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〜モリテ〜 痛み分け回復師  作者: 高星 舞
ルーファス家編
27/30

響きの門出

グレゴリー兄さんから注がれた、溢れるほどの温かい熱。それを胸に帯びたまま、ハルは昂る気持ちを落ち着けるべく、静かに階段を上って最上階のバルコニーへと向かった。

手すりに近づき、眼下に広がる広大な景色を見つめる。

もしかしたら、この見慣れた光景を目にするのは、これが最後になるのかもしれない。そんな予感を覚えながら、ハルはこの屋敷に“軟禁”され始めたばかりの数ヶ月前――このルーファス家に買い取られてきた頃の記憶を静かに思い返していた。

いつものごとく、僕を希少な「飾り人形」としてしか扱わない、欲深い貴族たち。

あちこちの領地を連れ回され、持ち主が転々とする日々の果てに、僕を取り巻く環境は目まぐるしく変わっていった。ここが何件目の家だろうか。ある時から、数えるのをやめた。数えたところで、自分の存在の惨めさが浮き彫りになっていくだくだから。

人々は僕の力(魅了)を求めてすり寄っては離れ、僕はその鬱陶しさに引かれては彼らを遠ざける。その繰り返しだった。

でも、このブレンダン伯爵の屋敷へ来た時は、今までの場所に比べれば「少しだけマシ」な気がした。

なぜなら、僕を買い取った伯爵自身は、僕の魅了の魔力に溺れた狂信者ではなかったからだ。彼に僕への愛はなく、ただ淡々と、自身の権威を高めるための『道具』として僕を酷使した。愛されない寂しさはあったけれど、あの気味の悪い執着がない分、まだマシだと思えた。その孤独の中で、僕の魔力はより純化され、内側へと深く圧縮されていった。

変化が訪れたのは、ある時、気まぐれに敷地内だけの外出許可が出たことだった。

外出と言っても、厳重に囲われた庭園と、裏手に広がる深い森の中だけ。それでも、冷たい部屋から出て、外の空気を吸えるのはありがたかった。

もとより僕は、大地や自然、そして言葉を持たない動物たちが好きだったから。

木々の間に隠れる彼らに向けて、優しく歌を聴かせてやると、鳥や小動物たちが僕を恐れることなく、自然と集まってきた。あの無垢な仲間たちとの出会いは本当に楽しかった……いや、今思えば、どこか「懐かしい」とすら感じる温かい時間だった。

外で過ごす時間は、ハルの凍りついた心に確かな変化を与えていった。

頑なに閉ざしていたはずの心の殻が、大自然の温もりに触れて、少しずつ、少しずつ解きほぐされていく。それは、彼が『歌姫』という人形ではなく、一人の瑞々しい少年として、あるべき姿に戻りつつある証拠だった。

数週間が経った頃、ハルは生まれて初めて、ブレンダン伯爵から提示された歌子の仕事を真っ向から拒絶した。

自分の歌をこれ以上、汚い政治の道具にしたくないと、心が拒んだのだ。

だが、それを機に激怒した伯爵は、ハルに今まで与えていた数少ない自由――庭園や森へ行く行動の自由を、容赦なくもぎ取った。

元から無かったに等しい自由だ。それでも、ハルにとって「森の仲間たちに会えなくなること」は、何よりも一番ダメージが大きい、残酷な仕打ちだった。

それから、ハルは一切歌わなくなった。

毎日、部屋の窓から仲間たちの住む遠い森をじっと眺めては、絶望と共に冷たいベッドへと戻っていく日々。

そんなある日のことだ。あまりにも生気を失い、無気力になったハルを、使い物にならなくなると危惧したのだろう。伯爵は珍しくハルの部屋を訪れ、「何か欲しい物はないか」と、褒美をチラつかせるように問いかけてきた。

色彩が完全に擦れていくような、灰色の日常だった。

別に、何も望みなんてなかった。あの時はただ、あまりの寂しさに、ほんの少しだけ魔が差したのだろう。

『……仲間が、欲しい』

気づけば、自分の唇からそんな言葉がぽろぽろと溢れ出していた。

ハル自身、ハッと我に返る。

ハルにとっての「仲間」とは、あの森で自分を癒やしてくれた、純粋な動物たちのことだった。だが、人間の浅ましさしか知らない伯爵は、ハルが「動物をペットとして飼いたがっている」ということには、夢にも気がつかなかった。

(あぁ、僕はなんて酷いことを言ったんだろう。自分の寂しさを埋めるために、あの無垢な仲間たちをこんな人間の檻に閉じ込め、犠牲にしてしまうなんて。ここへ連れてきたら、彼らの自由を、時間を、大自然との縁を、僕が奪ってしまうことになるのに……)

なんて残酷な願いを口にしてしまったのだと激しく後悔し、ハルはそれ以上何も言わずにキュッと口を結んだ。

伯爵は少しの間、顎をさすって考えていたが、やがてフンと鼻を鳴らした。

『仲間を与えてやるわけにはいかんが、お前に新しい護衛……そうだな、専属のモリテを一人つけてやろう。モリテのガキなら、お前の“仲間”の真似事くらいはできるだろうからな』

ハルは伯爵の言葉を、ぼうっとした頭で聞いていた。

そこで初めて、自分と伯爵の認識が決定的にすれ違っていたことに気づく。

けれど、これでいいと思った。このまま放っておけば、森の動物たちが人間の身勝手で犠牲になることもないのだから。

ハルは感情を消した顔で、小さく頷いた。

それから事務的に事が運んでいき、やがて、屋敷に新しいモリテがやってきた。

「……やっぱり、あいつが来たら『お前なんか、いらない』って、すぐに突き返すつもりだったのにな。まさか、ここまで来ちゃうなんてさ」

ハルの美しい瞳には、今も遠くで自分を待っている仲間たちの森が、鮮やかに映し出されていた。

自分を受け入れてくれる唯一の場所は、あの緑の深淵だけだと思っていた。この冷徹な屋敷の中には自分の居場所なんてどこにも無くて、自分はいつも、実体のない幽霊のようにふわふわと浮いているだけ。

居場所のなさを、本当は知りたくなかった。気づきたくなかった。人間のドス黒い煩わしさに、これ以上縛られたくなかった。

そうしてハルは、自分の周りに近づいてくる有象無象の人間たちの顔に、心のペンで次々と大きな『×(バツ)』を貼り付けて、何も見ないようにしてきたのだ。

貼り付けていたはず、なのに。

あいつが来てから、その「顔」が、嫌でも見えてしまったんだ。

僕を『歌姫』という便利な道具ではなく、一人の人間として、ただの一個人の少年として真っ直ぐに見つめてくれる、風変わりなモリテ。

飢えていたのだろう。これまでの人生で、そんな純粋で混じり気のない関心を、誰からも向けられたことがなかったから。「人に見つめられる」って、本当はこんなに温かくて、気恥ずかしくて、安心するものだったんだなって――そんな当たり前のことすら、僕はすっかり忘れてしまっていた。

「……送るよ、みんなへ。僕たちの、新しい門出を見届けて」

ハルは胸の奥でそっと祈りを込め、真っ直ぐに大木の森がある方角を見定めた。

バルコニーの手すりから一歩下がり、深く息を吸い込む。

そして――静かに、その美しい唇を開いて歌い出した。

響き渡った優しい子守唄のメロディは、バルコニーから始まり、静まり返った屋敷の廊下、美しい庭園、そして敷地内の広大な森へと、波紋のようにその範囲をどこまでも広げていった。

その歌声は、もう誰の心も強制的に狂わせるような「魅了の呪い」ではない。聴く者すべての心をそっと包み込み、優しく和らげていく、本当の聖なる歌。

ハルの歌に抱かれるように、遠い森の奥から、懐かしい動物たちの歓喜の鳴き声が小さく響き返ってきた。ハルは愛おしさに目を細め、気の向くまま、木々のざわめきに身を任せて、かつて森を浄化させたあの『森唄』を紡いでいく。

嵐のような暴動が過ぎ去ったばかりの、ルーファス邸。

淀んだ空気、人々の荒んだ心、そして深く傷ついた肉体へと、ハルの歌声が心地よい風となって吹き抜けていく。それは、乾ききった岩地を優しく潤す、恵みの雨のようだった。

すっかり自分の世界に入り込み、心を込めて歌っていたハルは――すぐ後ろに、一人の「観客」が立っていたことに、今の今まで全く気がつかなかった。

その観客は、歌うハルの背中を見つめながら静かに歩み出し、そのまま彼の真横を素通りして、慣れた様子で大理石の欄干へと身体をもたれ掛けさせた。

ハルは歌を止め、驚きに目を見開く。

「……お前。ベッドで大人しく寝てろって、あれほど言ったよな」

ハルは信じられないとばかりに呆れ顔で頭を振る。

包帯を巻いた身体で抜け出してきたその観客――セイは、痛む脇腹を少しだけ庇いながら、へへっ、と悪戯っぽく破顔して振り返った。

「私のために歌ってくれるって、そういう『契約』ですから。特等席で聴き逃すわけにはいかないでしょう?」

夕暮れの光を浴びて、女性の本当の声で、誇らしげに笑う私のモリテ。

ハルは一瞬だけ呆気に取られたようにその笑顔を見つめ、それから今日一番の、最高に眩しい少年の笑みを浮かべるのだった。

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