第八話 国王に届いたのは勝利報告ではなかった
国王は昼のうちに祝宴の開始を命じていた。
銀皿には焼いた鳥が並び、楽師は同じ曲を三度繰り返した。
軍務卿が「五万人の勝利は確実」と断言したからだ。
だが席を温めるはずの将軍は戻らず、伝令も来ない。
料理長が冷めた皿を下げようとすると、国王は怒鳴った。
「勝報が届くまで動かすな」そのとき門外で馬が倒れる音がした。
宴席の誰も、まず馬を助けようとはしなかった。
王宮の書記官は敗報の数字を読み違えたふりをした。
「五千ではなく五百でしょう」報告兵は首を振った。
数字を小さくすれば自分の命は助かるかもしれない。
だが戦場に残る仲間の命は助からない。
「五千です」と彼は言い直した。
広間が静まり返り、書記官の筆先だけが震えた。
玉座の間に入った伝令は、勝利の飾り布の下で膝をついた。
国王は報告書の封が破れているのを見て眉を寄せた。
「なぜそのような姿で来た」伝令は血のにじむ手袋を外した。
「途中で三度、伝令馬を替えました。これ以上遅らせられませんでした」軍務卿が報告書を取り上げる。
楽師の演奏が止まり、杯を持った貴族たちが黙った。
伝令は、自分の言葉がどれほどの怒りを招くか知っていた。
それでも、聞いた事実を一つも削らなかった。
杯が床へ落ちた。
国王は立ち上がる。
「嘘だ。三千の魔術師に五万が敗れるものか」伝令は泥だらけの報告書を差し出した。
前衛の崩壊、騎兵の停止、包囲失敗、総司令官アルゴスの降伏。
どれも数字だけでは信じられない事実だった。
「アルゴスを反逆者として処刑せよ!」国王の怒号に、廷臣たちは視線を落とした。
若い文官だけが口を開いた。
「陛下、彼が降伏を命じたため、多くの兵が生き残っています」「敗軍の言い訳をするな!」文官は唇を噛んだ。
彼の兄もその軍にいた。
生きているかどうかは、まだ分からなかった。
軍務卿は新たな策を出した。
「王都の門を閉ざし、住民を動員します。市街地に入れば魔法は使えません」国王は即座に頷いた。
市民が盾になるという意味を、二人とも言葉にはしなかった。
国王は敗北報告の戦死者数を見つめ、怒りに任せて紙を丸めた。
「負けた兵に食わせる米はない」若い文官エリオットは思わず顔を上げた。
「生き残った兵は、陛下の民です」軍務卿が睨む。
エリオットは声を震わせながら続けた。
「家族へ知らせなければ、王都では誰も明日の仕事に戻れません」国王は返事をせず、彼を退出させた。
だがエリオットはその足で書記たちを集め、帰還者の名前を掲示する準備を始めた。
城下では動員令が張り出された。
パン屋の主人が弓を渡され、井戸番の娘が土嚢を運ばされた。
人々は戦う相手の顔さえ知らない。
兵士の母親が役人に尋ねた。
「うちの息子は戻りますか」役人は答えられず、次の家へ向かった。
王宮の回廊では、勝利の飾り布が外されていた。
下働きの娘は、布を畳みながら呟いた。
「昨日まで、あれを飾れば兵士が帰ると言われていたのに」料理長は返事をせず、祝宴のために用意したパンを籠に移した。
「城下の避難所へ持っていけ」娘が驚くと、料理長は肩をすくめた。
「冷めたパンを王様が食べるとは思えん」小さな判断が王宮の内側から始まっていた。
国王が敗北を認めるより先に、働く者たちは戦争の終わりに備え始めていた。
その頃、ネクロアの野営地では捕虜の名簿が作られていた。
リュシアは王都へ届ける書状を読み上げる。
「捕虜の生存確認を家族へ通知する。王都への食糧搬入は妨げない。市民兵の武装解除を求める」リュカは顔をしかめた。
「相手が信じますか」「信じさせる方法を考えるのが次の戦いよ」
ネクロアは解放する捕虜に、家族宛ての短い手紙を持たせた。
武器は返さない。
だが帰路の水と食料は渡した。
王都の門前で兵士が手紙を掲げたとき、城壁の上の弓兵は撃てなかった。
自分の弟の筆跡を見つけた者がいたからだ。
軍務卿は王都の門を閉ざすよう命じたが、門番の隊長は商人の荷車を見て迷った。
荷には薬草と小麦が積まれている。
これを止めれば病院が困る。
命令に逆らえば自分が罰せられる。
隊長は門を閉じたまま、荷車を城外の倉庫へ移させた。
せめて雨に濡れないようにするためだった。
彼はまだ反抗する勇気を持てなかった。
それでも、命令どおりに荷を焼くことだけはできなかった。
小さなためらいは、後に門が開くときの最初の一歩になった。
掲示板の準備を命じた文官エリオットには、前線に出た兄がいた。
同僚は、彼が敗北報告を読んで手を震わせるのを見ていた。
国王の前では黙っていたが、退室すると彼は書庫へ走った。
捕虜の名簿が王都へ届く可能性がある。
ならば、家族へ知らせる仕組みを先に作らねばならない。
彼は役人たちを集め、各地区の広場に掲示板を立てるよう指示した。
軍務卿は「敗北を宣伝するのか」と怒鳴ったが、エリオットは頭を下げた。
「生きている者を生きていると知らせるだけです」
翌朝、エリオットは掲示板の前に椅子を並べた。
列の最後尾には杖をついた老人がいて、息子の名を尋ねる声が震えていた。
書記が読み上げた名簿に名前はない。
老人は「死んだのか」と聞いた。
エリオットは首を振る。
「分かりません。分からないことは、分からないと書きます」老人は椅子に腰を下ろし、しばらく立てなかった。
エリオットは次の報告が届く時刻を伝え、その名を照会帳の最初に記した。
王宮の門に貼られた戦果報告は、夜のうちに何度も張り替えられた。
書記官は古い紙の裏に残った糊を見つけ、剥がした順番を控える。
最初の報告では死者が百二十、次は四十、最後にはゼロだった。
軍務卿は「誤記を直しただけだ」と言う。
書記官は問い返した。
「では、最初の百二十人はどこへ帰りましたか」
王宮の広間が静まり返る。
答えのないまま、彼は三枚の紙を同じ板に並べた。
椅子に座った老人のそばで、別の役人が水を配り始めた。
昨日までは国王の許可が必要だと言っていた男だ。
「これは勝手にやってよいのですか」と役人はエリオットに尋ねた。
「待っている人が倒れてから許可を取るつもりですか」役人は何も言わず、桶をもう一つ運んだ。
名簿の前には、報告を待つ家族のための小さな日陰ができた。
夕刻、書記が名簿の空欄を消そうとした。
「『確認中』と書くより『帰還予定』の方が人々は安心します」エリオットは筆を止めた。
「安心させるための嘘は、次の報告で必ず人を傷つける」書記は消しかけた空欄を戻し、その横に照会日を記した。
答えがないことを公にするのも、役所の責任だった。
名簿を張り替えた朝、エリオットは兄の名を見つけた。
『負傷、治療中』。
安堵した直後、隣に立つ母親が、空欄のままの息子の欄を指さした。
「どうしてうちの子だけ」エリオットは答えを持たなかった。
代わりに母親の名前と住所を聞き、前線への照会文を書いた。
自分の兄だけを喜べる場所ではない。
彼は名簿の前に残り、最後の一人が帰るまで椅子を片づけなかった。
王宮の書記は解放された兵の証言を二通に写した。
一通は国王へ、もう一通は自分の机の引き出しへ。
王命で前者が破られても、後者まで消えるとは限らない。
王都へ戻った伝令は勝利の祝宴の準備を見た。
机には杯が並び、まだ誰も戦死者の名を知らない。
伝令は泥のついた靴で広間へ入り、報告書を王の前に置いた。
読み上げられたのは戦況より先に、帰らなかった兵の人数だった。
翌日、掲示板に新しい照会結果が届いた。
老人の息子は別の救護所に収容されていた。
生存の文字を見た老人は、しばらく紙を指でなぞった。
しかし隣の父親が自分の子の欄を指すと、エリオットはまだ『確認中』としか答えられなかった。
「昨日と同じか」と父親は言う。
「同じです。でも、照会先は増やしました」エリオットは記録帳を開き、返事が来ていない部隊を一つずつ読み上げた。
翌朝、王宮の掲示板には二種類の紙が並んだ。
国王が出させた『我が軍、戦線を整理中』という布告と、書記官エリオットが書いた『帰還者・負傷者・消息確認中』の名簿である。
布告の前を人々は通り過ぎ、名簿の前だけに長い列ができた。
「兄の名前がありません」
まだ幼い少女が言った。
エリオットは名簿をめくり、捕虜交換の報告書に同じ姓を見つけた。
ただし名前の一字が違う。
「この人だと断言できない。確認して、ここに書きます」
少女は唇をかんだ。
「明日も来ていいですか」「何度でも」
その夜、軍務卿はエリオットを呼びつけた。
「敗戦を大きく見せるな。掲示板を撤去しろ」彼は一枚の紙を差し出した。
そこには王宮が公表した兵数と、前線から届いた兵数が並んでいる。
差は、帰還の見込みすら調べられていない人々だった。
「撤去するなら、この差の説明を文書でください」
声は震えたが、紙は引っ込めなかった。
軍務卿が机を叩いたとき、扉の外で別の役人が言った。
「名簿を書き写しました。消しても、もう一枚あります」
翌日の掲示板には新しい名前が三つ増えた。
少女の兄はまだ見つからない。
だが空欄の横には、照会先の部隊名と回答期限が書き足されていた。
勝利を待っていた王都は、初めて敗北の数ではなく、一人ずつの帰還を数え始めた。
王宮の地下で、老いた印章係は書記官の控えを受け取った。
封蝋には勝利を意味する紋章が押されている。
「これでは内容と違います」と若い書記官が言った。
老人は黙って印章を外し、無地の封蝋を流した。
「嘘の印を押すくらいなら、印がない方がましだ」
その小さな封筒が、最初の正しい敗戦報告として城門を出た。
少女が掲示板に書かれた兄の名前を指でなぞる。
書記官は王家の紋章を外し、その隣に立った。
広場の向こうから、数字を消すよう命じられた兵が近づいてくる。
「私が書いた」と書記官は先に告げた。
少女の指が離れるまで、彼は掲示板の前を動かなかった。




