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あれから、慌ただしく時は過ぎていった。

旅立ちの朝、グレゴリー兄さんは私たちのために上等な馬車と、十分すぎるほどの路銀を用意してくれていた。

「行ってこい! 寂しくなったら、いつでも俺の胸に飛び込んできていいからな!」と、門の前で大げさに両腕を広げて抱擁を迫る兄を、ハル様は「うっとうしい」とばかりに綺麗にかわして馬車へと乗り込む。

私は居たたまれなさと可笑しさが混ざった複雑な気持ちで、「大変お世話になりました」と出発の挨拶を告げ、ハル様の後を追った。

パカパカと小気味よい蹄の音を立てて、馬車が走り出す。

車窓から流れゆく見慣れた景色は、私の心境のせいか、ほんの少しだけ違って見えた。

これから始まる新しい生活への期待に胸が膨らむ反面、私の心には小さなおりのような不安が広がっていた。男装を解き、一人の「女」として、旅をしながらこれからもハル様を守り続けることができるのだろうか。何があっても、私の命に代えても、あの美しい歌声を、彼自身を守らなければ――。

知らず知らずのうちに、私は膝の上で両手をきつく握り締め、思い詰めた表情をしていたらしい。その張り詰めた空気を敏感に察したのか、正面に座るハル様が、窓の外を見たままぶっきらぼうに声をかけてきた。

「……お前は、ただ僕の側に居ればいいんだよ。それがお前の務めだろ」

一瞬、納得のいかない答えに首を傾げそうになった。けれど、「余計なことは考えずに、僕を信じて隣にいろ」という彼なりの不器用な気遣いだと気づいた瞬間、カチコチに固まっていた私の心は、不思議とすうっと和らいでいった。

馬車に揺られること半日。夕暮れが街を黄金色に染める頃には、私たちは目的の「職業登録所」がある活気溢れた街へと到着していた。その日は無理をせず、こぢんまりとした宿を取って一夜を明かす。

翌朝、私たちはさっそく街の中心にある立派な登録所へと足を運んだ。

清潔感のある受付で、朗らかな女性職員から手続きの説明を聞いていた、その時だ。

「悪いな、待ってたんだ。他のやつにやらせると、ろくな仕事をされかねないからな」

横からぬっと、低く気怠げな声が割り込んできた。

見れば、着崩した制服を纏った、目つきの鋭い男が立っている。受付の女性職員は男から何かを耳打ちされると、「あぁ、この方たちでしたか」と納得したように深く頷いた。

男は木製の重厚なカウンターに肘をつき、私たちを品定めするように見つめる。

(ずいぶんと雑な登録所もあるものだな……)と私が内心で眉をひそめていると、男は「さっさと済ませるか、登録」とぶっきらぼうに手招きし、建物の奥にある別室へと私たちを案内し始めた。

「あんたクラスの逸材なら、わざわざ登録所になんて来なくたって、いくらでも裏から仕事は入ってくる。だが、ここで正式な試験を受けて登録をしとけば『付加価値』がつく。身分の証明にも実力の証明にもなるからな。持っておいて損はねぇよ」

男は前を歩きながら、ぶつぶつと独り言のようにつぶやき続ける。

「だが、これの更新は3年に1度だ。低い価値をつけられちゃ、うちの面目にも関わる。……ったく、あんたの兄貴は本当にマメなこった。わざわざ俺を指名して、最高責任者に審査をしろってんだから、おかしなもんだぜ」

男の言葉の端々に、グレゴリー兄さんの影が見え隠れする。

(うちの一般職員はみんな優秀だ。普通に審査を受けさせても、あの弟らの能力は嫌でも高く評価されるだろう。それをわざわざ『俺』に直接やらせるってのは――あいつ、一体何を隠してやがる? 見せちゃいけない力でもあるのか? それとも、隠して欲しいのか、高く買って欲しいのか……どっちかハッキリ言っとけよ、あの溺愛ヤローめ)

そんな男の内心の愚痴など知る由もない私たちは、案内された部屋の扉をくぐった。

そこは、一見するとただの雑多な倉庫のようだった。

部屋のあちこちに観葉植物が置かれ、小鳥の籠や、魚の泳ぐ水槽がある。壁際には枯れかけたつるが伸び、統一感のない椅子が散らばって置かれていた。

だが、埃一つ被っていない。隅々まで完璧に掃除が行き届いているその異様な空間に、男のプロとしての底知れなさが垣間見えた。

「ちょっと気が散るかもしれないが……ここで、ちょこっと歌って貰えるか?」

部屋に入った瞬間、男の気だるげな態度が消え、鋭い『審査員』の雰囲気がピリリと立ち上った。どこか胡散臭さは残るものの、その目は本物だ。

男は適当な椅子にどっかりと腰掛けると、指先で私に「お前はそこに座れ」と指示を出した。私は男の正面にあるスツールに腰掛ける。ハル様と男のちょうど中間に位置する、有事の際にすぐ盾になれる位置だ。

ハル様は小さく息を吸い、指示通りに一曲、歌い出した。

瞬時に、いつものようにハル様の美しい音色に包まれていく空間。

完全に締め切られているはずの部屋なのに、なぜだか頬をそよよと撫でる心地よい風を感じる。私はその歌声に耳を澄ませていたが、ふと、隣から衣服の擦れる不快な音が聞こえてきた。

(ハル様が真剣に歌っているのになんだ!)と一瞥すると、男はズスッ、と椅子の音を大きく立てて立ち上がり、あろうことか、歌っているハル様を横目に壁伝いに部屋を歩き回り始めたのだ。

(何て失礼な男だ……!)

ハル様の美しい眉がピクリと跳ね上がるのが見え、私はヒヤリとした。それでも歌声は途切れることなく流れ続ける。だが、歌えと言った当の本人は、まるで嫌がらせかと思うほどハル様の歌を聴いていない。

部屋の観葉植物の葉に触ったり、水槽を覗き込んだり、挙句の果てには、座っている私の顔を至近距離でジロジロと覗き込んでくる始末だ。私は怒りを込めて、思いっきり睨み返してやった。

そうこうしているうちに、ハル様は一曲を歌い終えてしまった。

それなのに、男はまだ入念に部屋の様子を観察し続けている。その態度に完全に呆れ果て、私がキレ気味に「……どうしたんですか?」と問い詰めようとした、その時。

「――マジかぁ」

男が、ぽつりと頭を抱えて呟いた。それはこっちのセリフだ。

男はしばらくの間、信じられないものを見たというように頭をガシガシと掻きむしるばかりだった。

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