14 浮き輪
夏休みを一週間ほど前にして、担任しているクラスの生徒がふたり減った。
ひとりは、増水した用水路に転落し海に流されて、数日後に死体が上がった。
もうひとりは、死んだひとりの告別式のあった日――帰宅後、二階の自室からいなくなり、いまだもって見つかっていない。
事故死と自宅からの行方不明……彼としては、残された生徒の動揺に配慮を求められはしたが、いじめや素行不良の報告はなかったため管理職からも保護者からも監督責任を問われるようなことはなかった。
事故死した生徒は、そこそこの成績ランクを保った、おとなしく真面目な生徒だった。一度、体育の教諭からもしかしていじめを受けているのでは?…と打診されたことはあるが、朝夕のショートホームルームに見る限り、ひとりでいるその生徒を何組かの親しいグループが競い誘ってじゃれているばかりであり、逆に人徳があるのだと微笑ましいものとして眺めていた。
行方不明になった生徒は、事故死した生徒と比較的頻繁に遊んでいたグループのひとりで、告別式にも率先して参列していた。クラスでもグループでも取り立てて目立つ生徒ではなかったので、登校しなくなってもクラスでの動揺はさほど広がらなかった。ただ、グループの生徒たちがぽつりぽつりと休みがちなことは気にかかったが、やはり友人として心配であるのだろうと、もう数日のこと、そっとしておくことにした。
夏休みの期間があれば、やがて落ち着くだろう。
他のクラスメイト達も夏季休暇始まってすぐの臨海学校に参加すれば、心身の健康を取り戻せるものと、彼は期待した。
臨海学校は学年行事として行われ、原則は全員参加だった。
しかしながら、彼のクラスは行方不明の生徒と親しかったグループの他にも十数名が保護者を通じて不参加の届けを提出し――かれこれ、半数の参加にとどまった。
他クラスの担任や同行した管理職は、致し方ないことだと彼の肩を叩いたが、彼はいささかの苛立ちを覚えていた。
死んだ人間は返ってこないのだから、いつまでも引きずって日常生活に支障をきたすのはよろしくない。行方不明の人間も同様に、学生身分の未成年があれこれ悩んでも解決するわけではない。保護者が警察に届け出て、捜査を依頼しているのだから、そろそろ学生は学生の本文に戻ろうと努力するべきではなかろうか。
彼は、前夜まで参加を促す電話をして回ったが、半分ほどが海は嫌だと言い、残りのうち三分の二は部屋に引きこもり電話口に出ることはなく、三分の一は家ぐるみでついに電話の繋がることはなかった。
彼は、不満だった。
さらに、臨海学校二日目には、彼のクラスの生徒はぐずぐずと海に入るのを渋るようになった。中には浜辺に集合することも拒否し、宿舎から出るのを嫌がる生徒もいた。二、三人、具合が悪いと言って部屋に籠ったり保護者への連絡の許可を求めてきたりした生徒もいたが、それもおそらく仮病であろう。
怠学を嗜め、不参加による出席日数と単位数について説明し、ともかく日を浴びろと宥めすかして連れ出した生徒たちも遠泳の練習に入るや、誰かが足を触るのだと騒ぎ始めた。波の感触に慣れないせいか、なにかゴミでも漂っていた程度のことに違いないのに、あまりに騒ぐので、他クラスから奇異を目を向けられてしまうほどだった。
挙句、彼のクラスの生徒たちは全員、危うく溺れそうになる者まで出しながら途中で浜に引き返してしまい、付き添って泳いでいた彼もまた慌てて引き返す羽目になった。
事故死した生徒が、沖から自分たちを見ている。
生徒たちは口々に訴えた。
溺れそうになった何人かは、足を引っ張られたのだと言った。
あぁ、なるほど……。
大人の彼が思っていた以上に、クラス一同仲良しだったのだ。
ひとりが死んでしまったことを全員、認めたくないほどに。
そう言うことか……。
「先生が、気付いてやれなかったんだな……」
生徒たちを宿舎に戻らせ、夏季休暇中の課題を終わらせるよう指示して大人しくさせたが、その夜の引率者たちの報告会で、彼は管理職から叱責を受けるに至った。
最終的に、彼のクラスの生徒は臨海学校を切り上げ、予定の日数を学校に登校させてはどうか――イレギュラーな対応が、彼の発言する暇もないほど矢継ぎ早な意見交換の上に検討され始めた。
「きゃーっ!」
複数の女子生徒のものらしき悲鳴が響いたのは、その最中だった。
駆けつければ、男女問わずわあわあと喚きたて、廊下に数名固まって蹲る者、部屋の中でへたりこんでいる者、青い顔をして震えながら窓に貼りついている者――騒ぎの元は案の定、いずれも彼のクラスの生徒たちだった。
いい加減にしてくれ……!
他クラスの生徒や教員たちの胡乱な視線にさらされながら、なんとか意味のある言葉を聞き取ってまわれば、夜の海を事故死した生徒の顔が飛び跳ねているのだと言う。
そんな、荒唐無稽な話があるわけがない!……彼は、腹立ちまぎれに夜の浜へと駆けだした。
夜の海は、波音が響くばかり――揺れる波頭が、ちらちらと月明りを弾くばかりだった。
何も……何も見えるはずがない……。
それでも凝らした視線の先――ぱしゃり…海面から跳ね上がり、ばしゃ…海中へと戻っていく、魚というには大きすぎる影を認めてしまった。
ばちゃ……。
ぱしゃん……。
人肌のような白い顔が髪をなびかせている。
ぴちぴちぴち……。
それでも、中空に飛び出して振るわされる身体は、楔形の尾をもつ紡錘形のシルエット――確かに、魚のように見えまいか。
「そんな……」
一歩二歩、覚えず踏み出した足は、波に掬われる。
「うわ……っ」
しかし、倒れ込んだ背中は、波打ち際の砂の上に落ちることなく――そうと気付いた時には、するすると沖に向かって流されていた。
彼は藻掻く――昼間、離岸流への対処方法を生徒たちに教えていたはずだが、そんなことはすっかり忘れ去られていた。
浮き輪……?
暗い海の中、ふわふわと漂うほの白いドーナツ状の物体が見えた。
一般の海水浴客の忘れた浮き輪かもしれない……九死に一生とばかり、手を伸ばす。
輪に腕をかけると、ようやく頭が海上に持ち上がる。
月の明るい夜空が見えた。
ほぉ…大きく息を吐いた瞬間、安堵する間もなく彼の身体は宙に浮いていた。
咽喉が引きつり、悲鳴も上げられなかった。
腕を絡めた輪に引き上げられているのだと理解した時には、足もとに巨大な口が出現していた。
いぼいぼとした突起物に覆われた巨大な深海魚の頭部から伸びる釣り竿のような誘因突起の先端に掴まっていたのだと意識する間もなく、彼は驚愕とも恐怖とも判別できない感覚に腕を滑らせていた。
奈落のような巨大な口へと落ちて行く彼を数多のいぼに浮かんだ顔が見つめていた。
そのうちのひとつは、行方不明の生徒に似ていた。
「莫迦ばっかり」
砂浜を立ち去る小さな人影があったことは、誰も知らない。




