10 突風
疲れたなぁ……。
自分にとって好き嫌いのある分野でなく、勤務体制も無理はなく、ほどほどに給料も休暇ももらえる――不況のささやかれるご時世に、まず悪くない職に付けたはずだった。
外回りの男性陣は、まれに怪我をして労働災害として保険給付の対象となることもあったが、彼女の場合は内勤なので、時おり依頼人との面談に同席したり、上司や同僚のセクハラに適当に応じておけば、きつくも汚くも危なくもない職場だった。
いや、服が汚れることはあるか……。
それでも、着替えは買ってもらえるので、悪い気はしていない。
そこそこの都会に女ひとりで生活するのには充分で、月々わずかだか貯金ができるくらいであれば、贅沢なくらいだろう。
とはいえ――。
今日は、疲れちゃったな……。
事務所に押し込んできておいて泣き崩れる女性を宥めて落ち着かせて、愚痴をたっぷり聞いてやってから帰してやった。聞かされた話を教えて欲しいと、上司から会議室に呼ばれ、その後、入れ違いに外回りから帰ってきた同僚と後輩をふたり続けて労った。豊富な経験を持つ同僚にしても若さが自慢の後輩にしても、やはり気苦労が多いらしい。それから、事務所を訪れる依頼人の説得に協力し、担当者と上司を交えて対策を協議した。
そこまではいつも通りだったが――上司に再び呼ばれると、今日は若い女性を紹介された。新しく採用された事務職で、しばらくは彼女の補佐として仕事を教えるようにとの指示があった。流行りの化粧をした、ちょっと可愛らしい女性だった。
さらに、定時で退勤しようとしたところ――エレベーター前で、少し前に退職した職員の妻を名乗る女につかまり、女子社員というだけで誰何もされずに頬を叩かれた。
ヒステリックに叫び暴れる女は、駆けつけた警備員に取り押さえられ、彼女はしばらく頬を冷やしてから、改めて退勤した。
おかげで、この季節であるのに、職場からの最寄り駅のホームに立った時には、日が暮れてしまっていた。
なによ、もう……。
就職してそろそろ五年、賞味期限切れとでもいうのだろうか……新しく採用された女性が仕事を憶えたら、解雇されそうな予感がした。彼女の時は、前任者は熟年と称される年齢に達しよう女性であったが。
そのうえ、もう辞めた職員のつけを彼女だけが払わされ――女にぶたれ詰られた。
損ばっかじゃん……。
いつもがいつも面白おかしい日々を過ごしていたわけではないが、今日ばかりは不貞腐れて、誰かに八つ当たりしたい気分だった。
『そうかい。疲れちまったかい』
すぐ耳元でささやかれて顔をあげると、ひとつとなりのホームドアの前に立つ老人と目が合った。白っぽい夏物の着物を纏い、真っ白な髪を襟足のあたりで縛った、品の良さそうなまだまだ姿勢の良い老人だった。
『お前さんも大変なんだねぇ』
声を張り上げているようには思えない、耳に届く声は確かに細やかだ。にもかかわらず、その老人が語りかけているのだとしか思えなかった。
『生涯、一遍くらい……騒ぎ散らしてみるのもいいかもしれないねえ』
事務所に乗り込んできた女性も彼女の頬を叩いた女も迷惑としか思えなかったが、手間をかけさせられ実害を被った身としては、他人にそれだけの疲労感を与えられるなりふり構わなさは、ちょっとした羨望を覚えさせなくもなかった。
熱意をもって入った仕事ではなかったが、それなりに誠実に応えてきたつもりだった――仕事にも上司や同僚にも執着はなかったが、五年で使い捨てされると思えば癪に障った。都合よく使っておいて、彼女だけが罵られたのだ。
むなしくなった……。
『虚しいままで空しく終わるのは業腹じゃないか』
その通りだと思った。
この際だから、迷惑くらいかけてやろうと思った。
『お疲れだったねぇ』
入線のアナウンスに紛れて、老人の声が不思議と温かく胸に響いた。
ホームドアは、まだ開かない。
突然の塊のような風を感じたのは、彼女だけだった。
その荒々しさは、彼女の身体を放り投げる。
ホームドアの向こう――線路の方へ。




