第十一話 大陸最強の城塞都市が宣戦布告した
王国が降伏して七日目、ネクロアの陣営に一通の書状が届いた。
封蝋には、三重の城壁を象った黒い紋章が刻まれていた。
「グランベルク城塞国家からです」
副官リュシアが差し出すと、ネクロアは封を切った。
文面は短い。
『王国の降伏は認めない。
魔術師の軍勢が東街道に踏み込めば、敵対行為と見なす』
「国境を越えるな、ではなく、街道を通るな、ですか」
「彼らは東街道の通行税で生きているのよ。王国の新しい統治者に通行権を認めれば、税を徴収する根拠が揺らぐ」
ネクロアは地図を広げた。
王都と東方諸国を結ぶ街道の中央に、グランベルクは座っている。
山脈と深い峡谷に挟まれ、軍勢が通れる道は城塞の門を抜ける一本だけ。
三重の城壁には数百の射撃孔が並び、内側には十万人の兵を収容できる兵舎と倉庫があった。
「通れなければ、東部の村へ食糧が届きません」
「そう。降伏した王国の人々が最初に困る」
リュシアは眉を寄せた。
「戦争を避けるため、山越えの迂回路を造る案もあります」
「冬までに完成しない。工事に人を取られれば収穫にも響く」
ネクロアは書状の裏に返答を書いた。
『街道の民間通行を保障するなら、我が軍は城塞に近づかない。
三日以内に回答を』
グランベルクの大広間では、城塞総督ゲルハルトがその返書を握り潰していた。
「魔術師が街道の自由を語るか」
重臣たちが笑う。
だが、若い工兵長イザークだけは笑わなかった。
「総督閣下。王国軍五万人を退けた戦いの報告は確認されましたか」
「噂に尾ひれがついただけだ。平原で魔法が強いのは認めよう。だが城壁は別だ」
ゲルハルトは窓の向こうを指した。
外壁は谷底から三十メートル、基部の厚さは十五メートル。
さらに中壁と内壁が重なり、門は互いに一直線にならないよう配置されている。
「敵は門を破っても、次の門の前で身動きが取れん。射撃孔から矢と熱油を浴びせれば終わりだ」
イザークは黙って設計図を広げた。
「通常の攻城戦なら、その通りです。しかし敵は地面を凍らせ、火球を集中させたと聞きます。石材そのものが破壊される可能性を――」
「石材を壊せるほどの魔法があるなら、なぜ王国の城を焼き払わなかった?」
「それは……焼かずに降伏させたからでは」
広間が静まった。
ゲルハルトの目が細くなる。
「貴様は敵を称賛するのか」
「敵を正しく測りたいだけです」
「ならば城壁の点検に戻れ。軍議に口を出すな」
三日目の夕刻、返答の代わりに届いたのは、東街道の商人十二人が拘束されたという知らせだった。
商人たちは王都へ穀物を運ぼうとしていた。
通行税の支払いを拒んだわけではない。
ネクロアの支配下へ向かうという理由だけで荷を没収されたのだ。
リュシアが報告を読み上げると、紅蓮隊長ダリオが拳を握った。
「門を焼きますか」
「焼けば、拘束された商人まで巻き込む」
「では救出隊を」
「城内の構造を知らずに入れば、救出隊も捕まるわ」
ネクロアは机上に石を五つ置いた。
「城塞に住む民間人は?」
「約四万人。商人、職人、家族です」
「水源は?」
「北の山から引いた水路が三本。ただし地下で一本にまとまっています」
「食糧は?」
「長期籠城用の備蓄があります」
ネクロアは石を動かさず、しばらく考えた。
「水を止めれば勝てる。でも、それでは四万人を人質にするのと同じ。私たちはそれをしない」
ダリオが首を傾げる。
「それなら、どうやって」
「城塞を落とす方法と、城塞の人々を傷つけない方法を、同時に探すのよ」
翌朝、三千人の魔術師が東街道へ進軍した。
先頭を行くのは槍兵ではない。
結界隊の魔術師たちだった。
薄い青光の膜が隊列の上に伸び、崖からの落石を受け止める。
氷晶隊はぬかるみを固め、荷車の車輪が沈まないようにした。
「戦うための魔法で道を直すとは思いませんでした」
若い魔術師が呟く。
「戦争は、戦場まで生きてたどり着かなければ始まらないから」
リュシアが答えた。
道沿いの村人たちは戸口から軍団を見送った。
五万人の王国軍を退けた怪物の軍勢だと恐れる者もいた。
だが畑を踏み荒らさず、井戸の水を奪わず、壊れた橋を直して去る姿に、戸惑った顔を向ける者もいた。
夕方、山の切れ目に城塞が姿を現した。
三重の城壁が夕日を受け、谷を塞ぐ巨大な石の扉のようにそびえている。
外壁の上では鐘が鳴り、弩兵が射撃孔へ集まった。
城門の前には深い堀があり、橋は引き上げられている。
「見事な城ね」
ネクロアが言った。
「攻めにくいという意味ですか」
「造った人々の技術という意味よ。あれだけの石を積み、百年守ってきた。壊すのは簡単でも、造り直すには長い時間がかかる」
リュシアは彼女の横顔を見た。
「では、やはり降伏を勧告しますか」
「もちろん。三度まで」
ネクロアは白旗を掲げた使者を送り出した。
城壁から返ってきたのは、矢だった。
矢は使者の足元に突き立ち、石畳を震わせた。
使者は生きて戻ったが、白旗の布には赤い裂け目ができていた。
「総督の返事は?」
「『魔術師の頭を門に飾る』と」
ダリオが杖を握り直す。
ネクロアは目を閉じた。
「分かったわ。明日は城壁の魔法を調べる。攻撃はそれから」
「城壁の魔法?」
「見えないの? あの石の隙間を流れている光」
一同が城を見上げた。
何も見えない。
ネクロアだけが、三重の城壁を結ぶ淡い金色の脈動を見つめていた。
「ただの石の城じゃない。誰かが、とても古い術式を眠らせている」
その声に興奮はなかった。
ただ、難しい問題を前にした研究者の静かな好奇心があった。
城塞の避難路を調べた斥候は、石段の幅を測り直した。
「担架を二人で運ぶには狭すぎます」ネクロアは攻城図の端に赤い線を引いた。
城を落とせても、逃げる住民が詰まれば勝利とは呼べない。
攻撃開始の時刻は、その階段に仮設の手すりを付けられるまで遅らせた。
城塞からの使者は宣戦布告の封蝋を割らずに机へ置いた。
ネクロアはまず、使者が無事に帰れる道を地図で確認した。
宣戦布告を受けた側が使者の帰路を案じる。
その奇妙さに使者は戸惑い、後に城内でその話をした。
城塞の塔で、イザークは遠くの魔術師軍団を眺めていた。
彼の手元では、古い防御魔法の計測針が震えている。
これまで一度も反応しなかった針だ。
「……まさか、外から術式を見ているのか」
その夜、イザークは総督に緊急の面会を求めた。
だが扉の向こうから返ってきたのは、祝宴の笑い声だけだった。
城塞都市の総督は、魔導軍の使者に城壁の寸法を誇った。
使者は石の厚さではなく、門の外で待つ水売りの列を見ていた。
帰還後、リュシアは城塞の図面に水車の位置を描き加えた。
「あの壁は守りのためだけにあるんじゃない。内側の人間を閉じ込めることもできる」
ネクロアは攻城予定を一日遅らせ、城外の水路を先に調べるよう命じた。
敵の弱点を探すためではない。
壁が崩れたあと、飲み水を失う人を出さないためだった。
捕らえられた商人の家族は、城門に置いた荷を引き取れずにいた。
ネクロアは救出作戦の地図に、その荷車が通る幅まで書き加えた。
人質だけ取り戻しても、帰る道がなければ救出とは呼べない。
拘束された商人のうち一人は、自分の荷車がどこにあるか知らなかった。
リュシアは押収品の一覧を取り寄せ、名前のない荷を先に調べさせた。
疑いだけで生活の道具まで失わせるわけにはいかなかった。
拘束された商人の名簿に空欄があると知ったリュシアは、救出隊の作戦図に別の色で印を付けた。
名前の分からない者を最後に回さないためだ。
「戦う理由を忘れないで」とネクロアは言った。
地図の印は城壁の弱点ではなく、囚われた人のいる建物を示していた。
城塞を見上げたリュシアは、三重の壁の高さではなく、夜ごと同じ時刻に消える灯を数えた。
守備隊の交代では説明できない空白だった。
「壁を守るために、誰かが地下へ降りている」
ネクロアは望遠鏡を受け取り、灯の消えた場所に印をつけた。
次に調べるべきものが、ようやく見えた。
リュシアは城塞から届いた宣戦布告の紙を灯りに透かした。
表には堂々とした王印がある。
裏側には消された鉛筆の跡があり、「地下三層」とだけ読めた。
「宣戦布告を書く部屋で、なぜ地下の数字を?」
ネクロアは返事を急がず、その紙を観測班に渡した。
城壁の高さを誇る敵が、隠したがっているのは高さではなく深さかもしれなかった。
三度目の消灯と同時に、見張りの靴底へ鈍い振動が伝わった。
城壁の上に人影はない。
それでも石の下では、何か巨大なものが動いている。
リュシアは耳を地面へ近づけた。
規則的な音の合間に、金属を打つ三回の短い音が混じった。
「機械だけじゃない。中に人がいる」




