13 牙
まただ……。
ニュースサイトを開くと、彼女の住む町での何度目かの通り魔事件の記事とその続報がトップに相次いでいた。
首から血を流し、失血死――。
被害者に共通項はない。塾帰りの女子高校生、遅い時間に帰宅するサラリーマン、夜中のジョギングを習慣にしていた男子大学生、朝帰りに近い時間に帰路をたどる接客業の女性――年齢も性別もまちまちで、強いてあげる共通点は、日が暮れてから翌朝までの間に災禍に見舞われたとみられることだけ。
遡れば、何年か前から一年、半年、三か月、少しずつ頻度をあげながら、似たような事件は起こっていた。ただし、人権現場は広範囲に散らばり、それぞれ別の因果を持つ事件であろうと思われていた。
ところが、今月に入ってから急に事件の発覚が相次ぎ、さらに彼女の住む町やその周辺で頻繁に発生するようになってきていた。SNSでは、「現代の切り裂きジャック」と興味本位に騒ぎ立てる層と真剣に恐怖し安全確保を呼び掛ける層とに分かれ、一部に言い争もが起こり、ワイドショー番組や週刊誌も連日、発表された事件のあらましを元に有識者から集めたコメントをもっともらしく公開していた。
最新のニュースに載った被害者は、製菓系の専門学校に通う女子学生であるらしい。被害者の顔写真にも事件現場にも心当たりはない――しかし、それだけに彼女は眉を顰め、嫌悪感にひとつ背を震わせた。
いったい誰がそんなことを……?
数年前まで、日が暮れてから出歩くのは怖かった。子供のころは、単純に暗いことが怖かっただけだったが、長じるに従い女であると言うだけで脅かされる安全というものを感じるようになった。
もちろん、男であれば安全というものでもなく、また性別を問わず金品を狙う強盗じみた輩もいるだろう。誰でも注意するに越したことはない。しかしながら、体格や筋力における性差は確かに存在し、そこを弱点として付け入る悪意を否定することもやはりできないだろう。
だから、彼女は――親元を離れ、ひとり暮らしを始めるにあたり、お守りを持つことにした。
それでも当初は、夜道を歩く際には緊張しないではいられなかった――。
夜間の外出が、彼女にとって恐怖でなくなったのは、数年前のあの夜があったからこそ。それからはむしろ、楽しみだったと言うのに……。
早く捕まってよ……。
老若男女無差別に襲い掛かる殺人鬼が徘徊していては、夜歩きを楽しむことができない。
お守りがあるので、かつてのような恐怖心はないが、数少ない娯楽を汚されるような不快感を彼女は覚えた。
だので、しばらくの辛抱――必要のない限り日暮れ前には帰宅するようにしていたのだが、無理をしないつもりでいれば、残業を引き受けてしまう日もなくはない。いや、もしかしたら、そろそろ言い訳が欲しくなったのかもしれないが。
最寄り駅の改札を出ると、単身者向けのアパートの多い住宅街に足を向け、ゆっくりと歩き出す。昨今のニュースを知っていた上司は、タクシーを使うように…とポケットマネーからいくらか渡してくれていたが、彼女にしてみれば大きなお世話だ。
何を期待するわけでもない、ただのんびりと暗い道を歩く解放感を味わえればいいと思っていた。
「いい加減にした方がいい……あれを呼び寄せているのは、あんた自身だ」
駅からまっすぐのびる道、車通りの多い道との交差点の横断歩道を渡り切ったところだった。落ち着いているが、若い男の声だった。大きな声ではなく、擦れ違いざまではあったが――確かに、それは彼女に向けられていた。
「なに…を……?」
しかし、振り返った横断歩道にもその向こうにも人影はなかった。人通りはまばら、皆無ではないが、すぐ脇を通り過ぎた質量と空気の流れを即座に追いかけられたはずの範囲には、それらしき青年も他の誰をもいなかった。
気のせいとは、思えなかったが――彼女には、若い男の声であったことが腹立たしかった。
わたしは、悪くないのに……!
怒りに逸りそうな足取りを無理におしとどめ、ほんの少しだけ不必要な回り道をしながら家路をたどる。
それならば、いっそ――久しぶりの夜歩きの成果を得たかった。
肩にかけたトートバッグ、脇のファスナーからいつものお守りに手を振れ、電灯のまばらな小道に入り込む。
ハァ…ハァ……。
耳を澄ませば、間もなく――湿った荒い息づかい。
明らかに近付いている……視線も感じる。
彼女は、お守りを逆手に握った。
あの夜まで、いくらなんでも自分にそれが扱えるとは思わなかった。
けれど、思い切りさえすれば――平均的な成人女性の体躯、身体能力しか持ち合わせない彼女にも身を守ることは簡単だった。さらには、その確実な一撃で、彼女より上背も体重も筋力も勝る存在が、ヒューヒュー…と憐れな悲鳴をあげながら息絶えていく様をとっくりと眺めることさえできるのだ。彼女はその時、命を左右できる優位の快楽を知ってしまった。
わたしは、無差別殺人鬼とは違うもの……。
彼女は、あくまで彼女を食い物にしようとする者から身を守っているだけであり、また彼女以外の誰かの尊厳が踏みにじられるのを防いでいるのだ……と、自負していた。
ハァ……ハァ……。
生暖かい気配は、少しばかり獣臭い気がした。
やだ……。
生理的嫌悪感に顔をしかめた時――。
ばさり……。
羽音――。
「え?」
戸惑いは、押し寄せる獣臭よりもはっきりと――振り向いて目にする、黒々とした巨大な影を瞬時にそれと認識できなかったせいだった。もっとも、理解できてもなお戸惑わないではいられなかったが。
舞い降りた飛膜。頭部と思しき丸みの上部に大きく伸びる一対の山型は耳だろう。わずかな光を集めてらんらんと光る瞳もやはり一対。短いが突き出した鼻づら――それから。
獲物に襲い掛からんと、開かれた口に並ぶ牙――中でも大きく太い犬歯。
悲鳴をあげる間はなかった。
ぶちり……代わりに、咽喉が嚙みちぎられる音がした。
彼女の手から、サバイバルナイフが転がり落ちた。
翌朝、首から血を流して倒れているところを発見された彼女は、既に失血死していたと――報道された。
それから、ぱたりと事件は収まった。




