ハルの魔力
「失礼します、報告に参りました」
「入れ」
重厚な扉を開け、ジャンはブレンダン伯爵の書斎へと足を踏み入れた。
伯爵は大きな書斎机に数枚の書類を広げ、不機嫌そうに目を通している。
「ブレンダン伯爵、ハル様の件でご報告に参りました」
「ご苦労。……ふん、最近のハルはやっと機嫌が直ってきたようだな。大人しく私の『お飾り』としての役目を果たしているか?」
「はい。……ですが、それについて少しお伝えしたいことが」
「なんだ」
伯爵の手が止まる。彼は見ていた書類をパタンと裏返しに伏せると、冷徹な眼光をジャンへと向けた。
「最近、ハル様の歌に魅了される貴族が、目に見えていなくなりつつあります」
「……何だと? どういうことだ。あいつは生まれながらにして『魅了の魔力』を持っているはずだろう」
予想外の報告に、伯爵の顔が険しく歪む。ハルの魅了の魔力は完全に掌握していると思っていたのだ。
「はい。今まではハル様が歌えば、大勢の貴族たちが例外なく心を奪われ、操り人形のようになって我々の言いなりになりました。ですが、最近……あの『セイ』という女のモリテを側に置くようになってから、ハル様の歌から魅了の魔力が減り、消え失せつつあるのです。そして同時に――何か、別の魔力が発現しているようです」
「違う魔力、だと?」
「はい。先日、歌を聴いた貴族から内々に連絡がありまして、ぜひまたハルの歌を聴かせてほしいと……。初めは魅了が効いているのだと思っておりましたが、違いました。彼らの目は完全に正気だったのです。『ハル様の歌を聴いたら心が深く安まり、驚くほど落ち着いた』と、そう口を揃えておりました」
ジャンは軽く俯き、声を潜めて言葉を繋ぐ。
「状況から察するに、何か……『浄化』に近い魔力を受けて、歌の性質そのものが変化したのではと思われます」
「浄化、か……。それが本当なら、少々厄介だな。魅了の力がなくなれば、下位貴族どもを裏から操りにくくなる」
伯爵は忌々しげにあごに手を当てると、すぐに鼻で笑った。
「ふん、わかった。しばらく様子を見よう。なに、その『浄化』とやらが本物なら、原因であるあの女モリテをハルから引き離せばいいだけのこと。――元よりハルの魅了の魔力は、あいつの底深い『寂しさ』が源なのだからな。あんな小娘のモリテなど、いつでも一捻りで潰せるわ」
歪んだ笑みを浮かべる伯爵の言葉を、ジャンは黙って頭を下げて受け止めるのだった。
◇
それから数日後。貴族たちへのお披露目会を終えた帰り道のこと。
屋敷へと戻る馬車を降りた瞬間、ハル様はトコトコと全く違う方向へと歩き出してしまった。
「ハル様、そちらは帰る方向とは違います。屋敷はあちら――」
「分かってるよ。お前は僕の監視役なんだろ? だったら、少しくらい寄り道に付き合えよ」
「は、い……?」
驚いて目を丸くする私を置いて、ハル様はすたすたと進んでいく。
毎日一緒に過ごすようになって分かったことだが、このハル様という少年は、心を許した相手には結構わがままで、お茶目な一面がある。
「この森、ずっと気になってたんだ。なんだか変な感じがする。こんなに深い、蒼い森なのに、全然綺麗じゃない。……空気が澱んでる。綻びがあるみたいに、チクチクする」
ハル様に導かれるまま、二人は鬱蒼とした森の深くまで進んでいった。
やがて、少し開けた場所に出る。そこには、天を突くほどに巨大な大木がどっしりとそびえ立っていた。
すると、ハル様は迷うことなく大木の太い幹に足をかけ、ひょいひょいと上へ登り始めてしまった。
「えっ、ちょっとハル様!? 危ないです、私もご一緒しますから――」
「ついて来るな。……ここなら思いっきり歌えそうだから、お前に聴かせてやる。下で大人しく聴いてろよ」
ハル様は太い枝の上にちょこんと立つと、楽しそうに息を吸い込んだ。
「――♪~~~~」
頭上から、ハル様の澄んだ旋律と、心地よい風が同時に吹き抜けていく。
瞬時に、辺りに瑞々しい草木の香りがふわっと漂った。
木の実を咥えた小鳥たちが大木の枝に集まり、森の奥からは鹿や狐たちが、まるで歌に導かれるように次々と姿を現す。
(あ、また怪我をしてる子がいる……)
寄り集まってきた動物たちの中に、足に傷を負った子鹿を見つけ、私はそっと手をかざして『回復』の魔力を注ぎ込んだ。
――その時、おかしなことに気づいた。
(あれ……? 足元の草が、みるみる伸びていってる……?)
それだけではない。集まった動物たちが、ハル様の歌声を浴びて、目に見えて元気そうに目を輝かせているのだ。大木の上で歌うハル様を、野生の動物たちが円を描くようにしてじっと見守っている。
その光景は、まるでお伽話に出てくる、美しい『姫』を命がけで守る侍従たちのようで――。
(ふふっ、本当に、どこかの国の歌姫みた――)
――ミシッ。
頭上で、何かが激しく擦れる音が響いた。
見上げると、ハル様が枝に生えた苔に足を取られ、バランスを崩して真っ逆さまに落ちてくるところだった。
「っっ――『姫』っ!!」
私は咄嗟に叫びながら両手を伸ばし、落ちてきたハル様の身体を全力で受け止めた。
ドサリ、と草むらに倒れ込みながらも、私はハル様の細い身体をしっかりと腕の中に抱きしめていた。至近距離でハル様と目が合う。幸い、お互いに怪我はなさそうだ。ホッと胸を撫で下ろした、その時だった。
「アンタら、一体何者だい?」
背後から突然、低く掠れた声が響いた。
驚いてハル様を抱き抱えたまま振り返ると、そこには一匹の小さな子鹿を優しく腕に抱いた、見慣れない年配の男性が立っていた。
「アンタら……もしや、この森の『浄化』ができるのか?」
「えっ……?」
私とハル様は、思わず顔を見合わせた。そんな私たちの様子を見て、老人はガハハと愉快そうに笑う。
「悪い悪い、驚かせちまったな。どうやら意図せず浄化してくれたようじゃ。わしはこの森を守るモリテ――まぁ、森爺とでも思ってくれればいい。そこのお嬢さんの歌で、少し森の澱みが浄化されたようでな」
「お嬢さん……?」
森爺が視線を向けているのは、私の腕の中にいるハル様だった。私は慌てて、自分がさっき叫んでしまった言葉を思い出す。
「いや、さっき『ひめ』と叫んでいただろう? てっきり、わしはそちらの綺麗な方がお嬢さんなのかと」
「……僕、男なんだけど」
ハル様は私の腕の中から抜け出すと、不機嫌そうにボソッと呟いた。それから、じろりと私を睨みつけてくる。
「ってお前……さっき、何が『ひめ』だよ」
頬を少し赤くして怒るハル様がなんだか微笑ましく、私は内心焦りながらも、慌てて言い訳を探した。
「ええっと! あの、あまりにも歌姫みたいに綺麗だなぁと思いまして……! すみません、ハル様」
「ふん……」
ハル様がぷいっと横を向く。そんな二人のやり取りを見て、森爺はポンと手を叩いた。
「おお、アンタら男同士だったか。こりゃ失礼したな」
「いえ。それより森爺さん、さっき『浄化した』というのは、どういう意味ですか?」
私とハル様は、森爺に真剣な目を向けた。
「ほう、自覚がないのか。さっきまでこの森を覆っておった、不自然な澱みの空気や歪みが、一瞬で消え去ったんじゃよ。森を元の正常な姿に戻す、聖なる力じゃ。普通は、こういう時は『森唄』を歌って優しく癒やすもんなんだがのぅ」
「森唄……? なんだそれ」
ハル様が興味深そうに身を乗り出す。森爺は「こんな唄じゃよ」と言うと、静かに声を響かせ始めた。
「――♪~ いのちの、いぶき~~」
森爺が歌い出した瞬間、足元の地面がざわめき始めた。
眠っていた草木がまたたく間に青々とした蕾をつけ、小鳥たちが一斉にさえずりだす。遠くの丘では、大喜びした狐たちが元気に駆け回り始めた。
「とまあ、こんな感じかの」
歌い終え、森爺はふぅと大きく息を吐き出す。その顔には、少しだけ疲労の色が浮かんでいた。森の生命力を引き出すのは、かなりの魔力を消費するらしい。
それをつぶさに見ていたハル様の瞳に、小さな火が灯った。
「……僕も、歌う」
「え? ハル様?」
ハル様は目を閉じると、今、森爺が歌ったばかりの旋律を、驚くほど正確に、そして丁寧に優しくなぞり始めた。
「――♪~ いのちの、いぶき~~」
ハル様が歌い出した、その刹那。
近くを流れる小川の水がキラキラと輝きながら増え始め、足元の草が驚くべき速さで成長していく。草木の蕾が一斉にパッと大輪の花を咲かせ、頭上の大木には、瑞々しい木の実が次々と実って大きく膨らんでいく。
世界が、ハル様の歌声を中心に眩い光を放ち始めた。
――と同時に、私は自分の身体の奥底から、信じられないほどの莫大な『魔力』が溢れ出し、ハル様へと流れ込んでいくのを感じた。
ドォッ――!!
三人の間を、光を孕んだ凄まじい突風が吹き抜けた。木々の隙間から、祝福のような美しい日差しがゆらゆらと差し込んでくる。
「……ここまでとは、恐れ入ったもんじゃな」
森爺は目を見開き、感嘆のあまり口元に指を当てて震えていた。
「初めての森唄で、完全に森を浄化しおった。……いや、それだけではないな。大自然(森)からも、力を貸してもらえるとはのぅ」
森爺の言葉に、私とハル様はハッと自分の両手を見た。
「アンタらも感じておるじゃろ。身体中に満ちる、温かな力を。森が感謝し、お主たちの体の治癒力を極限まで高めてくれたんじゃ。おかげで、わしの長年の腰痛まで軽くなったわい。……森が力を貸したんじゃよ。よければその歌、これからも時々歌ってやってくれ。森が癒やされるのは、何より嬉しいことじゃ。ホッホッホ……」
森爺は嬉しそうに笑うと、大きく息を吸い込み、そして吐き出した。
その直後、ヒュオォッと、木枯らしのような冷たい突風が辺りに吹き荒れた。
無数の葉が激しく舞い上がり、一瞬だけ視界が遮られる。すぐに風が止み、葉がひらひらと地面に落ちたときには――もう、そこに森爺の姿はなかった。
「……消えた?」
ハル様は呆然とあたりを見回し、それから、自分の両手をじっと見つめた。今までに経験したことのない、世界と繋がるような優しい魔力に、自分自身でも驚いているようだ。
私は、そんなハル様の横顔を見つめていた。
伯爵の言う『魅了』なんかじゃない。ハル様の歌は、今、私の隣で、世界を救うほどの美しい色へと変わり始めている。
(もっと、この人の歌が変わっていくところを見たい。ずっと近くで、聴き続けたい――)
そんな私の熱い願いを肯定するように、辺りを包む冷たくて心地よい風が、私たちの頬を優しく撫で通り過ぎていくのだった。




