飾りとモリテ
……何の歌がいい?」
低く、風に乗って届いたその声は、どこか刺々しく、私を試すような響きを含んでいた。
「――いつもの、あの子守唄が聴きたいです」
私がそう答えると、ハル様は意外そうに小さく苦笑し、いつもの発声練習を始めた。
いよいよだ。私はごくりと唾を呑み、その瞬間を待った。
「――♪~~~~」
刹那、世界の色が変わった。
溢れ出してきた圧倒的な歌声、そしてあまりにも美しい旋律。その細い身体から放たれる圧倒的な音の奔流が、私の胸の奥に固く閉ざされていた、記憶の扉を激しく叩く。
(ああ、これだ……。この歌だ……っ!)
目の前の景色が霞み、脳裏に懐かしい光景がポツリ、ポツリと浮かび上がってくる。
『母さん――』
優しいお母さんのすぐ隣で、小さな私が一生懸命に薬草をすり潰している。上手だね、と頭を撫でられて、私は飛び上がるほど嬉しかったんだ。手についた薬草をうっかり舐めてしまい、あまりの渋さに泣きじゃくる私を見て、お父さんはお腹を抱えて大笑いしていたっけ――。
お父さんとお母さんの、あのどこまでも温かな眼差し。
失われていたはずの家族の温もりが、記憶の底から鮮烈に蘇ってくる。なぜだろう、愛おしいはずなのに、胸が張り裂けそうなほどに苦しい。もっと、もっとこの温かい記憶に触れていたいのに。
気づけば、私の頬を一筋の涙が伝い落ちていた。
私は哀しそうに、けれどどこか嬉しそうに、儚げな笑みを浮かべてその歌声を聴き入っていた。
やがて、夢のような時間は終わり、ハル様の歌が静かに締めくくられた。
ハル様はハッと息を呑みながら、涙を流す私を凝視している。その瞳は、激しい動揺に揺れていた。
「……なんで、そんな顔をするんだ。……何でお前を見ていると、こんなに僕の心がざわつくんだ? ――お前、僕の歌に『魅了』されないのか?」
「みりょう……ですか?」
初めて耳にする単語に、私は涙を拭うのも忘れて目を丸くした。
「お前……本当に何も知らないのか?」
ハル様は驚愕に目を見開いた後、何かを察したように、大きなため息を吐いてぽつりぽつりと語り始めた。
「僕の歌には、特殊な魔力が宿っている。――聴いた人間の心を強制的に奪う、『魅了』の力だ。虜にすると言ってもいい。一度でも魅了された人間は、狂ったように僕の歌を欲しがるようになる。何かに取り憑かれたみたいに、僕自身へ執着してくるんだ。……魅了された人間は、僕の言うことを何でも聞くようになる。貴族たちにとっては、人間が僕の歌で狂っていくその姿を見るのが、たまらなく面白い娯楽らしい。……だから僕は、ただの『飾り』なんだよ」
(飾り――)
ジャンのあの冷酷な言葉の意味が、点と線で繋がった。ハル様は、自分の意思とは関係なく、周囲を狂わせる道具として扱われていたのだ。
「僕の歌を聴いた奴らは、例外なく全員が魅了されて狂う。そうならない奴は、そもそも歌に1ミリの興味もない、心のない奴らだけだ。だから、お前も僕の歌をまた聴きたがったのは、僕に魅了されて執着しているからだと思ってた。……八つ当たりをして、悪かったな」
突然、寂しそうに謝罪の言葉を口にしたハル様に、私は慌てて両手を振った。
「い、いえっ! 私の方こそ、そんな恐ろしい秘密があるとは知らずに、本当にすみません……! 私がハル様の歌をもう一度聴きたかったのは、あなたの歌を聴くと、忘れてしまったはずの『両親との記憶』が戻るからなんです。私は、父と母の真実を知るためにここへ来ました。私は……ハル様の歌を、自分の目的のために利用したんです。私も、あなたを飾りとして扱うあの貴族たちと、何も変わりません……っ」
ハル様の歌声を純粋に求めていただけでなく、記憶を取り戻すための道具として利用しようとしていた。その自分の傲慢さが恥ずかしく、申し訳なかった。
しかし、ハル様はそんな私を見つめ、フッと柔らかく目元を和らげた。
「……違うな。お前は僕の喉を気遣って、煙から守ってくれた。僕の大切な友達(森の動物)の怪我を、真っ先に治してくれた。お前は僕を、ただの操り人形(飾り)としてじゃなく、一人の『歌い手』として見てくれたじゃないか」
「ハル様……」
「お前は、他の奴らとは決定的に違う。――いいよ。僕の監視役でも、モリテでも、好きになればいい。お前に見られているのは……不思議と、悪くない。なぁ、僕の歌を利用したいんだろ? だったら、その代わりに僕を全力で守れ。そしたら、お前のためにいくらでも歌ってやる」
思ってもみない救いの言葉に、私の思考が追いつかない。
利用すればいい――。貴族たちからお飾りとして搾取されてきたハル様だからこその、どこか切なく、けれど自分自身の『歌』に絶対の誇りを持っているからこその、力強い言葉。
本当に、いいのだろうか。私は……ハル様に、モリテとして認められたのだろうか。
森の中で見せてくれた、あの少年のあどけない、眩しい笑顔が、今度は私一人に向けられていた。
じわり、と胸の奥が熱くなる。
私は小さく息を吸うと、ハル様の前で静かに片膝を突いた。男装の衣服が擦れる音を響かせ、右の拳を自分の左胸へと強く、真っ直ぐに当てる。――それはパトリアでフリートさんから教わった、命を捧げる戦士の、至高の忠誠の礼。
「――はい。ハル様。私の命に代えても、あなたをお守りします」
真っ直ぐに彼を見上げる私の誓いに、ハル様は一瞬だけ驚いたように目を丸くした。
けれど、すぐにクスッと悪戯っぽく微笑むと、ハル様は自分の小さな拳をぎゅっと握り、そのまま私の額へと『ピトッ』と優しくくっつけてきた。
「……?」
ゴツン、ではなく、まるで子供が秘密を共有するときのような、優しくてどこか愛らしい小突かれ方。くっつけられた彼の拳の温もりが、額を通じて私の脳裏にじんわりと広がっていく。
(あぁ……。私は本当は男じゃないけれど。なんだか、生まれて初めて『男の友情』のようなものを知った気がした)
胸の奥が、くすぐったいような温かさで満たされていく。そんな私の内心を知ってか知らずか、ハル様はニカッと眩しく笑った。
「ふん、合格。口先だけのモリテはたくさんいるけど、お前は合格にしてやるよ、セイ。……これからよろしくな、僕の頼もしい護衛官」
そう言って拳を離したハル様は、満足そうにバルコニーの柵へともたれかかり、遠くの青空を見つめた。
額に残るくすぐったいような温もりを意識しながら、私は胸の拳にさらにギュッと力を込める。
この人の歌を、この人の笑顔を、今度は私がモリテとして全力で守り抜く。
確かな熱い決意と共に、私は心から、この少年に仕えようと誓ったのだった。




