歌子のハル
ハル様の正式なモリテ兼監視役として認められてから、ルーファス邸での私の生活は一歩前へと進み始めた。相変わらず無口で不愛想なハル様だったが、私に向ける視線にはトゲが消え、時折、年の離れた弟を見るような柔らかさが混ざるようになっていた。
そんなある日の朝、ハル様が当主であるブレンダン伯爵に呼び出された。
部屋に戻ってきたハル様の表情は、いつにも増して冷え切っている。どうやら、今夜催される高位貴族たちの舞踏会で『歌子』――つまり、客寄せの歌い手を務めるよう命じられたらしい。
「……あいつにとって、繋がりのある貴族たちは自分の手駒に過ぎないんだ」
ハル様は自室の椅子に深く腰掛け、吐き捨てるように言った。
「あいつは、僕の『魅了の魔力』を使って、自分に都合のいい味方を増やして権力を誇示してるだけ。僕はただの便利なお飾り……体裁のいい道具なんだよ」
「ハル様……。そんなこと……」
道具として消費される彼の痛みに胸が締め付けられる。かける言葉を探す私に、ハル様はふっと、窓の向こうの遠い空を見つめて言った。
「だからさ。僕はいつか、絶対にここを出ていってやるんだ。自分の力で自立して、もっと歌を磨いて、世界中を旅したい。誰も僕を縛らない場所で、もっと色んなものに触れて、僕自身の歌を歌いたいんだ」
冷たい仮面の奥に隠された、少年の切実な本心。ハル様には、自分の足で行きたい場所、叶えたい夢がちゃんとあるのだ。私は胸の拳をそっと握りしめ、その横顔をじっと見つめた。
◇
夜になり、煌びやかな貴族の舞踏会へと足を運んだ。
大広間のホールでは、着飾った貴族たちが優雅な音楽に合わせてステップを踏んでいる。私は男装の礼服に身を包み、ハル様の斜め後ろに控えた。
「さあ、行くぞ。さっさと終わらせて、すぐに帰る」
ハル様は低く呟き、ホールの2階にある演奏バルコニーへと上がっていく。
上から見下ろす会場は一見華やかだが、漂う空気はひどく澱んで感じられた。
跡取り探し、婿探し、他人のあら探し。――そこに渦巻いているのは、純粋な楽しさではなく、自己顕示欲の塊だ。笑顔の裏で、どろりとした思惑が交錯しているのが肌で分かる。
そんな醜悪な場所に、ハル様の声が響き渡った。
「――♪~~~~」
一瞬で、空気が一変する。
それはまるで、色彩を失った白黒の世界に、一筋の鮮烈な光が差し込むような歌声。極寒の冬を溶かす、本当の『春』が訪れたかのような、圧倒的な美声がホールを満たしていく。
その歌声を間近で浴びた瞬間、私の頭の中に突如として、激しい静電気のようなノイズが走った。
視界がぐにゃりと歪み、脳裏に断片的な記憶の映像が強制的に再生される。
――額から、どくどくと赤い血を流している女の人。お母さんだ。
私はその胸に、壊れ物を労るように強く抱きしめられている。視界が激しく揺れている。走っているのだろうか。
『――ごめんね、セイ……っ』
(っ……痛い……! なに、今のは……!?)
激しい頭痛に襲われ、私は思わず額を押さえた。今見えたのは、お母さん? なぜ血を流していたの?
疑問が渦巻く中、不意にグイッと腕を強く掴まれた。
「終わった。帰るぞ、セイ」
「えっ……?」
ハル様の声でハッと我に返り、慌てて下のホールを見下ろした。
すると、奇妙な光景が広がっていた。貴族たちは一様に踊りを止め、呆然とした様子で2階のハル様を見上げている。だが、いつもなら『魅了』されて狂ったように群がってくるはずの彼らが、なぜか静かだった。その瞳にあるのは、ただの純粋な「素晴らしい歌声を聴いた」という驚きと感嘆だけだ。
「……変だな。いつもなら、魅了された奴らが気持ち悪い笑顔で寄ってくるはずなのに」
ハル様自身も、怪訝そうに眉をひそめている。
やがて、次に来た別の歌子が歌い始めると、貴族たちは魔法が解けたかのように、何事もなかったかのように踊りを再開した。
「ほら、行くぞ」
「あ、はい……っ」
ハル様に促され、私たちは舞踏会を後にした。馬車に揺られながら、私はさっきの記憶を思い返す。血を流す母の姿、そしてハル様の歌に魅了されなかった貴族たち。一体、何が起きているのだろう。
◇
それから数週間の間に、ハル様が貴族たちの茶会やお披露目会で歌を披露する機会が目に見えて増えた。
ブレンダン伯爵の思惑とは裏腹に、不思議なことに、ハル様の歌を聴いて魅了される貴族は一人も現れなかった。狂ったようにハル様を襲ってこようとする輩もいない。伯爵は「体調でも悪いのか」と不審がっているようだった。
一方、私の記憶の断片は相変わらずで、あの血を流すお母さんに抱かれて「ごめん」と言われるシーンから先へは、どうしても進展しなかった。
ある日の夕暮れ。ルーファス邸のバルコニーで、ハル様がいつものように発声練習を兼ねて歌っていた。私は少し離れた場所で、静かにその姿を見守る。
歌が静かに終わりを告げた、その時だった。パチパチと、聞き慣れない拍手の音が響いた。
「――変わったな、ハル。最近、すごく楽しそうに歌うようになった」
振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。
ブレンダン伯爵の実の息子であり、この屋敷の若当主――グレゴリー様だ。
「いたんですか、グレゴリーさん」
ハル様は少しだけ気まずそうに視線をそらす。
「おいおい、いい加減『お兄さん』って呼んでくれよ、ハル」
苦笑しながらハルの髪を乱暴に撫で回すグレゴリー様。ハル様がこの屋敷でまともに口を利き、本音で話し合える数少ない存在。血は繋がっていなくとも、彼らにとっては、お互いが唯一の「兄」であり「友」なのだ。
「嫌ですよ。めんどくさい」
「ハハハ! そうか、そりゃ冷たいな。――ではハルを頼んだよ、セイ」
グレゴリー様は私を見て、優しく微笑んだ。その瞳には、ハル様を心から大切に想う温かな光が宿っている。
「はい、グレゴリー様」
私が深く一礼すると、彼は満足そうに頷き、そのまま立ち去っていった。その背中を見送りながら、私はハル様に話しかける。
「ハル様が、そんな風に本音を言えるのは、グレゴリー様だけですね。グレゴリー様、ハル様が楽しそうに歌うのが見られて、すごく嬉しそうでした」
「……まあね。あの人は、この屋敷で唯一、裏表のない正直な人だから」
「正直、ですか?」
私の問いかけに、ハル様はバルコニーの柵に背を預け、少しだけ声を潜めて言った。
「言ってなかったっけ。僕の魔力は、人の心に作用しやすい。……その反対で、僕には『他人の心の揺らぎ』が視覚的に見えちゃうんだよ。嘘をついていたり、裏で何か汚いことを企んでいたり……そういう奴の近くにいると、空気が澱んで、酔ったみたいに気持ち悪くなる。でも――」
ハル様は、グレゴリー様が去っていった廊下の方を見つめ、フッと柔らかく微笑んだ。
「あの人には、それがないんだ」
その純粋な微笑みを見て、私は確信した。ハル様は、あの真っ直ぐな義兄のことを、心から信頼し、尊敬しているのだと。この歪んだ屋敷の中で、二人の絆だけは本物なのだと、私の胸も少しだけ温かくなるのだった。




