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セイの巣立ち

あの月夜の告白から、数日。

セイの身体はすっかり元通りになり、いつもと変わらない平穏な日常へと戻っていた。仲間たちと汗を流し、美味しいご飯を食べ、温かい夜を過ごす。そんな愛おしい日々の最中、廊下でヴァンに声をかけられた。

「セイ。会長がお前を呼んでるぞ。今すぐ応接間に来いとさ」

「会長が……? 分かりました」

何かあったのだろうか。セイは首を傾げながら応接間へと向かい、静かにドアをノックして中に入った。重厚な書斎机の前には、いつになく真剣な面持ちをした会長が座っていた。

「セイ、急に呼び出してすまない。――単刀直入に言う。お前をモリテとして正式に雇いたいという、直々の申し出が届いた」

「私を……ですか?」

いきなりの通達に、セイは驚きで小さく目を見開いた。そんな彼女を見つめながら、会長は机の上の手紙を開いて言葉を続ける。

「雇い主は、現当主のルーファス・ブレンダン伯爵。そして、お前が就くべき護衛対象は、その養子である息子の『ハル』。年は19歳だ。彼は、大劇場や貴族たちの集会で歌を披露する『歌子うたうたい』としての活動をしており、その歌には、何か特別な魔力が宿っているという噂がある」

会長は手紙に同封されていた、金縁の豪華な『モリテ指名書』をセイの前へと差し出した。そこには確かに、パトリアに所属する「セイ」というモリテを名指しで雇用したい旨が、高圧的な美しい文字で記されている。

「先日の草爺の騒動の際、ルーファス家の視察員がお前の姿を遠目から見ていたらしい。お前の冷静な状況判断、そして周囲のモリテたちとの強固な信頼関係を見て、何か感じるものがあったそうだ。……だが、今回の任務は純粋なモリテ(護衛)というよりは、このハルという少年の『監視役』としての側面が強い。強さや回復師としての力量よりも、歳の近い、扱いやすい駒を側に置きたいという向こうの思惑だろう。――そして、先方から一つ、妙な条件が出されている」

会長は、指名書の最下部に書かれた一文を、ぶ厚い指先でトントンと叩いた。

「『男として振る舞い、素性を隠して監視すること』――もしも女であることが周囲、あるいはハル本人に露見した場合、その場で即座に契約を破棄し、パトリアとの縁も切る、と書かれている」

男装をして、男として潜入しろという無理難題。

しかし、その奇妙な条件を聞いても、セイの眉は一つとして動かなかった。そんな彼女の頑なな態度を見て、会長は小さくため息をつき、父親のような苦言を呈した。

「正直に言って、腑に落ちない点があまりにも多すぎる。どう裏を読んでも、危険な使い捨ての依頼だ。会長としては、お前にこの仕事をおすすめすることはできない。……今のパトリアなら、お前をちゃんと一人のモリテとして、人間として大切に扱ってくれる真っ当な雇い主をじっくり待つことだってできるんだ。お前にとって、これがパトリアに来て初めての仕事になる。――断るも受けるも、すべてはセイ、お前の自由だ」

会長は指名書に目を落とし、そこに書かれた返答の期限を告げる。

「急がせるようで本当に心苦しいが、先方の都合で明日までに結論を出してほしい。じっくりと、よく考えてくれ。頼んだぞ」

「……はい。分かりました」

一礼して応接室を出たセイは、心臓のなかのざわつきを抑えられないまま、自室へと戻ってベッドに腰掛けた。

(男装をして、ハルという人の監視……)

もしも、半年前の――ただ目的もなく死に場所を求めていた頃の自分なら、こんな怪しい依頼であっても、きっと二つ返事で受けていただろう。使い捨ての捨て駒になっても構わない、むしろ好都合だとさえ思っていたはずだ。

けれど、今は違う。変わってしまった。

このパトリアのみんなが大好きで、ここにいる時間が何よりも愛おしい。できることなら、ずっとこの温かいパトリアで、みんなと一緒に暮らしていたいという未練が、今の自分には確かにあった。

(それでも……)

胸に手を当てると、あの月夜に誓った想いが、熱く脈打っているのが分かった。

私は、モリテとして自分の足で生きたい。父の剣術を、母の回復の知識を無駄にしたくない。捕らわれた二人のことも、もっとちゃんと自分の目で知りたい。

――そして何より。私の止まっていた記憶の鍵を壊してくれた、あの美しくて哀しい歌声を、もう一度だけ近くで聞いてみたい。

例え、この不穏な依頼に対して、フリートさんやヴァン、ミーナさん……パトリアの家族みんなに、猛反対されてしまったとしても。

「……みんなに、ちゃんと伝えよう」

拳を強く握りしめ、前を向いた。自分の意志で、運命の渦中へと飛び込むために。

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