第七十二話『揺れない天秤』
村に向かう馬車の中。モニカとクララは向かい合って座っていたが、会話は少なかった。
もう何度かクララがモニカに声をかけようとしたが、その表情を見たらとても話しかけられる状態にない。うつむき、自分の膝に乗せた手を静かに見つめている。その表情は悲しんでいるようでもあり、思い詰めているようでもあった。
きっと大丈夫だ。何かの間違いかもしれない。そんな言葉をかけるべきかと思ったが、無責任な発言はあとで余計に傷つけることになるかもしれない。そう思うと、クララも沈黙せざるを得なかった。
クララは静かに手紙を開いてもう一度内容を読む。走り書きされたようなその文字は、モニカの母マルテが倒れた以上のことは伝えていない。それだけで、緊迫した状況を的確に伝えていた。
詳しく書かず、倒れたとだけ書いているということは、マルテはいきなり倒れてしまったということだ。何の予兆も気配もなかったからこそ、この文章の少なさと走り書きの文字になってしまったのだ。
そしてモニカに帰ってきてほしいという内容。王族に仕える親衛隊なのだから、外出に融通が利きにくいと想像するのは難くない。クララやモニカが村に帰った時にも、そのことは話しているから理解しているはず。それを理解したうえで帰ってきてほしいといっているのだ。それだけ深刻な状況ということなのだろうか?
ちらりとモニカを横目で見てみる。相変わらずモニカは膝の上の手を見つめながら考え込んでいる。モニカも同じようなことを考えているのだろうか? 表情だけではそれを知ることはできない。
村までの道が遠い……。
* * *
「ああ、モニカちゃん帰ってきてくれたんだね。よかった!」
村につくと、クララの父親が待っていた。少しホッとしたような表情を浮かべて二人に駆け寄ってくる。
「おじさん、お母さんはなんで倒れたんですか? 薬は買えているはずですよね?」
モニカがすぐさま質問する。クララの父は表情を曇らせた。
「ああ、もちろん薬は飲んでいる。それでずっと症状を抑えられていたんだ。とにかく移動しながら話そう」
クララの父がそう言って走り出し、モニカとクララもそれに続く。
話によれば、薬の効きが悪くなってきたのは最近だという。薬を飲んでも薬の発作がたびたび起こり、ベッドに横になることが多くなってしまった。そしてついに先日倒れてしまったということだった。
薬を処方してくれている医者によれば、病気の毒性が強くなったり、薬に耐性ができてしまったりすると症状を抑えられなくなることはあるのだという。ただ、それは長年薬を処方し続ければの話であって、わずか一年や二年でそんな状況に陥るのは珍しいという話だった。
「そんな! 珍しいで片付けられたらたまらないわよ!」
クララが激昂して父親に言った。
「気持ちはわかるが、私に言っても仕方ないだろう」
「……ごめんなさい」
クララは少し気持ちを落ち着かせて口を閉じる。
叫んだクララと対照的に、モニカはずっと口を閉じたままだった。時折頷いたりはするから話は聞こえているのだろう。声を出すことすらできないほどにショックを受けているのだろうか?
小さな村だから、話を聞いているうちに家の前につくことができた。
三人がドアの前に立ちどまる。クララと父親はモニカを振り返った。ここはモニカとマルテの家だから、このドアはモニカが開けなくてはならない。
モニカが一歩前に出て取っ手をつかんだ。そのままゆっくりと回して静かに扉を開く。中にはいってマルテの部屋のドアを開けると、ベッドの上にマルテが横になっていた。
「……お母さん。お母さん!」
ずっと静かだったモニカが、少しだけ取り乱したような声を上げる。そのモニカの肩を、クララの父親が優しく叩いた。
「大丈夫、眠っているだけだ。倒れてからだいぶ唸っていたが、さっきようやく落ち着いたんだ」
言われて耳を澄ませてみれば、マルテの小さな寝息が聞こえてきた。その小さな息遣いが、体が弱っているようにも感じられた。
「……医者から説明を聞いた方がいいだろう。私とクララが迎えに行ってくるから、モニカちゃんはマルテについていてあげてほしい」
そういって父親とクララが部屋を出ていく。クララが部屋を出ていくとき、少しだけ涙をこぼしたように見えたが、モニカにははっきりとは分からなかった。
「お母さん……」
寝かせておいた方がいい。そう思ったが、思わず小さく母を呼んでしまった。前にあった時よりやつれたように見える。顔色も悪い。寝息は小さく落ち着いているようだが、弱々しい呼吸は聞いていて心配だ。
今ここで声をかけなかったら、生きているうちに声を届けることができなくなるかもしれない。そう思ったら声をかけずにはいられなかった。
そしてマルテの呼吸が一瞬止まり、瞼が開いた。
「モニカ……?」
「お、母さん……」
マルテはモニカの姿を見つけると、優しく微笑んでその髪を撫でる。
「よかった……。もうあなたの綺麗な髪を撫でることはできないと思っていたわ」
不思議と、マルテが目を覚まして声をかけてくれても心は乱れなかった。取り乱すことなく言葉が浮かんでくる。
「お母さん苦しい? 薬は飲んだ?」
「ええ、大丈夫よ。薬のおかげでだいぶ楽になったわ」
嘘だ。薬は本当に飲んだのだろうが、声に元気がない。聞いていた通り、薬が効かなくなって苦しんでいるのだ。
「入院しない? 村は空気が綺麗だけど、医者がずっといるわけじゃない。薬を処方する以外に治療法がない。でも町中の病院に入ればずっとお医者さんがいる。薬を飲ませる以外にも何かできるかもしれない。お母さんご飯食べられるの? 無理でしょ? 村の人が来ても迷惑になるからって『もう食べた』って言ってごまかしてるんじゃない?」
モニカの言葉にマルテは笑う。
「娘は何でもお見通しね」
「病院に入ればそんな遠慮をすることもない。病院が栄養のあるご飯を作ってくれる。スプーンがモテなければ食べさせてもくれるよ。そうしているうちに、病気だって……治るかもしれない。もしかしたら、他の治療法が……見つかる……ことだって……」
涙をこらえられなかった。マルテの症状はどう見ても末期だった。仮に完全な治療法が見つかったとしても……もう。
「モニカ、そんなことをしてもちょびっと長生きするくらいにしかならないわ。それだったら村で息を引き取りたいの」
「そんなこと言わないでよッ!」
今日初めてモニカは叫んだ。母親が生きるのをあきらめているようなことを言ったから叫んだ。もう間に合わないのだということを認めたくなくて……叫んだ。
マルテは再びモニカの髪を撫でる。
「悲しそうな顔をしないでモニカ。だいたい、今だって私の薬のせいでお給料はギリギリなんでしょう? この上入院までしたらお金が足りなくなるわ。一年延びるかも怪しい私の命のためにそんなことをする必要はないの」
「お金だったら何とでもなるよ! 私は……あ」
モニカが勢い良く立ち上がると、床に音を立てて何かが落ちた。それは日の光を浴びて眩しく二人に自分の存在を主張した。
「あらあら、主からもらった大切なものなんだから、大事にしないとダメでしょう?」
「これは……その……」
床に落ちたのは、モニカがこっそりと持ってきた髪飾りだった。
かつてノルベルトがゲームに勝った褒美としてモニカに手渡した青い龍の髪飾り。その髪飾りの隅々にまで青い宝石がちりばめられ、幾重にも組み上げられて龍の形を表現している。これを金に換えればすぐにでも資金が用意できるのだ。
「よく見せてちょうだい」
マルテに言われ、モニカは静かに髪飾りを持ち上げてマルテに差し出す。
「本当に綺麗……」
マルテは、触りはしなかったがその青の美しさに目を細め、うっとりとしたような声を出した。
「お母さん……これ」
「売らないのよね?」
マルテの言葉に、モニカは目を見開く。
「大切にしなさいよ。あなたが初めて主からいただいたものなんですから」
「母さん、なんで?」
「売るつもりがないのが分かったのか? かしら」
マルテがそう言って優しく微笑んだ。
「娘が母のことを何でもお見通しなんですもの。母だって娘のことは何でも知っているわ。あなたは私が声をかけたとき、一瞬安堵した表情を浮かべた。私と最後の言葉を交わせるということに安心してそんな声を上げたんでしょう?」
モニカは返事をすることができなかった。何も言わなくてもすべて伝わっていることが分かったから返事をしなかった。
「あなたは今もしっかりと髪飾りを手に握っている。壊れてしまうんじゃないかと思うくらいしっかりとね。きっと商人がそれを見たら悲鳴を上げるわよ? 手袋をつけろってね。宝石の価値が分からないのは私譲りなんでしょうね? クスクス……」
マルテはおかしそうに笑った。
「あなたが力強く握りしめているのは意思の証。誰にも譲らないというあなたの気持ちの表れ……。あなたが髪飾りを持ってきたのは天秤に乗せるためだったんでしょう? 母の命と、髪飾りを天秤にかけてどちらに傾くか知りたかった。でも……天秤は一ミリたりとも傾くことはなかった。髪飾りを取り出すのを忘れてしまうくらい、決着がつくのはあっさりだった」
そう、モニカは自分の中で二つのものを天秤にかけた。母の命と……いや、母への思いとノルベルトへの思いをだ。
マルテを愛していないなんてことはない。ありえない。だって、本当の本当はそれが目的で親衛隊に入隊したのだから。
だが、ノルベルトに髪飾りをもらった時……いや、もらってからこの一年間積み重ねてきた時間が、モニカの目的を変えていた。
『ノルベルトに最も近い親衛隊に、親衛隊長になる』
最初は漠然とそうなりたいと思っただけだった。だが、この一年ノルベルトと過ごしてきて、ノルベルトのことを知って、ノルベルトの周りに集った仲間たちと暮らしてきて、その思いは強固なものになって行った。
この一年間でノルベルトへの思いが、十数年一緒に過ごした母への思いを超えた。自分でも驚くくらいに……母の姿を見た瞬間に、自分の中ですべてが決着してしまったのだ。モニカはたとえ病気が完治する薬を目の前に差し出されても、髪飾りを手放しはしない。それがノルベルトへの忠誠を汚す行為になると思うから、モニカはそれを絶対にしないのだ。
ただ……母への愛も絶対に存在する。だから……。
「ご、めんなさいぃ……」
モニカは涙をボロボロこぼし、母親の体にすがりつくことを我慢できなかった。
「ごめんなさいお母さん! 私は……わだしは、親不孝者だぁー……」
涙声で謝りながら母親にすがりつく。マルテはそんなモニカの頭を撫でた。
「大丈夫。大丈夫よモニカ。モニカは親不孝なんかじゃないわ。私の自慢の娘なんだから」
マルテもモニカの気持ちはすべて理解している。すべて理解しているから、今モニカがどれだけ自分に申し訳ないと思っているのかもよく分かっている。
母として、最後にできるのはその気持ちに決着をつけやすくしてやること。最後に手助けをしてやることだ。
(母の死を乗り越えていきなさい。モニカ……)
マルテは目をつむってモニカの声に耳を傾けた。
「私は結局何もできなかった。お母さんのもとを離れて、世話もしないで自分のしたいことを優先したんだ!」
「あなたの人生だもの。あなた自身の人生を優先しなくてどうするの? 私にこだわって、自分のやりたいことが一切できなかったなら、私の方が申し訳なくて後味が悪い人生になってしまっていたわ」
マルテはモニカの頭を撫でる。
「人の命より……お母さんの命より、宝石の方を選ぶなんて人間として最低だよ!」
「あなたが選んだのは宝石じゃない、ノルベルト様への愛よ。母への愛と主への愛。その二つを見比べたとき、あなたには主への愛の方が尊く見えた。それを選ぶことの何が問題なの?」
マルテはモニカの背中をさする。
「こんな……こんな髪飾り、ノルベルト様は嫌いなんだ。目障りだから私にくれたんだよ! 売ってしまえとも言った。これを使って母親を救えとそういったんだ! それをしなかった私は……」
「きっと世界一忠誠心の強い部下でしょうね? 売ってしまえ、いらないから処分しろ。そう言われて手渡されたものなのに、あなたは主から頂いたものだから大切にした。安易にお金に換えたりはしなかった。身につけて見せびらかすこともせず、ただただ棚の中にしまって所持し続けた。乱雑な私の娘が持っていたにしては髪飾りが綺麗すぎるわ。手入れもしなかったのでしょうけど、持ち出したりもしなかったんでしょう?」
モニカは力強く髪飾りを握りしめた。
「でも……でもでもでもッ!」
「ねえ、モニカ?」
マルテは優しくモニカを抱きしめた。
「もういいんじゃないかしら? あなたは私のことが大好きで、ノルベルト様のことはもっと大好き。たったそれだけのことなのよ。人は時にあらがいようのない不幸に見舞われることがある。私はその不幸の中で、最後にモニカと会って話ができる幸福を味わえた。それでいいでしょう?」
「お母さん……うん。ありがとう……」
モニカは優しくマルテを抱きしめた。マルテは反対に力強くモニカを抱きしめた。爪をたて、それが背中に食い込むほど強く。まるで苦しんでいるかのように。
「ぐ……くぅ!」
「お母さん? お母さん!?」
マルテが突然苦しみだした。ベッドにあおむけで倒れこんで胸を押さえ、体をよじって痛みに悶える。
「お母さん! しっかり、しっかりして!」
「どけ! 娘ッ!」
モニカが取り乱してベッドに身を乗り出すと同時に、部屋のドアが開いて三人の人影が部屋に入ってきた。
「モニカ大丈夫!?」
「モニカちゃん! ああ、マルテ! 早く何とかしてくれ!」
三人のうちの二人は、クララとその父親だった。三人目は医者がよく持っているカバンを持っていたから医者だろう。医者はカバンから紅い液の入った瓶を取り出してコップに薄めてそそぐ。
「モニカ? モニカ!?」
クララの声が遠い。タイミングから言って三人は扉の前で待っていたのだ。二人の会話が……母と娘の最後の会話が終わるのを待っていた。
「お母さんが……死ぬ?」
苦しみ方が尋常ではなかった。周りの焦った表情からも間に合わないのが理解できた。医者が急いで薬を準備しているが……もう。
「さようなら……ごめんなさい」
最後にもう一度そう母に伝えたかったが、モニカの意識は遠のいてしまい、やがて消えた。




