第九話 ネクロアは王都を焼かずに降伏させる
城壁の上に立つ市民兵の一人は、パン屋の徒弟だった。
弓を握ったことは一度もない。
軍務卿の兵に連れてこられ、矢を三本渡されただけだ。
彼は城外の魔術師を見下ろし、恐ろしい怪物を想像していた。
ところが見えたのは、荷車を押す人々と、水を運ぶ術師たちだった。
隣の老兵が呟く。
「あいつら、戦いに来たのか、炊き出しに来たのか分からんな」徒弟は笑いそうになり、すぐに口を閉じた。
笑えば反逆者にされるかもしれなかった。
外門の守備隊長は火矢の数を確かめていた。
城壁を守るため、外町の屋根を焼くよう命じられている。
そこには自分の娘が暮らす家もあった。
使者が差し出した地図には、井戸、病院、避難路と火矢の届く範囲が記されていた。
添えられた一文は短い。
『こちらは町を焼かない。
あなたも焼かないでほしい』。
隊長は火矢の束を覆う布を戻し、部下へ命じた。
「命令が来ても、私の確認なしに火をつけるな」
ダリオが古い水路図を開くと、北の水門に赤い印が付いていた。
「ここを閉じれば城内の病院へ水が届きません」リュシアは敵の水門を利用して攻め込む案を示したが、ネクロアは退けた。
「病院を人質にして門を開かせたら、王国軍と同じよ」ダリオは水路の脇にある保守用の細い通路を指した。
「ここなら水を止めずに点検できます」ネクロアは術者を三人だけ送り、水門の破損を確かめさせた。
水門の内側には、閉鎖を命じられた若い番人がいた。
彼は鉄の取っ手に手をかけたまま、対岸の魔術師を見つめた。
「開ければ反逆者だ」ダリオは武器を持たず、壊れた弁の位置だけを示した。
「閉じれば病院の子どもたちが困る」番人は城壁の方を振り返った。
軍務卿の旗は遠く、病院の屋根はすぐそこに見えた。
彼は取っ手から手を離し、弁を固定するための工具を差し出した。
水路が守られたと知ったネクロアは、城外の穀物倉庫を管理下に置いた。
略奪を禁じ、袋の数を帳簿へ記録する。
倉庫番は敵に鍵を渡すのをためらった。
「全部持っていくんだろう」ネクロアは受領書に署名した。
「市民へ配った分も残す。後で照合して」倉庫番は紙を読み、鍵を差し出した。
城壁の上から見ていた守備隊長は、そのやり取りを部下に報告させた。
敵が食料を奪うのではなく数えているという事実は、どんな降伏勧告よりも奇妙だった。
軍務卿は夜襲を命じた。
城門の小扉から出た兵が倉庫へ火を放とうとする。
ネクロアは炎の手前に薄い結界を展開し、燃え移る前に消した。
「食糧を燃やせば、あなたたちの家族が飢える」夜襲隊長は答えない。
彼もまた王都に妻子を残していた。
降伏を求める書状には、王国兵の名誉を傷つける言葉を一つも入れなかった。
ネクロアは書記が書いた『敗軍は直ちに武装解除せよ』という一文を、『武器を預けた者の帰宅を認める』へ直した。
リュシアは尋ねた。
「意味は同じではありませんか」ネクロアは首を振った。
「命令されるのと、帰れると知らされるのでは、人の動きが違う」書状を読んだ門番たちは、武器を置いたあとに何が起こるのかを初めて具体的に想像できた。
その翌朝、ネクロアは城壁へ向けて声を届けた。
「市民兵は武器を置けば帰宅できる。王国軍の正規兵も降伏を認める。城内の井戸と市場には手を出さない」返答は矢だった。
結界に当たった矢が地面へ落ちる。
リュシアが苛立つ。
「いつまで待ちますか」「相手が選べるだけの時間を」
その日の昼、城下の市場では食料の荷車が止められ、空腹の人々が門番に詰め寄っていた。
守備隊長は門を開けば敵が入ると恐れたが、荷車を通さなければ病人が先に倒れる。
彼は正門ではなく、荷だけを通せる小扉を開かせた。
門の外にいた魔導軍の術師は武器を置き、袋を一つずつ中へ運んだ。
市場にパンが届いたころ、城壁の上には白布が増え始めた。
武器を置いても殺されない。
その確信が、市民兵から守備兵へ広がっていった。
守備隊長が開門を決めた直後、見張り台から一本の矢が飛んだ。
ネクロアの隣に立つ伝令の肩をかすめ、後列が杖を構える。
「撃たないで」
ネクロアは矢の来た窓を見上げた。
そこには震える手で弓を持つ老人がいた。
「門が開くのを怖がっているだけよ」
彼女は自分の杖を地面に置き、開いた門へ最初の一歩を踏み出した。
見張り台の矢が止み、白旗が揚がると、守備隊長は城壁の鍵を確かめた。
背後では軍務卿の使者が怒鳴っていた。
「敵を通せば反逆だぞ」隊長は使者へ鍵を渡さなかった。
「市民を射よという命令には従えない」彼が門の閂を抜くと、最初に通ったのは武装した術者ではなく、水を積んだ荷車だった。
市民兵の少年が泣きながら道を空けた。
ネクロアは城壁を見上げ、勝利の合図を出さなかった。
いま必要なのは歓声ではなく、荷車を止めないことだった。
正門の閂が外れた。
パン屋の徒弟は、最後まで使わなかった三本の矢を守備隊長へ返した。
「帰っていい」と言われても、足が動かない。
門の外に並ぶ魔導軍の荷車が、いまにも突入してくると思っていたからだ。
だが先頭の車が止まると、降りてきたのは救護係だった。
彼女は城壁で負傷した兵を見つけ、王国兵の許可を待ってから包帯を広げた。
少年はようやく弓を置いた。
正門が正式に開いた直後、最初に問題になったのは軍の進駐ではなく市場の秩序だった。
食料を求める人々が押し寄せ、荷車が横倒しになりかけた。
ネクロアは結界で列を仕切り、リュシアに配給票を作らせた。
子供と病人を先に通す。
軍務卿の兵だった者も列に加わることを認める。
市民の一人が不満を口にした。
「敵にまで食わせるのか」ネクロアは答えた。
「空腹のまま武器を持たせるより、食べて帰ってもらう方がいい」その理屈に、誰もすぐには反論できなかった。
パン屋の徒弟は焼き上がった最初の一個を売り物にしなかった。
救護所へ届け、代わりに空の袋を受け取った。
翌日から、その袋が届けば焼きたてを回す合図になった。
配給所へ向かう途中、パン屋の徒弟はかつて自分が矢を向けた魔術師とすれ違った。
術師は倒れた荷車を起こそうとして、肩を痛めていた。
少年は無言で荷台を持ち上げた。
「さっき城壁にいたね」と術師が言った。
少年は頷く。
「撃たなくてよかった」術師は笑わず、荷車を押す方へ手を伸ばした。
「じゃあ今度は、一緒に運ぼう」少年は城壁で返した三本の矢を思い出した。
パン屋へ戻る前に、荷車をもう一台だけ運んだ。




