第十話 魔術師三千人が一つの王国を屈服させた
玉座の間は妙に静かだった。
国王は重い冠をつけたまま、差し出された停戦文書を見つめていた。
大広間の扉が開き、ネクロアがリュシアを伴って入る。
護衛は三人だけ。
国王はその少なさに怒りを覚えた。
「勝者なら軍勢を連れてくればよいものを」「ここで戦争を続けるつもりはありませんから」
降伏文書には、王家の存続より先に三つの約束があった。
魔術師の強制徴用を禁じること。
未払いの報酬を調べて支払うこと。
捕虜と行方不明者の帰還を進めること。
国王は目を上げた。
「そなたは勝者だ。もっと領土や金を求めると思った」ネクロアは答えた。
「奪えば、次の戦争の理由が残るだけです」国王は三つ目の条項を見つめた。
自軍の兵を帰すことまで敵から求められるとは、思っていなかった。
新しい王都の掲示板に、最初の苦情が貼られた。
『魔術師が市場で優先的に食料を買っている』。
ネクロアはそれを剥がさなかった。
自軍の兵に聞き取りをさせ、買い占めた分を店へ戻させた。
王冠を得た日に最初に裁くのが味方の過ちであることを、彼女は隠さなかった。
軍務卿が声を荒らげた。
「三千の反逆者が国家に命令するのか!」ネクロアは彼に向き直った。
「あなたが矢避けとして前線に送った術者の名前を、何人覚えていますか」軍務卿は答えなかった。
リュシアは名簿を開き、未払いの給金と行方不明者の欄を示した。
国王は軍務卿の手元から印章を取り上げた。
「この名簿を調べるまで、徴用命令の発行を停止する」大臣たちが息を呑んだ。
国王が初めて、自分の命令で動く仕組みそのものを止めた瞬間だった。
国王は長く沈黙したあと、文書に署名した。
歓声は起きなかった。
戦争が終わる瞬間は、意外なほど小さな音しか立てなかった。
だが王都の外で武装解除の鐘が鳴ると、人々は一斉に窓を開けた。
停戦文書が乾く前に、捕虜の帰還順をめぐって意見が割れた。
王国の役人は将校から返せと言い、リュシアは負傷者を先にするよう求めた。
ネクロアは双方の名簿を重ねた。
「病状と帰郷先で決めましょう」将校の一人が抗議すると、隣の兵が小声で言った。
「俺の村には迎えに来る者がいません」役人は初めてその兵の顔を見た。
帰還には道も食料も必要だ。
和平は、署名した瞬間から具体的な仕事になった。
停戦文書への署名を終え、国王が勅令にも署名すると、エリオットは写しを作るため書記を呼んだ。
「王都だけに貼れば済む話ではありません」村ごとに送る伝令、受領を確かめる帳面、未払い給金を訴える窓口。
国王は書記たちの仕事を見て、降伏が一枚の紙では終わらないと悟った。
ネクロアは剣も杖も振るわず、最初の伝令が門を出るまで待った。
王国軍の兵を帰すには、署名だけでは足りなかった。
橋が壊れた村には仮橋を架け、畑を踏み荒らされた農家には補償を約束する。
リュシアは捕虜名簿の端に「帰還確認」の欄を増やした。
名前を消すのではなく、帰宅したことを確かめるためだ。
書記が「全員の確認には何か月もかかります」と言うと、ネクロアは頷いた。
「だから今日から始めるの」
署名の翌日、王都の門には二つの旗が掲げられた。
王国の紋章と、魔導軍の白い救護旗だ。
王国兵は自分たちの旗を降ろさずに済んだことに安堵し、魔導軍の見習いは白旗の下で治療所を開いた。
門番はどちらの旗に敬礼すべきか迷ったが、担架が通ると両方の兵が道を空けた。
ネクロアはその光景を見て、ようやく戦争が終わり始めたのだと思った。
同じ井戸の前で王国兵と魔導軍の術者が順番を争った。
桶の縄が切れ、水面へ落ちる。
魔術師が風で桶を押し上げ、兵士が予備の縄を差し出した。
二人で引き上げた桶には、泥のついた水が半分しか残っていなかった。
兵士は黙って先に術者の水筒へ注ぎ、術者は残りを兵士の水筒へ分けた。
仲直りの言葉はなかったが、次の人のために二人で新しい縄を結んだ。
ネクロアは捕虜の引き渡し所へ向かった。
かつての敵兵が列を作り、名簿と照らし合わせて帰郷先を告げている。
レオナードは腕を吊り、アデルは剣を預けたまま立っていた。
二人は彼女に頭を下げた。
「我々は敗れた」「生き残った。まずはそれでいい」
布告が広場に張り出されると、文字の読めない人々が伝令の周りに集まった。
元徴用兵の女が「これで娘も連れていかれませんか」と尋ねた。
伝令は条文をもう一度読み、本人の同意が必要だと説明した。
女はその場で泣かなかった。
ただ、何度も同じ箇所を読んでもらい、覚えようとしていた。
紙が変わるだけでは足りない。
役人たちは村々へ写しを届ける準備を始めた。
数日後、廃修道院へ戻ったミリナは、新しい布告を壁に貼る役を任された。
本人の同意なしに徴用されないこと。
働いた者には報酬を支払うこと。
負傷者には敵味方を問わず治療を受ける道を残すこと。
ミリナは、最初の日に握りしめていた銅貨二枚の給金袋を取り出した。
「これ、まだ持ってたの?」とリュシアが尋ねる。
「捨てたら、三日間の仕事までなかったことになる気がして」ミリナは袋を布告の下へ置いた。
「次の子が二枚で働かされそうになったら、これを見せるんです」翌朝、布告を読みに来た若い術師が、袋の前で長く立ち止まっていた。
停戦の鐘が鳴った後、修道院の古い食堂で誰が新しい国の長になるかという議論が起きた。
三千人の術師の一人がネクロアを王にと叫び、拍手が広がる。
ネクロアは立ち上がらなかった。
「王を一人替えるために、ここまで来たの?」
彼女は空の椅子を三つ並べた。
町の代表、元王国兵、術師たち。
その三者が同じ卓で決められないことなら、自分一人にも決められない。
拍手は消えたが、代わりに議論が始まった。
その夜、ネクロアは捕虜名簿を閉じようとして、最後の頁で手を止めた。
帰還済みの欄には印が増えたが、行方不明者の欄はまだ白い。
勝利の祝杯を運んできた見習いは、机の上の名簿を見て引き返そうとした。
ネクロアは彼を呼び止めた。
「杯を二つお願い。今日はあなたも働いたでしょう」二人は窓辺で静かに飲んだ。
リュシアが戻ってくると、ネクロアは空欄の横に翌朝の照会先を書いた。
「終わったのに、まだ仕事?」「戦いは終わった。でも、待っている人にとっては、知らせが届くまで終わらない」
ネクロアは開かれた王都の門を振り返った。
兵士は剣を置き、商人は秤を出し、子供は水を運んでいる。
勝利の式典より先に、明日の市場が開けることを確かめた。
降伏文書を閉じたあと、ネクロアは玉座ではなく王都の井戸へ向かった。
包囲のあいだ水を汲めなかった人々が列を作っていた。
「征服した国の最初の仕事がこれですか」と問われ、彼女は頷いた。
「明日の朝も暮らせるようにすることが、勝った者の仕事よ」
停戦の数日後、勝利の報告は大陸を越え始めていた。
西方の城塞都市は王国の降伏を認めず、魔術師たちを『秩序を壊す反逆者』と呼び始めた。
ダリオは新しい地図を持ってきた。
「城塞の門は厚さ三間。正面突破は難しいでしょう」ネクロアは地図を見た。
「門が厚いなら、門を攻める必要はない」
停戦の鐘が鳴る夕暮れ、王都の広場で一人の少年が旧王国の紋章を刻んだ札を踏みつけようとした。
父親を失った子だった。
衛兵が止めるより先に、ネクロアが膝をついた。
「踏みたいほど憎いのね」少年は泣きながら頷く。
「でも、踏んでもお父さんは戻らない」
彼女は札を取り上げなかった。
代わりに、広場の水桶を指した。
焼けた店の主人と元王国兵が、並んで水を運んでいる。
「あの兵も、誰かを失ったのかもしれない。だから仲良くしなさいとは言わない。ただ、明日あの人が水を運ぶなら、あなたが飲める水は増える」少年は札を胸に抱え、黙って去った。
王宮では国王が降伏文書の写しを見つめていた。
使者は『西方の城塞都市が降伏を認めず、街道を封鎖した』と報告する。
王はネクロアの顔を見た。
「次はそこを征服するのか」
「通れない道を開くわ。戦わずに済むなら、それがいい」
「だが、あの城塞はこの王都より堅い」
ネクロアは窓の外の市場を見た。
人々は翌朝のために店を開け直している。
「門が堅いなら、門を攻めない方法を考える」
王が返事をする前に、遠い西の空で一度だけ赤い信号火が上がった。
停戦の鐘の余韻が、まだ王都に残っていた。




