月夜の告白
目を覚ますと、部屋の灯りはすべて消えており、辺りは深い闇に包まれていた。
いつの間にか、夜になっていたらしい。
優しく差し込んでくる真っ白な月の光に、セイはそっと自分の両手をかざしてみた。
「……生きてる」
指先までしっかりと血が巡り、いつもの自分の感覚が戻っている。
ゆっくりと身体を起こすと、ベッドの縁に、ミーナがくたびれた様子で倒れかかって眠っていた。付きっきりで看病してくれていたのだろう。セイは愛おしさを覚えながら、彼女の肩へそっと毛布をかけ、起こさないように静かに部屋を出た。
吸い寄せられるように、足は自然と稽古場へと向かっていた。
重い扉を開けて中に入ると、不思議とざわついていた心がすうっと落ち着いていく。
昼間の熱気と喧騒が嘘のように消え失せた、誰もいない静まり返った稽古場は、まるで全く別の世界に迷い込んでしまったかのようだった。
天窓から差し込む月明かりに照らされたその場所は、演劇会場のステージのようにも見える。青く淡いスポットライトを浴びるようにして、セイはゆっくりと木床の段上へと上がった。
張り詰めた空気の中、昼間に耳にした、あの風に流れる旋律がふと脳裏をよぎる。
セイは、引き寄せられるようにその歌を小さく口ずさんだ。
「――♪~~~~」
あれは、間違いなく子守唄だった。
脳裏に浮かぶのは、母のあったかくて、柔らかな笑顔と、自分を撫でてくれた優しい手。
(どうして、忘れていたんだろう……。お母さんのこと)
歌うほどに、瞳から大粒の涙が溢れ出す。胸の奥が、熱く激しく焦がされるようだった。
耐えきれなくなったセイは、近くの壁に立てかけられていた木刀を無造作につかみ取ると、一心不乱に空を切り裂き始めた。
ブンッ! ブンッ! と、静寂を切り裂く風切り音が響く。
目の前に見えない相手を想定し、激しく追い詰めるように剣を振るう。
この胸をかき乱す感情を振り払うためなのか、それとも、ようやく取り戻した温かい記憶を二度と忘れないよう身体に刻み込むためなのか、自分でも分からなかった。
「真夜中に一人で猛稽古か。……もう身体は動いていいのか?」
静寂を破り、暗闇の奥から低く落ち着いた声が響いた。
ハッとしてセイが振り向くと、そこには腕を組んだフリートが佇んでいた。
「あっ……。はい、もうすっかり動けます」
思いがけず会えた嬉しさとは裏腹に、気まずさから言葉が詰まってしまう。
フリートの顔は、月明かりに青白く照らされていた。
怒っている。いや、どこか悲しげにも見えるけれど、やっぱり――。
フリートは無言のまま、セイの目の前まで歩み寄ってきた。
「あのっ……! 今日は本当にごめんなさい! 私のせいで、皆さんに多大なご迷惑をおかけしてしまって――」
反射的に頭を下げて謝罪の言葉を口にするセイ。しかし、その言葉の途中で、フリートの大きな手がセイの頭の上にそっと置かれた。
「――……」
フリートは何も言わず、ただセイの髪をくしゃくしゃと不器用に撫で回した。
「はぁー……。お前は、なんでいつもそればっかりなんだよ。人のことばかり考えて、いつも自分のことを一番後ろに回して蔑ろにする。……今日だってな、俺がどれだけ肝を冷やして心配したと思ってんだ」
頭に乗せられたフリートの手、その指先が、酷く冷たかった。
夜風に晒されながら、ずっとここで私が出てくるのを待っていてくれたのだろうか。
「セイが……お前が生きていてくれて、本当に良かった」
フリートのぽつりと漏らしたその一言が、セイの心の奥底と激しく共鳴する。
(あぁ……母さんと同じだ)
「フリートさん……」
セイの瞳から、再び涙が溢れ出した。
「私、今日……母親のことを思い出したんです。少しだけ、でも、はっきりと。母の温もりや、私に注いでくれた愛情、あの子守唄。……私に『生きていてほしい』って願ってくれていた、その思いも」
溢れ出した記憶の欠片を愛おしむように、胸に手を当てる。
「ここに来るまでの私は……誰にも必要とされていないって、誰とも繋がっていないって、本気で思っていたんです。でも、このパトリアでの生活がすごく楽しくて。……あぁ、血が繋がっていなくても、こんな形の『家族』があってもいいんだなって。みんなでご飯を食べて、稽古して、笑って、くだらないことで喧嘩して、助け合って。……今日の草爺のことも、みんなが必死に支えてくれて」
止まらない溢れる気持ちが、言葉となって口から溢れ出していく。
「私も、救われたんです。ここにいていいんだって。家族なんだって」
熱くなりすぎた自分の気持ちに少しだけ気恥ずかしくなり、セイは話のトーンを落とした。はにかむように、フリートの視線から少しだけ目を逸らす。
「フリートさんと稽古をしていると、いつも父の姿を思い出すんです。剣を振るたびに、父との記憶に触れられるような気がして。……でも、今まで母のことだけは、どうしても思い出せませんでした。まるで、記憶に頑丈な鍵がかけられているみたいに。だけど今日、門の方から聞こえてきたあの綺麗な歌声が、その鍵を壊してくれたんです。だから――私、もっと知りたいんです。いつか、モリテとして一人前になって外の世界に出て……今日、あの歌を歌っていた人に、会ってみたいです」
セイは、これまで心の奥底に大切に秘めていた、偽りのないこれからの願いをすべて吐き出した。死ぬための道具ではなく、生きて、その先にある真実を確かめるために。
「……そうか」
フリートは、月明かりの下で嬉しそうに未来を語るセイの言葉を、静かに、一言も漏らさぬように聞いていた。そしてゆっくりと首を縦に振り、優しく、父親のような温かい微笑みを浮かべた。
(そうか。……ついに来るんだな。お前が、この場所から旅立つ時が)
新たな決意を胸に、真っ直ぐな瞳で未来を見つめる愛弟子――いや、実の娘のような少女の姿を、フリートは眩しそうに見つめる。胸の奥に灯る、どうしようもない寂しさを、「あいつが前を向けたんだから」と必死に宥めた。
セイがこれから歩んでいく、光に満ちた、けれどきっと波乱に満ちた未来の道を思い描きながら。
フリートは愛おしそうに彼女の頭をもう一度撫でると、どこまでも澄み切った、冬に近い真夜中の寒空を静かに見上げた。




