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〜モリテ〜 痛み分け回復師  作者: 高星 舞
ルーファス家編
24/30

偽りの心は

「――それでだね。セイ。これからなんだが、ハルのことなんだけど……」

廊下でグレゴリー様と交わした、真剣な対話。

彼の口から告げられたあまりにも優しい申し出は、すでに決めていたはずの私の決心を、根底から激しく揺らがせていた。

『セイ、君の事情はよく分かった。正直に言って、僕は君が男だろうと女だろうと、そんなことはどちらでも構わない。ハルが君を認めているなら――どうか共にこの屋敷を出て、ハルを「歌子」として自由に生きさせてやってほしい。大空へ羽ばたかせてやってほしいんだ。……それを君に、隣で見守っていてほしい。あの子の「モリテ」としてね』

胸が痛くなるほど、嬉しかった。その手を、その言葉を取りたかった。

けれど――ルーファス家の人たちを、何より私の大切なハル様を、これ以上私の過酷な運命に巻き込むわけにはいかないのだ。私は王家から目をつけられている身。パトリアを出て、同じ場所に留まり続けるのはリスクが高すぎることは、自分が一番よく分かっている。

何より、あの人のどこまでも澄んだ、美しい聖なる歌を、私のどす黒い因縁で濁らせてしまうことだけは絶対に避けたかった。

(そうだ。ハル様の歌は、何度も聴いた。美しい姿をこの目で見た。熱を味わった。魂が交わった。……もう、私には十分すぎる)

だから――私のことなんて、認めないでほしい。

いっそ、ジャンや伯爵のように、派手に罵倒して追い出してくれた方が、どれほど楽だっただろうか。

『……せっかくの有り難いお申し出ですが、お受けすることはできません。私がここに来たのは、ただハル様の歌をもう一度だけ聴きたいと願ったからです。念願は叶いました。そして、私には他にやりたいこともできたのです。ハル様に出会えたおかげで、ずっと探していた大切な記憶を取り戻すこともできました。……もう、私がここに居続ける理由はありません。私はハル様のモリテとしてふさわしくない人間です。どうか――このまま去らせてください』

『そうか……。本当に残念だなぁ。だけど、屋敷を出ていく前に。せめてハルとちゃんと会って、話をつけてから行ってくれないか』

『……はい。分かりました』

重い足取りのまま、私はハル様の部屋の前へと辿り着いた。

重厚な扉に手をかけようとした瞬間、ドアノブに不自然な魔導具が引っ掛けられていることに気づく。それは――部屋に完全な防音効果を施し、同時に内側からは決して開かないようにする、伯爵が仕掛けた「檻」の結界だった。外側からノブを回して開けるだけで、それらの効果は霧散する。

ハル様は、部屋の外で起きたあの激しい暴動も、伯爵が刺されたことも、何一つ気づいていないのだろう。

私はほんの数センチだけ静かにドアを開け、努めて冷静な声をかけた。

「ハル様、入ってもいいですか」

「……あ。ああ、いいよ」

部屋の奥から響いた声。

私一人だけが、引き受けた痛みの重さと決別の覚悟で押し潰されそうになりながらも、心を鬼にして、ハル様の元へとゆっくり歩み寄った。

「ハル様。お話があります。――私は、このルーファス家のモリテを辞めて、今日このままここを出ていきます。ですがその前に、あなたにだけは伝えておかなければいけないことがあります」

私は自身の首元に手をかけると、傷口を隠していた衣服と、声を偽るための魔導具である『チョーカー』を静かに外し、目の前のテーブルへと置いた。

「――私は、女なんです」

カチャリ、と無機質な音が響く。チョーカーによる擬音化が解け、私の口から出たのは、ハル様が一度も聴いたことのない、少し高くて澄んだ「女性」の本当の声だった。

ハル様は、何も言わなかった。驚いて声を荒げることもなく、ただ、真っ直ぐに私の言葉を静かに聴いている。

私は自分の胸の奥から溢れ出そうとするすべての感情を殺し、まるで他人事のように、ひょうひょうとした冷たい口調で語り出した。

「性別を偽り、男と嘘をついてハル様のモリテとなりました。ですが、ブレンダン伯爵に正体がバレてしまった以上、私がここにいるわけにはいきません。私はハル様の歌を利用して、自分が失っていた『過去の記憶』を取り戻したかっただけなのです。……そして今、記憶はすべて手に入りました。私がもうここにいる理由は、どこにもありません」

ハル様に言葉を挟ませないため。自分の心が今にも決壊して泣き出してしまわないように。私は一度も息を継ぐことなく、冷徹な言葉を一気に捲し立てた。

「大変お世話になりました。――さようなら」

最後にそれだけを告げると、私はハル様に冷たく背を向け、扉へと向かって歩き出した。

これでいい。これで、ハル様は私を憎み、孤独から解放され、グレゴリー様と共に自由になれる。

「――嘘つき」

背後から響いたのは、少し掠れた、今にも消え入りそうな声だった。

やっぱり、怒っているのだろう。性別を偽り、ただ記憶のために利用していたのだと言った私を、軽蔑したのだと思った。けれど、ハル様の口から次に紡がれた言葉は、私の予想を遥かに超えるものだった。

「記憶を取り戻したのに……っ、なんでそんなに苦しそうな顔をしてるんだよ……っ!」

心臓を掴まれたように、カツン、と出ていくはずの足がその場に止まった。

(ダメだ。引き留めないでくれ。私はあなたの問いに、何も答えられない。答えたくないんだ……っ)

「お前はいつだって、僕に嘘なんか一つもつかなかった……! でも、今のお前の心は……揺らいでる。澱んで、引き裂かれそうなくらい痛むんだよ……っ! なんで本当のことを言ってくれないんだよ……っ。僕には、何も話してくれないのか……!?」

心が、揺れている――。

ハル様の言う通りだった。私は「ハル様を巻き込みたくない」という偽りの仮面で本心を必死に隠そうとしていた。本当はハル様の隣にいたいのに、その想いが胸を締め付けて破裂しそうだった。他人の心の揺らぎが見えるハル様には、私のそんな必死な拒絶の裏にある「本音」が、すべて筒抜けだったのだ。

「僕はお前が男だろうが女だろうが、そんなことどっちだって構わない……っ! 僕の歌を利用していようが、そんなことどうだっていいんだよ……っ! 僕は、お前と一緒にいたいんだ……っ! お前に、誰よりも僕の歌を隣で聴いていてほしいんだよ……っ!!」

ハル様は椅子から立ち上がると、一歩ずつ私との距離を詰め、魂を削り出すように言葉を繋いでいく。

「最初にあのバルコニーで、お前に僕の歌を聴かせたとき……お前を見て、思ったんだ。――あぁ、なんて綺麗な人だろうって。涙を浮かべて笑うお前の笑顔が、消えてしまいそうなくらい儚くて、美しかった。お前は自分の過去を何も話さなかったけど、見えたんだよ。僕には……悲しみと苦しみが渦巻く理不尽な世界の中で、それでも必死に、気高く生き続けるお前の姿が――」

ガシッ、と私の腕を、ハル様の細い手が強い力で掴んだ。

「――なぁ、お願いだから。お前の、本当の『声』を聴かせてくれよ……っ!」

その言葉を浴びた瞬間、私の目から、堰を切ったように熱い涙がとめどなく溢れ出してきた。

ハル様は、本当は最初から全部分かっていたのだ。私が女であることも、何か深い傷を背負っていることも、全部。それでも、私が私自身の口から、本当の心を打ち明けてくれるのを、ずっとずっと信じて待っていてくれた。

胸の奥が激しく震え、喉に何かが詰まったようにうまく言葉が出てこない。

しゃくり上げ、涙で視界を歪ませながら、私は胸の底に閉じ込めていた、たった一つの本物の願いを、なんとか形にして絞り出した。

「ハ、ハル様と……っ、一緒に、いきたいです……っ!!」

子供のように泣きじゃくりながら吐き出した、私の本当の声。

その瞬間、ハル様は何も言わず、私の身体をそっと正面から抱きしめた。

ぎゅっと、壊れ物を労るように、ふんわりと優しく。

私は驚きに目を見張りながらも、背中に回された彼の腕硬さと、胸に触れる確かな温もりに、凍りついていた心がじんわりと溶けていくのを感じていた。

私の顔を覆うように、かつて大木の森で感じたような、温かい木漏れ日と青葉の瑞々しい匂いが、優しく優しく包み込んでいく。

「――うん。行こう、一緒に」

耳元で囁かれたハル様の優しい声に、私はもう二度とこの手を離さないと誓いながら、その背中にそっと腕を回し、溢れる涙と共に小さく抱き返すのだった。

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