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〜モリテ〜 痛み分け回復師  作者: 高星 舞
ルーファス家編
17/30

無口なハル

窓際の柔らかな光の中に、その少年は佇んでいた。

陽光に透ける美しい金糸の髪、気品のある凛々しい顔立ち。息をのむほどに圧倒的なその美しさに、私は一瞬、言葉を失って見惚れてしまった。そのせいで、挨拶が一歩遅れてしまう。

「あ……今日からハル様のモリテ(護衛)を務めさせていただきます、ロワール・セイです。よろしくお願いします」

首に巻いたチョーカーのおかげで、私の声はいつもより一段低い、少年の響きになって部屋に響いた。

しかし、ハル様は私と一度だけ冷ややかな目を合わせると、すぐに興味を失ったように窓の外へと視線を戻してしまった。完全な無視だ。

何も答えないハル様の横顔を見つめながら、私は隣に立つ隊長のジャンに声を潜めて囁いた。

「あの……ジャンさん。私の声、聞こえなかったんでしょうか?」

「チッ、いつものことだ。行くぞ」

ジャンは面倒くさそうに吐き捨て、私を促して部屋を出た。パタンと扉が閉まった廊下で、私は首を傾げる。

「あの……どうしたら、ハル様と仲良くなれますか?」

「知らん。そんなもの、ハル様に直接聞け。お前の仕事はあくまで『監視』だ。ハル様が部屋の外に出るときは絶対に目を離すな。屋敷内だろうが外だろうがな。……まあ、あのお飾りとまともに仲良くなれた奴なんざ、一人もいねえがな」

ジャンは鼻で笑うと、そのまま自分の詰所へと戻っていった。

それから、私はハル様の部屋の前でじっと待機を続けた。

半刻(約一時間)ほどが過ぎた頃、不意にガチャリと扉が開いた。中から出てきたハル様は、私に声をかけるでもなく、すたすたと無言で歩き出す。私はその後ろを、一定の距離を保ちながら静かに追った。

ハル様が向かったのは、屋敷の最上階にある広大なバルコニーだった。

見晴らしの良いその場所へ一歩足を踏み入れた瞬間、私はかつて過ごしたパトリアの寮の屋上を思い出し、胸が少しだけきゅっとなる。

「――♪~~」

ハル様が、小さく声を震わせた。

歌、ではなかった。それは喉を鳴らすような、入念な発声練習。それでも、その場に響き渡った透き通るように美しい声には、はっきりと聞き覚えがあった。

(あの日、月夜のパトリアで聞いた子守唄……。やっぱり、この人だったんだ)

胸の奥が、トクンと跳ねる。また聴きたい。あの、私の心を激しく揺さぶった彼の歌声を。

発声練習が終わると、ハル様はやはり一言も発することなく、自室へと戻っていった。

それから数日、ハル様は一日に一度バルコニーへ向かっては発声練習だけをこなし、食事の時以外は頑なに部屋から出ようとしなかった。そんな静かな膠着状態の日々が、しばらく続いた。

ある日の午後。ルーファス邸の広大な庭園に、大勢の庭師たちがやってきた。

敷地内の雑草を刈り取り、植木を手入れしていく。彼らは刈り取った大量の枯らし草や枝を、庭の片隅に集めて一斉に燃やし始めた。モクモクと立ち上る白い煙と、独特の焦げ臭い匂い。この作業がすべて終わるには、まだしばらく時間がかかりそうだった。

そんな中、ハル様がいつものように発声練習をしようと部屋を出てきた。私はその前にそっと回り込み、声をかける。

「ハル様。本日は敷地内で、庭師たちが大量の草木を焼いております」

自分の行く手を遮られ、ハル様は不機嫌そうに小さく眉をひそめた。私はその美しい瞳を真っ直ぐに見つめ、言葉を続ける。

「バルコニーまで煙が流れてきています。あの煙の中で練習をされては、大切な喉を痛めてしまうかと」

「……っ」

ハル様の動きが、ピタリと止まった。彼は私を鋭く一瞥すると、踵を返して今度はまったく違う方向へと歩き出した。向かった先は、当主であるブレンダン伯爵の部屋だ。ハル様は部屋へ入るとすぐに出てきた。その手には、一枚の上質な紙が握られている。

そのまま、ハル様はルーファス邸の外門へと向かった。後ろを追う私を気にする様子もない。

ハル様が門番にその紙を差し出すと、門番は恭しく一礼して重い鉄門を開いた。外へ出るための、伯爵直筆の『外出許可証』のようだった。

敷地を出たハル様は、屋敷の裏手に広がる鬱蒼とした森の中へと迷いなく入っていく。

心なしか、彼の足取りは屋敷の中にいる時よりもずっと軽そうに見えた。

「――♪~、~~♪」

ふいに、彼の唇から小さなメロディが零れ落ちた。発声練習ではない。この優しい鼻歌は――あの夜、私が耳にした、切なくも温かいあの子守唄の旋律だ。

思いがけず耳にすることができた彼の歌声に、私の心はパッと弾む。そんな私の高鳴りなど露知らず、ハル様はさらに森の奥へと足を進めていく。

すると、奇妙なことが起きた。

木々の隙間から羽ばたいてきた一羽の小さな小鳥が、そっとハル様の肩へと止まったのだ。

それを合図にするかのように、鬱蒼とした森の奥から、一匹、また一匹と、ハル様の後を追うように野生の動物たちが姿を現し始めた。

犬、狐、立派な角を持った鹿。色とりどりの小鳥たちが、木々の枝からハル様をじっと見つめている。

ハル様が動物たちと視線を合わせ、優しく鼻歌を紡ぐと、彼らは警戒心を完全に解いてハル様の足元へと擦り寄ってきた。

それはまるでお伽話の一幕のような、あるいは神秘的な魔法のような、あまりにも美しい光景だった。言葉は通じずとも、ハル様は彼らと至近距離で完全に打ち解け合っている。

その動物たちの中心で、ハル様は笑っていた。

屋敷で見せる氷のような冷徹さは消え失せ、そこにあったのは、年相応の、どこまでも温かで無邪気な少年の笑顔。

(……ああ、これが。この優しい笑顔が、ハル様の本当の姿なんだ)

そう思った、次の瞬間だった。

ハル様の顔が、痛ましげにぱっと曇った。同時に、美しい鼻歌もピタリと途切れてしまう。

異変の理由は、すぐに分かった。ハル様にそっと頭を預けてきた一匹の鹿。その右の後足が赤く染まり、血がじわりと滲んでいたのだ。ギザギザに裂けた痛々しい傷口を見るに、人間が仕掛けた凶悪な罠にでも掛かってしまったのだろう。

ハル様が悲しそうにその傷口に手を伸ばそうとした時、私はすっと彼の隣へと進み出た。

「ハル様。そのまま、その鹿を優しく撫でていてあげてください」

「え……?」

驚くハル様を余所目に、私は鹿の怪我をした足元へとしゃがみ込み、そっと両手をかき寄せた。

胸の奥から温かな魔力を引き出し、痛みを和らげるように光を放つ。――初歩の初歩『回復』だ。今回はかすり傷程度のため、私への反動の痛みもない。

光が収まると、鹿の足の傷は綺麗に塞がっていた。

一瞬で痛みが消えたことに驚いたのか、鹿は驚いたように小さく跳ねると、そのまま元気に森の奥へと駆け戻っていった。

「ふぅ……浅い傷で良かったです。これ以上重い怪我だと、私の力では完全には治しきれませんから」

ホッと息を吐き、立ち上がろうとした私に、頭上から硬い声が降ってきた。

「……お前、回復師なのか?」

ハル様が、初めて私に自ら話しかけてくれた。その事実に驚きつつも、私は男としての演技を崩さないよう、頭を掻いて苦笑いを浮かべた。

「あはは、一応、そうですね。ちょっと訳ありの身ではありますけど……一応は、回復師です」

「ふーん……」

ハル様は少しだけ興味深そうに私を凝視したが、それ以上は深く追及してこなかった。

けれど、私はハル様に対して、ここに来た初日からずっと胸に抱いていた疑問を、どうしても抑えきれずに口にしていた。

「ハル様は……人前では、お歌いにならないのですか?」

ずっと、彼の本格的な歌が聴ける瞬間を心待ちにしていた。

けれど、屋敷の中の不穏な空気を感じ取っていたからこそ、今まではどうしても口にできなかったのだ。ハル様が、何かもっと深い事情を抱えているのだと分かっていたから。

「……お前、僕の歌を知っているのか」

ハル様の声から、温度がすっと消えた。

「はい。一度、パトリアの寮に来られた際、あなたの歌を聴きました」

ハル様は押し黙り、私の目をじっと見据えた。その瞳には、侮蔑と、諦念が混ざり合っている。

「……お前も、あの奴らと同じなのか?」

突き放すような、刃のように冷たい目。ハル様は少しの間、何かを測るように考え込んでいたが、やがて自嘲気味に口元を歪めた。

「いいよ、僕の歌を聴かせてやる。……もし、歌を聴いた後も、お前が『今のまま』でいられたら。僕のモリテでも監視役でも、好きに居座ればいい」

今のままでいられたら――? その奇妙な言葉の意味を測りかねている間に、ハル様は踵を返し、森を抜けてルーファス邸へと戻っていった。

そのまま向かったのは、いつもの最上階のバルコニーだ。

外の野焼きはすでに終わっており、辺りには遮るもののない、澄んだ美しい空気が流れていた。

バルコニーの先端に立ち、ハル様が静かに振り返る。

「……何の歌がいい?」

低く、風に乗って届いたその声は、どこか刺々しく、私を試すような響きを含んでいた。


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