最初の痛み分け
私が回復師として『痛み分け』を初めて使ったのは、パトリアに来るよりももっと前のことだ。
当時の私の主人は、ルノーという名の傲慢な男だった。
私とルノーが山賊に襲われた、あの日――。
実は、ルノーと賊は裏で繋がっていた。彼は自分の地位を高めるため、賊と画策して「自分自身を誘拐させる」という狂言誘拐を仕組んだのだ。
『もうこれでお前はモリテとして生きられない。主が誘拐された汚名を背負って生きろ』
冷酷にそう言い残し、ルノーは賊と手を取り合って去ろうとした。
だが、裏切られたのは私だけではなかった。
用済みとなったルノーに向け、賊の刃が容赦なく一閃したのだ。裏切られ、深く斬り裂かれたルノーはその場に崩れ落ち、無様に悶絶し始めた。
『な、なぜだ……っ! 言う通りにしたではないか!』
話が違うとばかりに絶叫するルノーの元へ、賊の頭らしき男が歩み寄り、冷たくその顔を覗き込んだ。
『これは王命でね。あんたにはここで死んでもらった方が、色々と都合が良いんだよ』
賊の頭は、次に私の方へ視線を向けた。
『落ちこぼれのお前には、その深い傷は治せない。裏切りの主がじわじわと死んでいく様を、そこで指をくわえて見ていろ』
男の瞳を見た瞬間、私は背筋が凍りつくような恐怖を覚えた。人を人とも思っていない、底の抜けたどす黒い眼光。
『散れ』
男の一言で、賊たちは音もなく夜の闇へと姿を消した。
静まり返った荒野に、ルノーの悲痛な叫びだけが響き渡る。
『なんでだよ……っ! 王命に従ってやってきたのに! ここまで、ここまで必死に這い上がってきたのに……っ! 捨てられたくない、死にたくないっ! 見捨てないでくれ! 俺を置いていかないでくれ、頼む、頼むからぁ……っ!!』
去っていった賊たちへの未練か、あるいは命を下した黒幕への懇願か。どちらにせよ、鼻水と血にまみれて泣き喚く主の姿は、まるで迷子になった幼い子供のようで、酷く哀れに思えた。
死を間近にして、何一つ縋るものがない孤独。王家からゴミのように見放されたその絶望の姿に――私は、どうしようもなく「自分自身の姿」を重ねてしまったのだ。
考えるよりも先に、身体が動いていた。
私はルノーの傍らに跪き、その手を強く握りしめた。私の実力では治せない、治らないと分かっていても、死にゆく人の側にいてあげたい、一人にさせたくないと、強く願ってしまった。
――その瞬間、視界が真っ白な煙に巻かれ、霞んでいく。
私は、彼の絶望も、傷も、その痛みのすべてを、自分の身体へと吸い込んだのかった。
◇
そこからの記憶はなく、気づいたときにはベッドの上にいた。
後にルノーから事の一部始終を聞かされ、首元に残った激痛を自覚したとき、自分に何が起きたのか、私が何をしてしまったのかを、なんとなく理解した。
ただ、あの時の私は、このおぞましい力を嫌いにはなれなかった。
一方的に自分が傷を負う、自棄を孕んだ冷たい呪いのような技。相手を生かして自分を殺すだけのシステムのはずなのに、ずっと奇妙な違和感を感じていたのだ。
けれど、今なら分かる気がする。
この力は、片方を切り捨てるためのものではない。――どちらも生かすための、優しくて強い力なのだと。
そして今、私はまた思っている。コイツ(伯爵)も、そして自分自身も、どちらも生かして見せると。
痛みに呑まれるな。吸いすぎず、ただ痛みに寄り添え。コントロールしろ……っ!
「う、ぐっ……!」
腹部に、ずしりと重い鈍痛が走る。続いて肩にも。
血が逆流するような、熱く鋭い激痛へと変わっていく。
(……ここまで、か)
やはり、少し吸いすぎたかもしれない。
私は伯爵の身体から両手を離し、精神のリンクを強制的に遮断した。まずは自分の状態と、伯爵の容態を確認しなければならない。
荒い息を吐きながら伯爵の喉元に指を当て、脈と体温を測る。
血の気が引いていた伯爵の顔色に、少しずつ赤みが戻っていた。呼吸も安定している。これなら命に別条はない。
そんな私を、ブレンダン伯爵は信じられないものを見るような目で凝視していた。
「お前……私に、治せないと嘘をついていたのか……っ!?」
伯爵は眉間に深いシワを寄せ、悔しげに歯を食いしばる。
「騙される方が悪いんですよ。……命が助かったんだから、良かったじゃないですか」
私が冷淡に言い放つと、伯爵は一瞬呆然とし、それから不気味に口元を歪めた。
「ふっ……。なるほど、お前の望み通り契約は交わされたということか。はっ、ははははっ!」
伯爵は塞がった自分の傷口に触れながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「だがな、ハルは私が大金で買った『所有物』だ。どうとでもなる。私利私欲のために歌わせない契約を結んだところで、飾っておく価値すらなくなったガラクタなら、別の奴に売り飛ばすまでよ!」
「ふざけるな……っ!!」
私の頭に、一気に激しい血が上った。怒りで視界が真っ赤に染まる。拳を固く握り締め、サヤの中の剣へと手をかけた――その瞬間。
「あっ……ぐ、ぅ……っ」
激昂したせいで、引き受けた腹部の傷が内側から開きかけ、私は思わずその場に蹲って腹を押さえた。
その無様な様子を見た伯爵が、ここぞとばかりに高笑いを上げる。
「ハハハハ! ああ、本当に落ちこぼれの未熟者だな! 術の反動が術者本人に跳ね返ったか! 哀れな女回復師め!」
『痛み分け』の存在を知らない伯爵は、上限を超えた回復術を無理に使ったことによる反動だと勘違いしているらしい。
「私が生き残り、お前がその傷で死ねば、先ほどの契約などいくらでも無効にできる! ハルはこれで、また元に戻るのさ。――誰にも愛されない、孤独の闇の中に、一人きりでな!!」
醜悪な笑い声が廊下に響き渡る。その言葉に、私が悔しさで奥歯を噛み締めた、その時だった。
「――いいんじゃない。それ、俺も大賛成」
低く、けれど鋭く喧騒を断ち切るその一言で、周囲の空気が一変した。
凍りついた空間に響いたのは、私にとっても非常に聞き覚えのある声――グレゴリー様だった。
その声に込められた「真の意図」を察するまで、あまりの覇気に、私は振り返ることすら出来なかった。
「ハルが売られるなら、俺が買い戻す。今度は道具としてじゃなく、本当の弟としてね。……父さんみたいな人には、ハルはもったいなさすぎるよ」
「おい、グレゴリー……! お前、自分が何を言っているのか分かって――」
「させないよ。もう二度と、あの子を一人になんてさせない」
グレゴリー様は明確に語気を強めた。それは、この屋敷の絶対権力者である実の父親への、人生で初めての「反抗」だった。
「父さん、もう終わりにしないか? 悪事に手を染めて、人を傷つけて築き上げた地位や名誉に、価値なんてありはしない。そんなものガラクタ同然だ。……それとも、父さんが今まで裏でしてきた数々の悪行、今ここで周囲に公表しても構わないかな? 父さんが失脚して、僕が今すぐこの家を継いだ方が、みんな幸せなんじゃない?」
「な、何を言うか……っ! ここまできておいて!」
「僕は父さんの実の息子だよ? 裏でどんな汚い真似をしてきたか、知らない訳がないじゃないか。証拠なんて、それこそ山のように握っている。――ハルを売るなら、俺も父さんを売る。ハルは俺が買い戻す。ハルをこの屋敷から解放して自由にするなら……父さんの件は、墓場まで持って行ってあげるよ」
驚愕のあまり、伯爵の開いた口が塞がらない。そんな父親の動揺を見透かしたように、グレゴリー様はフッといつもの軽い調子を装って話を続けた。
「ま、返答は後日ということで。――おやすみなさーい」
グレゴリー様は自分のおでこに指を立てる動作をして、私にパチンと目配せをした。
(ハル様の額に拳をくっつけた、あの『秘密の共有』の仕草だ……!)
意図を察した私は、残る力を振り絞って、座り込む伯爵の額をトン、と指先で突いた。回復の魔力による軽い睡眠誘導。伯爵は緊張の糸が切れたように、その場にバタリと倒れ込んで深い眠りに落ちていった。
「ジャン。父さんを部屋まで運んでくれ」
「え、あ、は、はいっ……!」
恐怖で完全に棒立ちになっていたジャンが、弾かれたように動き出し、伯爵を抱きかかえて慌てて去っていく。
廊下に二人きりになり、グレゴリー様は私に向き直ると、その場にトンと膝を折り、怪我人である私と真っ直ぐに目線を合わせた。
「――それでだね。セイ。これから、ハルのことなんだけど……」
真剣な光を宿したグレゴリー様の瞳が、私の顔をじっと見つめていた。




