偽りのセイ
あの神秘的な大木の森で『森唄』を歌い、奇跡のような浄化を行って以来、不思議なほどハル様宛の歌子の仕事はぱったりと来なくなった。伯爵の狙い通りにいかなくなったからだろうか。嫌な予感が胸をよぎる中、私は朝一番でブレンダン伯爵の書斎へと呼び出された。
部屋へ入ると、伯爵は背を向けたまま窓の外を冷ややかに眺めていた。
「来たか、セイ」
振り返ったブレンダン伯爵の全身から、ずしりと重苦しい威圧感が放たれる。
「急な話だが、しばらくの間ハルの歌子としての仕事はなくなった。さしあたって――お前には今日から、我が家のモリテ(護衛騎士団)に入隊してもらう」
「……モリテに、ですか?」
「そうだ。稽古は毎朝行う。ゆくゆくは団長であるジャンの右腕になってもらいたい。我が家の稽古は厳しいが、遅れず参加するように。……言うまでもないが、役に立つ腕がないような者はこの屋敷にはいらん。当然、ハルの監視も怠るなよ。ではな」
伯爵はそれだけを一方的に告げると、私の返事も待たずに、翻って部屋を出ていった。
静まり返った書斎で、私は小さく息を吐き出す。
(――始まったな)
こちらを男装の少女だと知った上での、あからさまな見下しと嫌がらせ。歌子の仕事から私を引き離し、力勝負で叩き潰そうという魂胆なのだろう。
けれど、あいにく、剣の力勝負なら――こちらにとっては望むところであり、一番の得意分野だ。
◇
翌朝から、私はルーファス家のモリテたちの朝稽古に加わった。
広大な鍛錬場に集まった十数人の男たちに混ざり、木剣を握る。
しかし、いざ型稽古や対人戦が始まってみると……想像以上の彼らの「弱さ」に、こちらが拍子抜けして空回りしそうになってしまった。
打ち込みの速度も、踏み込みの鋭さも、まるでなっていない。私が一太刀合わせるたびに、周囲のモリテたちは「な、何だあいつの強さは……!」と驚愕の表情で色めき立っている。
無理もない。私がかつて過ごしたパトリアの仲間たちの強さは、これとは雲泥の差だったのだ。あそこでは朝から夕方まで泥にまみれて死に物狂いの稽古をこなしてきた。それに比べれば、この程度の朝稽古など、息一つ乱さずに余裕でやってのけられる。
無事に初日の稽古を終え、汗を拭って戻ると、すぐにハル様から部屋に呼び出された。扉を開けるなり、ハル様は焦ったような顔で私に詰め寄ってきた。
「お前、大丈夫なのか!? 急にモリテの連中に加わされたって聞いて……。稽古、辛くなかったか?」
さすがハル様、耳が早い。いや、もしかしたらどこかで心配して見ていてくれたのだろうか。私は男としての笑みを浮かべ、首を振った。
「いえ、そこまででもないですよ。結構、身体を動かすのは得意なんです」
「そうか……? って、おい。お前、手首のところ、赤くなってるじゃないか。何で自分で治さないんだよ」
「え? ああ、これですか。かすり傷ですし……それに私、自分自身に回復術をかけるのは、どうも苦手で」
はは、と苦笑する私を、ハル様はジロリと睨みつけた。
「全く……。いいから、そこに座れ」
ハル様は私の腕を強引に引っぱると、椅子に座らせた。そして、机の引き出しから手慣れた様子で薬瓶と包帯を取り出す。私の手首をそっと大きな手のひらで支え、優しく薬を塗り、綺麗な布を巻いていく。その手つきは、驚くほど迷いがなくて温かかった。
「……よく、孤児院にいた頃、怪我をしたチビたちの手当てをしてやってたんだ」
ハル様は少し照れくさそうに視線を落としながら、ぽつりと言った。
「なぁ、セイ。もし辛かったら、すぐに僕に言ってくれよ。僕があの伯爵に直接掛け合うから」
「ふっ……。ありがとうございます、ハル様。でも本当に、心配されないでください」
ハル様は少しだけ納得のいかないような、不満げな顔をしながらも、渋々といった様子で手を離してくれた。
普段はツンツンしているのに、実はとっても世話焼きで優しい。そんなハル様の意外な一面が愛おしくて、私は小さく微笑んだ。二人の間に、ゆっくりと穏やかな時間が流れていく。
だが――この時の私は、まだ知らなかった。
ブレンダン伯爵が、私たちの背後に執拗な『監視』の目を光らせていたことを。
森の浄化以降、ハルの魅了の魔力が消え失せつつある原因が、すべて私にあると伯爵が見抜いていたことを。
伯爵は裏で、ジャンに冷酷な命令を下していたのだ。
『実力テストにかこつけて、あの女モリテを徹底的に痛めつけろ。恐怖を植え付け、この屋敷から自発的に去るように仕向けるのだ』と。
◇
ここ最近、団長であるジャンからの視線が、妙にぎらぎらと熱を帯びているのを感じていた。
腹の底で何かを企んでいる、特有の嫌な気配。
そしてある日の朝稽古の終わり、ジャンが冷たい声を張り上げた。「これより、実力テストを兼ねた勝ち抜き戦を行う!」と。
試合が始まれば、当然のように私が他のモリテたちを次々と圧倒し、勝ち進んでいった。そして最後に勝ち残った私は、実力証明として、ジャンと一対一で『特別指導』の試合を行うことになったのだ。
「お前の本当の力を見せてみろ、セイ」
不気味に口元を歪めるジャン。木剣を構え、ついに試合が始まった。
キン、カン、と激しく木剣が交錯する。
けれど、打ち合ってみてすぐに確信した。ジャンの剣捌き、速度、力、どれをとっても一流には程遠い「二流」だ。本気を出せば、私なら一瞬で余裕で勝ててしまう。
(――待てよ。ここで私が勝ってしまっていいのだろうか?)
その折、かつてパトリアでフリートさんから言われた言葉が、不意に脳裏をよぎった。
『お前が女だと知っている敵に対しては、下手に実力を見せるな。搦め手や罠を警戒しろ』と。
すでにジャンは息を荒くし、焦り始めている。ここはあえて、負ける演技をした方が無難かもしれない。わざと打たせて隙を見せ、少しだけ剣を掠らせて敗北を装おう。
そう決めた私は、ジャンの大振りの一撃をわざとまともに受け止め、力負けして押し込まれる演技をした。
ずるずると足元を滑らせ、剣と剣が激しく擦れ合う。ジャンは私の首元へと、ぎりぎりまで木剣の刃を沿わせてきた。
勝利を確信したのだろう。ジャンの顔色が勝ち誇ったものへと変わり、口元が醜く緩む。
彼はグッと私の顔の近くまで泥臭い顔を寄せると、耳元で低く、ねっとりとした声で呟いた。
「――お前が邪魔なんだよ。怪我したくなけりゃ、さっさとここを出ていけ」
私は少しだけ木剣の刃を押し返し、鋭く睨みつける。
「……どういう意味ですか」
「お前が側にいるせいで、ハルが『魅了』を発揮できねえんだよ。あいつはな、孤独じゃなきゃ使い物にならねえんだ。ハルには、誰にも愛されない孤独がお似合いだ。」
(っ……!?)
心臓を、冷たい氷の棘で突き刺されたような衝撃が走った。
ハル様は、魅了の魔力を発揮させるためだけに、わざと孤独にさせられていた。あの底深い寂しさは、この屋敷の奴らが人工的に作り出していたものだったのだ。
あまりの非道さに激しい怒りと動揺が押し寄せ――その瞬間、私の身体から一瞬だけ、ガクリと力が抜けてしまった。
「しまっ――」
その一瞬の隙を、ジャンは見逃さなかった。
激しい音を立てて私の木剣が弾き飛ばされる。同時に、ジャンの剣先が、私の首元を浅く一文字に引き切った。
「っ……!」
ピリッとした鋭い痛みが走り、首元から生温かい血がじわりと溢れ出す。
「出て行け、女」
ジャンは私にしか聞こえない極小の声でそう冷酷に吐き捨てると、勝ち誇ったように鍛錬場を去っていった。
◇
首の傷口を手のひらで強く押さえながら、私はふらつく足取りで自室へと向かった。
早く部屋に入って、手当てをしなければ。そう焦って廊下の角を曲がった瞬間――ハル様と正面から鉢合わせになってしまった。
「あ……ハル様」
「セイ! お前、どうしたんだよその傷……っ!? 血が出てるじゃないか! 何があったんだ!」
私を見るなり、ハル様の顔から血の気が引いた。いつも氷のように冷静な彼が、見たこともないほど激しく取り乱し、声を荒らげて私に駆け寄ってくる。
「あ、いえ、これはちょっと訓練で掠っただけで――」
「何がちょっとだ! いいからその襟巻きを取れ、僕が今すぐ見てやるから!」
ハル様が必死な形相で手を伸ばし、私の首元に巻かれた衣服(襟巻き)へと手をかける。
(――っ、ダメだ……!!)
私の脳裏に、強烈な警告灯が灯った。
衣服の下には、声を偽るための魔導具『チョーカー』がある。これを外されたら、あるいは少しでも触れられたら、私が「女」であることが一発でハル様にバレてしまう。
もし女だと知られたら、私は欺瞞の罪でここに居られなくなる。ハル様のモリテとして、隣で彼を守ることができなくなってしまう。
「――いえっ!!」
私は咄嗟に、ハル様の差し伸べられた手を、ゆっくりと、けれど明確に拒絶するように強く振り払った。
「っ……!」
ハル様の手が、空中でピタリと止まる。驚愕に目を見開く彼を見つめながら、私は必死に声を絞り出した。
「大丈夫です……っ。このくらいの傷、自分で手当てできますから」
「でも、お前、その傷は……かなり血が……」
「すみません、気にしないでください。ハル様の手を煩わせたくないんです。……失礼します!」
私はハル様からさっと一歩、冷たく距離を取ると、逃げるように自室へと飛び込んだ。
バタン! と激しい音を立てて扉を閉め、震える手で内側から鍵をガチャリと強固に閉める。
「おいっ! セイ!! どうしたんだよ!」
直後、扉の向こうから激しくドアを叩く音が響き渡った。
「見せられないくらい、酷い怪我なのか!? 頼むから扉を開けろ、答えろよ……っ! それとも何だ、お前は僕のことが信用できないのか!? 僕じゃ、ダメなのかよ……っ!!」
ハル様の、泣き出しそうな、必死の叫びが扉を震わせる。
「話せない、よ……」
私は扉の内側に背中を預け、ずるずると床へ崩れ落ちた。首元の傷口を押さえる指の間から、血がとめどなく溢れて衣服を赤く染めていく。
「お前は……っ、お前だけは、僕を信じてくれてたんじゃなかったのかよ……!!」
ドン、と弱々しくドアを殴る音が響いた。その悲痛な振動が、背中を通じて私の体の骨の奥まで伝わってくる。
喉の奥から、熱い塊が込み上げてきて視界が涙で歪む。
ハル様の、哀しみと怒りに満ち溢れた震える言葉が、ジャンの剣なんかよりも何倍も深く、私の心の奥底をズタズタに突き刺してくる。
誰にも心を開かなかったハル様が、私を信じてくれた。だからこそ、拒絶された彼の痛みが痛いほど分かる。私はハル様と、何でも本音を打ち明けられる関係でいたかった。
でも……真実を話してしまえば、私はハル様の側にいることすら許されなくなるのだ。
やがて、扉の向こうから、力なく遠ざかっていく足音が聞こえた。
ハル様は……諦めて、帰ってしまったようだ。
静まり返った部屋の中で、私は両顔を覆って小さく、小さく蹲った。
「すみません、ハル様……。すみません……っ」
ジャンに切り裂かれた首の傷の痛みなんて、もう感じなかった。
ただ、ハル様を自分の嘘で深く傷つけてしまったという罪悪感だけが、冷たい部屋で私の心を激しく蝕んでいくのだった。




