の中の猫は日増しに大きく感じるようになった。

 相変わらず姿は見えないが、そろそろ猛獣と呼ばれるくらいに育っていまいか。

 その頃には、妻ばかりか彼自身までが、獣に屠られる姿を思い描くようになっていた。


 やはり、ひとり逝かせるのは可哀想だ。


 共に逝ってやろうと思った。

 獣の腹の中で、ないまぜに溶かされてしまおう……。


 妻が帰宅する。

 そして、大きくなった夢の中の猫も――今夜も玄関から入ってくる。



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